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2014年11月14日 (金)

山陽道(福川駅→大道駅)

2014年10月28日

福川駅(JR山陽本線)・・・福川宿・・辰尾神社参道・・真福寺・・本陣跡・・・西町第2踏切(山陽本線)・・・夜市川土手・・・(山陽自動車道)・・・原踏切(山陽本線)・・(国道2号)・・夜市地区・・・赤坂峠・・・船山神社・・・光西寺・・・桜田八幡宮鳥居・宮島様・戌辰戦争凱旋記念碑・・・戸田市観音(心光寺)・・・辻地蔵・・やなぎ橋(夜市川)・・・国道2号・・山田家本屋跡・・・(山陽自動車道)・・旧道・・・魚切橋(苔谷川)・・・ドライブイン天野屋利兵衛・国道2号・・旧道・・椿峠・郡境碑・(防府市)・・・国道2号・・・旧道・・・国道2号ガード・・・地蔵祠・・・円通寺橋(新川)・・・円通寺・・・(国道2号)・・・富海宿・・富海小学校・・脇本陣跡・・本陣跡・・中町踏切(山陽本線)・・・橘坂第1踏切(山陽本線)・・・橘坂・・手懸岩・・茶臼山古戦場跡・・浮野峠改修碑・・浮野峠・・・(国道2号)・・・浮野駕籠立場跡・・又兵衛屋敷(茶屋)跡・・・浮野地区・・阿弥陀境界石・・徳地屋敷跡・道標・・春日燈籠・・春日神社御旅所・・昭和橋(柳川)・・・三の坪橋(馬刀川)・・・道標・・・県道54号・・・国衙跡交差点・・東林寺・・周防国衙跡・・・多々良大仏・・・長池・・毛利邸(毛利氏庭園・毛利博物館)・・・獅子殿御旅所・・佐波神社・・周防国衙跡標柱(西北隅)・・三方荒神宮・・周防国分寺・・武光家屋敷跡・・萬行寺・・・萩往還合流地点・宮市宿・・本陣跡・・宮市観音・・脇本陣跡・・・山頭火生家跡・・・萩往還分岐地点・・・土橋(土橋川)・・・(県道54号)・・・佐波川土手・・・大崎橋(佐波川)・・山陽自動車道・防府バイパスガード・・・玉祖神社・・・明照寺・・・玉祖神社石灯籠・・・佐野一里塚跡・・・西ヶ原下池・・・佐野峠・駕籠建場跡・・・山陽自動車道ガード・・・岩淵観音寺・・・孝婦石川阿石の碑・・・岩淵地区・・・瀬十郎の墓・・・新大橋(横曽根川)・・・国道2号ガード・・旧国道・・・大道小学校・・・大道駅(JR山陽本線)

  福川宿を抜け夜市川沿いを進み、赤坂峠から戸田市に下り、椿峠へ上って郡境碑で防府市に入った。国道2号の車列から逃れ、周防灘を眺めながら富海宿へ下って行った。
 よく整備された橘坂を上って浮野峠を越え、周防国の国衙跡の防府の市街地へ入り、毛利庭園で一休みして見覚えある萩往還との合流地点に出て宮市宿を進んだ。
 萩往還と別れ、佐波川の土手に出て大崎橋を渡って玉祖神社で黒柏鶏を見て、正面からの眩しい西日を受けながら佐野峠へ向かう。駕籠建場跡からの眺めを楽しみながら小休止して、峠から下って岩淵観音へ寄り、岩淵地区から大道駅に向かった。

  【ル-ト地図】(福川駅(58.1km)→大道駅(90.4km)まで) 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6166福川宿に入る。《地図

東町・中町・中市・西町から成り、伝馬14疋を常備。将軍家へ輿入れする篤姫一行が宿泊している。

Img_6167辰尾神社参道

鳥居の横が脇本陣跡という。

Img_6169真福寺

脇本陣としても使用され、周防三福寺の一つ。あとの2寺はどこか?

