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2014年11月11日 (火)

山陽道(高水駅→福川駅)

2014年10月27日

高水駅(JR岩徳線)・・・橿原神社・呼坂宿・・本陣跡・・呼坂橋(中村川)・・吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地碑・・西善寺(脇本陣跡)・・・古市坂・・地蔵祠・・・大江踏切(岩徳線)・・・国道2号・・・勝間歩道橋・旧道・・・勝間地区(間の宿)・・(勝間駅)・・国道2号・・・跨線橋(岩徳線)・・・遠見交差点・旧道・・・国道2号・・・(岩徳線ガード)・・・(山陽自動車道)・・・垰交差点・・・旧道・・・郡境碑・(下松市)・・・(周防久保駅)・・・(岩徳線)・・・二ノ瀬橋(切戸川)・・切山交差点・・久保市宿・・由加社・久保市橋(切戸川)・・本陣跡あたり・・恵比須社・・里程標・・・塩売垰・石灯籠・恵比須社・・・生野屋交差点(国道2号)・・生野屋踏切(岩徳線)・・・教応寺・・・花岡宿・・花岡勘場跡・御茶屋(本陣)跡(花岡ふるさと花だん)・・法静寺・出世福徳稲荷大明神社・・閼伽井坊・花岡八幡宮・・・(周防花岡駅)・・・(山陽新幹線)・・・(国道2号)・・・和田橋(末武川)・・・(周南市)・・見上ケ坂・・・順正寺・・・西光橋(西光川)・・・山縣本店・・・(山陽新幹線)・・・桜木交差点(県道347号)・・白見ケ森と伏見稲荷社跡・・旧道・・早乙女坂・・・遠石の宮水・・県道347号・・旧藩舟方跡(御船蔵跡)・・旧道・遠石地区・・遠石八幡宮・・・梅花橋・・・影向石・・宝性寺・一畑薬師道標・念仏坂・・遠石一里塚跡・一畑薬師道標・・県道347号・・・青山町交差点・さすり仏・旧道・・・孝女阿米像・・・楊柳橋(東川)・徳山宿・徳山城下・・桜馬場交差点・・益田親施幽閉地・・花畠練兵場跡・・徳山藩作事方跡・・藩武方跡・・徳山藩館邸跡・・祐綏神社・・・福原元們幽閉地・・・山陽道・・・相生橋(山田川)・・・(山陽新幹線)・・・浦山交差点(県道347号)・・旧道・・・道標・・・国道2号ガード・・川崎観音・・・音羽橋(富田川)・・・大安寺・・・道源休屋跡・・・善宗寺・・・華厳寺・・・道標・・・道標・・山崎八幡宮・・富田宿・・浄真寺・・浄真寺橋・・・祥雲寺・・・(県道347号)・・・温田峠・萩御水茶屋所跡・温田観音堂・温田一里塚跡・駕籠立場跡・・・県道347号・・・旧道・・・福川駅(JR山陽本線)

  今日の行程は峠越えなどもない起伏の少ない道で、好天に恵まれて徳山の中心街を通り、福川駅まで進んだ。

  【ル-ト地図】(高水駅(24.8km)→福川駅(58.1km)地点) 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5818呼坂宿へと進む。《地図

応安4年(1371)の今川了俊の旅日記「道ゆきぶり」に 「えび坂と言う里の寺の侍りしに泊まりぬ」とあり、えび坂が転じてよび坂となったとか、宿の地形がえびに似ていることから転じて呼坂になったともいう。

Img_5824本陣跡河内家

Img_5826説明板

Img_5829呼坂宿の家並み

呼坂橋(中村川)を渡る。中村川を挟んで東を新町、西を西町と呼んだ。

Img_5833吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地碑(右) 《地図

向い側あたりが木戸孝允の祖父で町医者の藤本玄盛旧宅跡という。

Img_5835碑文

Img_5836説明板

Img_5837宿場風情の残る家並みが続く。

Img_5839半田ミシン商会

Img_5844旧家

Img_5845西善寺 《地図

脇本陣跡を勤めていた。参道あたりに高札場があった。

呼坂宿を抜けて行く。

Img_5847古市坂を上る。《地図

欽明寺坂(欽明路峠)、丸子坂(中山峠)とともに交通の難所の一つだったというが距離は短い。途中の左から右へ大きくカーブして行く。コックリ曲がりというそうだ。坂上あたりに地蔵の祠がある。