本陣町に進む。

Img_6180本陣跡福田家の門

Img_6179説明板

西町第2踏切(山陽本線)を渡り、御姫町の夜市(やじ)川の御姫橋のたもとに出る。寛永12年(1672)に夜市川の南の(御姫)開作が行われた。徳山藩主の直営の開作で、その資金お姫様の内証金(へそくり)だったとか。「姫君のへそくり」とは愉快な話だ。

Img_6187夜市川沿いを行く。《地図

Img_6188若山城跡方向 《地図

陶氏の本城で、陶隆房(後の晴賢)はここから出陣し、山口の主君の大内義隆を攻め滅ぼした。

山陽自動車道をくぐった先の夜市川と的場川が合流するあたりが夜市一里塚跡というが、何の痕跡も標示もない。《地図

夜市川から離れ、原踏切(山陽本線)を渡る。

Img_6201国道2号を横断して夜市地区へと入る。《地図

正面の細い道

Img_6203この突き当りで左に曲がって行く。

かつては矢地で栄えた所だ。

Img_6204赤坂峠への上り。

Img_6207赤坂峠 《地図

給水塔が立ち、西徳山総合グラウンドになっていて駕籠建場があった峠という感じはない。

西へ下って戸田(へた)市地区に入る。

Img_6215船山神社 《地図

戸田の地名由来という神社。戸田駅・戸田小学校がある。手前は碇(いかり)石で素盞鳴尊が、船形の山を船山と名づけたという。山を船に見立てたので周囲に碇石を配置したという。碇石はいくつもあり(5つ?)、この先で会った地元の人はそのいくつかを探し当てたと言っていた。

Img_6213説明板

Img_6216光西寺

Img_6217説明板

享保の大飢饉の餓死者を弔う石納塔は境内でなく、県道27号沿いにあるようだ。

Img_6219右に桜田八幡宮参道の鳥居・宮島様の祠・戌辰戦争凱旋記念碑 《地図

Img_6220宮島様

安芸の宮島(厳島神社)の大鳥居のように水の中にあるからこう呼ばれているだろう。

Img_6222説明板

Img_6226戌辰戦争凱旋記念碑

このそばにも碇石が1つある。

Img_6225説明板

Img_6227心光寺(戸田市観音)

Img_6230南無阿弥陀仏石塔婆(天明3年(1783)建立)

宝暦12年(1762)の飢饉供養塔

Img_6229説明板

Img_6232戸田市の家並み

Img_6233辻地蔵堂(右) 《地図

Img_6234汗をかいて凶事を知らせる「汗かき地蔵」

汗かき地蔵は、高野山大王町(三重県)にもあり、日光街道の宇都宮宿の一向寺には「汗かき阿弥陀」が鎮座する。

Img_6235説明板

やなぎ橋(夜市川)を渡り、国道2号に出る。

Img_6238山田家本屋跡 《地図

江戸時代に湯野・戸田地区の領主であった堅田氏の家臣の山田氏の屋敷跡。幕末には萩(長州)藩主の毛利敬親村田清風、昨日通った善宗寺に墓がある女流歌人中山三屋などが立ち寄ったそうだ。

山陽自動車道をくぐって、すぐ右に旧道に入り椿峠へ向かう。

Img_6244椿峠への上り。《地図

この手前の苔谷川の魚切橋あたりに戸田一里塚があったようだ。

Img_6248ドライブイン天野屋利兵衛(左)で国道2号に出る。《地図

右に旧道のような道が続いているが、途中で荒れて来て歩行困難となる。

Img_6249忠臣蔵や歌舞伎で有名な天野屋利兵衛は、四郎谷の出身で父は徳山藩家老の神村将監という伝説があり、四郎谷の海が見える小高い山の上に、天野屋利兵衛生誕地碑があるそうだ。《地図》(四郎谷はこのあたり)
今は営業していないようだが?忠臣蔵の陣太鼓はもう鳴らないか。

信号はなくひっきりなしに車が通る国道2号を、なんとか渡って郡境碑の立つ旧道に向かう。

Img_6253左に旧道に入る。《地図

Img_6252これは案内板で郡境碑はここを上った所にある。

Img_6254草ぼうぼうの道を進む。

Img_6255郡境碑(嘉永6年(1853)・右下は国道2号)

「従是東都濃郡」・「従是西佐波郡」で、都濃郡戸田村と佐波郡富海村の境だった。今は周南市から周防の国衙のあった防府市に入る。

ここを直進して右へ国道に下りる。

Img_6259しばらく歩道のない国道歩きとなる。

Img_6262左に旧道に入ってほっとする。《地図

右にカーブして国道2号のガード下をくぐって反対側に出る。

Img_6265気分のいい道をどんどんと富海(とのみ)へ下る。《地図

Img_6266周防灘が見える。

昔は険しく暗く寂しい椿峠を越えた旅人は、海が見える明るい景色と、富海宿が近づいたことにほっとしただろう。今は国道2号の車の列から逃れてやれやれだ。

Img_6270地蔵の石祠

地蔵には明和2年(1765))の銘があるそうだ。後ろの新川のゲンジボタルの幼虫は育ったのだろうか。

Img_6274円通寺 《地図

慶応2年(1866)に設置された徳山藩軍西衛団三小隊の陣屋になった。

富海交差点(国道2号)を渡り富海宿に入る。

Img_6281脇本陣跡入江家(富海小学校の先の左)