Img_5849坂上近くは急坂だ。

Img_5852岩徳線・国道2号の方へ下って行く。

国道2号の手前で左折して行く。

Img_5856岩徳線沿いを行く。《地図

車道のガードをくぐり大江踏切を渡り、岩徳線沿いを進み国道2号に合流する。周南市勝馬の歩道橋から左に旧道に入ると勝間地区だ。

Img_5866勝間地区 《地図

間の宿だったというが、宿場を偲ばせるものはない。

勝間駅を左に見て再び国道2号に出て、跨線橋で岩徳線を越え、遠見交差点で旧道に入る。そのあたりに遠見の一里塚があったようだ。

Img_5874やっぱり旧道はいいね。《地図

Img_5877トンネルのような所だ。

Img_5878樹木の覆い被される道だった。

このあたりは《地図》に道筋の標示はない。

国道2号に出て岩徳線のガードをくぐったあたりに茶屋と御駕篭立場があったらしい。山陽自動車道をくぐり、垰(たお)交差点の先で左に旧道に入る。郡境碑から周南市から下松(くだまつ)下松市に入る。

Img_5893郡境碑 《地図

「東 周防之国 熊毛郡」・「西 周防の国 都農郡

大田南畝(蜀山人)の九州から京都に上る道中記「小春紀行」(文化2年(1805))に、「松原をゆけば道の左に従是東熊毛郡、従是都濃郡といえる杭なり、わびしき人家あり、たお(垰)市といふ」。同じ年に大田南畝は長崎の浦山街道(時津街道)の「鯖くさらかし岩」で狂歌を詠んでいる。

下松(市)の由来話:「推古天皇の頃、鷲頭庄青柳浦の松に大星(北辰星ともいう)が降り、七日七夜光輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」とのお告げがあった。それから3年後に百済から琳聖太子がやって来た。人々は社を建て大星を祀った。このことから「星が降った松」が「降り松」となり後に「下松」となった」

岩徳線をくぐり、二ノ瀬橋(切戸川)を渡って切山交差点の先で久保市宿に入る。

Img_5908久保市宿の家並み 《地図

Img_5912由加神社(久保市橋の手前左側)

Img_5913由来

久保市橋(切戸川)を渡った先に本陣跡(空地?)があるらしいが表示などはないようで分からず。

Img_5916旧家

久保市宿にはあまり見どころはなかった。

Img_5924塩売垰(しおりがたお)へ上って行く。《地図

右側には恵比須社の祠がある。

Img_5922西蓮寺

左は明治時代に米の品種改良に尽力した篤農家の「小林武作君之碑」

Img_5923里程標

「距都農郡役所二里八合八丁」?

Img_5926急坂となる。

Img_5930塩売垰 《地図

このあたりは高台の平坦地になっている。右側(北側)を岩徳線と国道2号が通っている。「汐入峠」とも言われ、かつてはこの辺りまで海が入り込んでいたのではないかという。
岡市一里塚があったのもこのあたりか。

Img_5931北側の岩徳線・国道2号方向の眺め

下って生野屋交差点(国道2号)を横切り、生野屋踏切(岩徳線)を渡って左折して花岡宿へと進む。生野屋には古代山陽道の生屋の駅家(えきか・うまや)が置かれた。

Img_5942教応寺 《地図

山陽道筋で徳山藩の代々の藩主が立ち寄った記録が残っているそうだ。

Img_5945花岡宿の家並み

花岡八幡宮の門前町で、本陣(御茶屋)、天下物送り番所、勘場(代官所)などが置かれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、名護屋城への往復道中で花岡に泊まっている。

Img_5959花岡勘場跡・本陣(御茶屋)跡 《地図

萩本藩の役所(代官所)跡で、今は「花岡ふるさと花だん」になっている。正面の槇柏の木の下に、江戸に向かう途中で病になった長州(萩)藩の13代藩主毛利敬親の心をなぐさめたという「春雨桜」の碑がある。(「春雨」は敬親の雅号) 長州戦争で使われた?大砲の砲身も置かれていた。

Img_5956説明板

Img_5953勘場・御茶屋・御番所図

Img_5968法静寺境内から

門前に堂々と出世福徳稲荷大明神社の鳥居が立っている。法静寺は白狐伝説に由来する寺なのだ。

Img_5966出世福徳稲荷大明神社(法静寺内)

代官所(勘場)で書物がなくなり、白狐の墓に願を掛けたところ見つかったお礼に代官所が建てたという稲荷社。「きつねの嫁入り」舞台の作成中か。

Img_5965きつねの嫁入り(稲穂祭)

11月3日に行われる。

Img_5970金分銅酒造

Img_5973閼伽井坊 《地図

花岡八幡宮の別当寺だった。

Img_5983花岡八幡宮楼門

Img_5974説明板

Img_5980山陽道を歩き始めたのが去年の11月16日で、打出天神社は七五三の参詣者で賑わっていた。早いもので1年が過ぎようとしている。「少年老い易く学成り難し」か?

Img_5978多宝塔(国重文)

閼伽井坊塔婆だからまさに神仏習合・一体だ。

Img_5977説明板

Img_5984センダン(栴檀)

隣の花岡小学校の生徒は今は皆、「栴檀は双葉より芳し」だろうが、いずれ・・・

周防花岡駅を過ぎ、山陽新幹線をくぐったあたりに広石一里塚があったようだ。国道2号をくぐって岩徳線の手前で和田橋(末武川)を渡って行くと再び周南市に入る。

Img_5993見上ケ坂を上る。《地図

この坂は明治時代に作られた新道で旧道の坂はもっと急で、今は私有地となり廃道になったそうだ。カーブしない直線的な坂だったのだろう。《地図》(このあたりか)
坂上の久米市は交通の要衝で高札場があったという。

Img_5996旧商店

Img_6008山縣本店地図

明治8年創業の酒造

この先で山陽新幹線をくぐり桜木交差点(県道347号)に出て、すぐ先の右の旧道に入る。

Img_6013白見ケ森と伏見稲荷社跡 《地図

花岡の福徳稲荷大明神社の「狐の嫁入り」行列はここ(福徳稲荷の分社)まで来たそうだ。

Img_6012説明板

Img_6020早乙女坂を下る。《地図

Img_6022説明板

文化の違いがもたらした悲劇か。何も殺さなくてもよかろうに。遠石千日寺(跡)に移されている「早乙女之碑」。千日寺は遠石(といし)八幡宮の参道の東側にあったそうだ。別当寺だったのだろう。

Img_6028遠石宮水

10ℓ・100円だと。ペットボトル分だけなら10円で買ってもよいのだが。

Img_6027能書

Img_6036旧藩舟方(御船蔵)跡 《地図

当時はこのあたりまで海が来ていたのだろう。今はJR線路とその後ろは工場地帯だ。

Img_6034説明板

Img_6048遠石八幡宮

Img_6039説明板

Img_6042洪鐘

元應2年(1320)鋳造

梅花川を渡る。

Img_6057影向石(えいこういわ)

宇佐八幡大神がこのの上に降り、「・・・嗚呼遠し」と言ったのが「遠石」(といし)の地名由来とか。「ようごう」とも読まれ、東京江戸川区の善養寺には「影向の松」・影向寺(神奈川県川崎市)などがある。

Img_6056説明板

Img_6058遠足地区の町並み

Img_6051説明板

Img_6059宝性寺(右)・念仏坂(正面)・道標(電柱の右)

念仏坂は宝性寺に由来する坂名ではなく、坂上にあった一畑薬師堂に由来する。
道標には「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と刻む。この坂に遠石一里塚があったという。

Img_6061説明板

Img_6063念仏坂を上る。《地図》(道筋の標示はない)

民家の間の細く短い坂。

Img_6064下って県道に出る。

網ネットの向う側に一畑薬師の道標で、「古のうへ丹いちば多たやくしあり」と刻むそうだ。

Img_6068青山町交差点で県道と分かれ左に進む。

分岐点に「さすり仏」が鎮座する。

Img_6071さすり仏 《地図

江戸時代に毛利氏を探っていた隠密を藩士が見つけて殺したので、村人がその祟りを恐れて作った墓とか、行き倒れ人の墓だともいわれる。その後、通りかかった旅人が石をさすったら、脚の疲れが治って評判になり、難病を避ける力があるとの噂が流れ、大勢が訪れたため、徳山藩は昼夜番人を置いて警備したとか。
左に「さすり仏奉賛会」の碑が立っている。そばで見ると随分とさすられ、撫でられたのか艶がよく光っているように見えた。