東町、中町、新町から成り、漁業と船運で栄えた。中町の中央に高札場、本陣、天下御物送り番所が置かれた。

Img_6285本陣石川家跡の門

門前の説明板と門扉のポスターが目障りだ。薩摩から江戸に向かう篤姫も休憩した家。
この向いが天下御物送り番所跡(公用の荷物、文書などの輸送の継場)

Img_6287説明板

Img_6289飛船(とびふね)問屋大和屋政助の船蔵

ここを入った海沿いか?道は続いていないようで引き返してしまったが船蔵は現存している。惜しいことをした。飛ぶように速く航行したことから「飛船」と呼ばれるようになったそうだ。詳しくは『故郷の幕末史』で。

Img_6294飛船問屋跡の石垣

この先の墓地の西端あたりに富海一里塚があったという。中町踏切(山陽本線)を渡り、富海駅の南側を通って行く。

Img_6302富海の海

砂浜は海水浴場になっている。

橘坂(きつさか)第1踏切(山陽本線)を渡ると橘坂(たちばなざか)の上りとなる。

Img_6308県道58号の手前を旧道に入る。《地図

左の石垣に「旧山陽道入口」の案内板。

Img_6312橘坂の急な上り。

Img_6315東海道の薩埵(さった)峠から眺めに似ている?

Img_6323手懸岩から

Img_6322説明板

「・・・其様東海道の薩埵峠によく似たり・・・」とある。

Img_6327茶臼山・県道58号・茶臼山トンネル・山陽本線方向の眺め

見る方向は違うが、こちらの方が今の薩埵峠からの眺めに似ているだろう。

Img_6326説明板

Img_6329茶臼山古戦場跡

Img_6330説明板

Img_6331大内輝弘の祠

Img_6339浮野峠改修碑(明治4年)

ここは平坦地になっているが浮野峠はこの先だ。

Img_6341説明板

Img_6346石畳道の名残り

樹木には名札がついていて勉強になる。

Img_6347浮野峠へ着く。 《地図

Img_6349竹林の間を下って行く。

Img_6351国道2号の上を越える。

Img_6354駕籠立場跡 《地図

斜め向かい側が又兵衛屋敷(茶屋)跡

Img_6355説明板

浮野地区に入って行く。浮野は富海宿と宮市宿の中継地で半宿だった。

Img_6359阿弥陀境界石

3kmほど北方の重源の創建という阿弥陀寺への道標とも、阿弥陀寺の四至の境界石の一つだという説もある。

Img_6370説明板

Img_6372地図(明治末~大正初期)

今も春日燈籠はあるが、往還松はない。

Img_6365徳地屋敷跡(大名休憩所)

道標は金比羅社と阿品社へのもので、ここに移設されたのだろう。

Img_6364説明板

Img_6366春日燈籠

Img_6376春日神社御旅所(柳川土手) 《地図

春日神社は山陽自動車道の先のかなり北方にある。

昭和橋(柳川)を渡って今宿地区に入る。三の坪橋(馬刀川・橋の銘板は「馬刃川」となっている)の手前に今宿一里塚跡があったようだ。

Img_6385道標(文政6年(1823)・正面右の民家の石塀前)

「不許葷酒入山」で、周防国観音霊場21番大光寺、22番現観寺への道標で、共に廃寺になって極楽寺《地図》に合併されているという。

県道54号と合流するあたりが、古代山陽道の勝間の駅家跡のようだ。
国衙(こくが)跡交差点で右折し北上し、周防国衙跡の間を通って行く。

Img_6392周防国衙跡(左右一帯) 《地図

Img_6397説明板

Img_6401多々良大仏 《地図

東大寺再建の立役者、重源の作と伝える。

Img_6402説明板

重源は周防の国司だった?

Img_6405長池

毛利邸(毛利氏庭園と毛利博物館)の外堀か。

Img_6406毛利邸の門

Img_6413紅葉

Img_6412毛利博物館

今日の行程は防府駅か大道駅までだ。ちょうど2時頃で中途半端な時間だ。ここから大道駅までは10km以上はある。佐野峠もあるし、ここでゆっくりして防府駅までにしようかと迷うが、天気もいいし、歩くのが本業だし本道駅まで行くことにした。

Img_6421佐波(さば)神社 《地図

合祀した四社の金切神社が周防国の惣社だった。

Img_6422由来

Img_6427三方荒神

台所や竈(かまど)の神が一般的だが、ここのはペットの守護神だと。

Img_6428由来

Img_6430_2周防国分寺仁王門

Img_6433金堂

安永8年(1779)に上棟、天明8年(1788)頃に再建完成。

Img_6434説明板

Img_6441武光家屋敷跡(防府天満宮大宮司・右) 《地図

この先で左に右に枡形に曲がって行く。

Img_6445萩往還合流地点 《地図

左から来る萩往還と合流し、宮市宿を西進する。右折すれば防府天満宮の参道だ。
防府天満宮・宮市宿の本陣跡・宮市観音などは『萩往還④』に記載。

Img_6454山頭火生家跡 《地図

終(つい)の棲家は香川県松山市の「一草庵」(四国遍路道(愛媛県⑧))に記載。

Img_6453説明板

Img_6455萩往還分岐地点 《地図

山陽道は直進、萩往還は右折。

Img_6461竹内酒造(創業明治10年)

仕込み水は佐波川の伏流水だそうだ。

県道54号と交差するあたりに「千日町一里塚」があったという。県道54号を渡り北西から南西に進み、佐波川に向かう。

Img_6468佐波川土手を行き、正面の大崎橋を渡る。《地図

かつては「大崎の渡し」があった。土手下の植松八幡宮には寄らなかった。

Img_6482玉祖(たまのおや)神社 (周防国の一宮 ) 《地図

この地を「魏志倭人伝」が、邪馬台国に次ぐ大国であるとする投馬国に比定する説もあるというが、その根拠は何なのか?
「南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸」

Img_6479由緒

Img_6489黒柏鶏

Img_6480説明板

明照寺、玉祖神社石灯籠を過ぎて行く。

Img_6498佐野一里塚跡(ガードの内側に標柱)

標柱には「一里塚跡 小瀬川より十九里 赤間関迄十七里」で、小瀬川を渡って周防国(山口県)に入って、早や19里で、山陽道の終点の赤間関(下関)までは残り17里となった。なんとなく寂しい感じだ。

もう4時近くで強い西日の逆光を受けながら行く。

Img_6504西ヶ原下池沿いを進む。

Img_6506佐野峠と佐野墓地への分岐の標識(正面)で左に山道に入る。

Img_6509道筋ははっきりしていて迷うこともない。《地図

Img_6510気分のいい道だ。

少し時間が気になるが、日の入りにはまだ余裕があるだろう。

Img_6517佐野峠から佐波川、大海湾方向

その向こうは秋穂の山並みか? ここは駕籠建場跡で、大田南畝が「山陽道第一の佳景」と書いている眺めだ。

Img_6512説明板

Img_6524下りの方がやっかいな道だった。

道はぬかるんでいる。

Img_6527しばし雑草をかき分けて進めば車道に出る。《地図

山陽自動車道をくぐり、左に入り岩淵観音寺に寄る。

Img_6536梵鐘(寛永19年(1642)) 《地図

後ろのイチョウの黄葉の方が見事だ。境内に磨崖仏の案内標識があった。時間も気になるが、もう大道駅に向かうだけだし行こうと思ったら、「登り口 (所要時間30分)」であっさりと引き返した。

Img_6534由緒

Img_6533説明板(梵鐘)

Img_6540「孝婦 石川阿石の碑」(右端)・「近藤芳樹先生生誕之地碑」

阿石(おいし)は周防三孝女の一人。昨日は徳山で阿米の像を見た。もう一人の下関の小月のお政にもいずれ出会うだろう。

Img_6544説明板

Img_6545岩淵地区に入る。

宿馬十匹の半宿だった。

Img_6549瀬十郎の墓(新大橋(横曽根川)の手前) 《地図

このあたりが入り海だった頃、瀬十郎という若者が蛤を食べて中毒死したという。墓を粗末にすると祟りがあると言い伝えられているとか。「触らぬ神に祟りなし」でずっとこのままか。

新大橋を渡り、国道2号ガードをくぐる。

Img_6561旧国道跡を進み、ここから左に入る。《地図

大道(だいどう)小学校の先で左折して大道駅に向かった。

Img_6565大道駅(JR山陽本線)

ちょうど5時だ。今日も延べ9時間以上よく歩いた。

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