Img_6082徳山市街地に入る。

Img_6076孝女阿米像 《地図

Img_6078説明板

これは「孝女阿米顕彰会」が設置したもの。

Img_6080楊柳橋(東川)を渡れば徳山宿、徳山城下だ。《地図

徳山駅周辺に御茶屋(本陣)や目代所、高札場があったというが、遺構や案内板などはないようだ。

徳山駅手前で山陽道から離れ、桜馬場交差点から徳山館邸跡に向かう。

Img_5525徳山館邸跡への並木道 《地図

この道沿いの左右にいくつかの史跡がある。

Img_5520益田親施幽閉地

Img_5519説明板

Img_5524花畠練兵場跡

Img_5522説明板

Img_5527徳山藩作事方跡

後ろは周南市美術博物館

Img_5526説明板

向い側が武方跡

Img_5528説明板

Img_5548徳山藩館邸跡(周南市文化会館) 《地図

萩(長州)藩の支藩の「御城」

Img_5532説明板

Img_5543前庭

左は大坂城築城の残石。四国の小豆島には大坂城残石記念公園がある。

Img_5541説明板

Img_5540祐綏(ゆうすい)神社

左端が徳山改称「二百五十年記念碑」

Img_5537説明板

Img_5555福原元們幽閉地 《地図

Img_5554説明板

山陽道に戻り、浦山交差点で右斜め道に入る。浦山地区に浦山一里塚があったらしいが場所は特定できていないようだ。

Img_6093道標(文政11年(1828)) 《地図

「當国十八番 景清護身観音」

ここを右折し、国道2号をくぐり川崎観音に寄る。

Img_6098川崎観音堂

徳山藩三代藩主元次以降の藩主はこの観音の前を通過する時は駕篭を降り、帆船がこの沖を航行する時には帆を降ろし、漁夫も鉢巻きを外して拝礼したという。

Img_6099説明板

Img_6105景清目洗い井戸

目病になるから賽銭は入れるなと書いてあるのに、凝りない面々が多い。
落語『景清

Img_6103説明板

山陽道に戻る。

Img_6115音羽橋下の富田川(とんだがわ)

色とりどりの大きな鯉がうようよと泳いでいる。放流したようだ。
この橋は徳山城下への入口として重要地点で、富田川も城(館邸)の外濠的な役割を果たしていて、東詰めに関門があり番所を置いていた。このあたりまで海が入り込み、海上航行の船もここの常夜燈を目標にしていた。

Img_6117大安寺 《地図

このあたりは「政所」(まんどころ)という地名だ。中世には富田市と呼ばれ、近隣の物資集散の中心地で、当時は富田川は今より西よりを流れ、上方へ荷を積み出す古市の港に達していた。東大寺の年貢米もこの富田の津から船で運ばれた。年貢米銭を管理する役所が置かれ、政所と呼ばれていたそうだ。

Img_6119道源休屋跡(右) 《地図

道源家の屋敷で、道中休息所として広場が設けられていたそうだ。

Img_6121中山三屋(みや)の墓(善宗寺)

幕末から明治の歌人。尼姿で関西・中国地方の豪商・勤王家らと交際し、各地の情報を集めたそうだ。

Img_6124道標

「是より左上かたみち」・「是より 右下のせきみち」でもとは手前の県道3号との交差点にあったものか。

Img_6123説明板

Img_6132山崎八幡宮(正面)

ここにも道標で、「右上かたみち 左下のせきみち」。ここを枡形のように曲がって富田宿に入る。

Img_6136説明板

Img_6138亀趺(きふ)

亀は龍の子供と考えられていて、先人の偉業を讃えるために碑を龍の子である亀の背に載せるという形式が作り出されたとか。
右に「毛利元就公ゆかりの石碑」の立札。

Img_6139「亀趺」の碑文の一部なのか?

Img_6142富田宿の家並み 《地図

新町・平野・古市から成り、山崎八幡宮の門前町として賑わった。新南陽富田郵便局あたりが本陣跡。

平野地区にはには古代山陽道の周防国の5番目の駅家が置かれ、生屋駅と勝間駅(防府市)の中間だった。

Img_6145浄真寺

本堂前に「原田謙介(南谷)先生碑」がある。嘉永4年(1851)から読み書きそろばんなどを教え、特に歌や書に堪能であったとある。
山崎隊がつけたという本堂の柱の刀の傷跡は見損なった。

Img_6146説明板

この先で左折して南下して県道347号を横切って右折して行く。

Img_6152祥雲寺(奥) 《地図

天保の頃、道源家が開作した潮止め工事完成のために人柱となった娘おまつの墓が道源家の墓地にあるそうだ。これらの事は祥雲寺のHPには載っていない。この寺の開基が道源家で都合が悪いからだろうか。

再び県道347号を横切って温田峠へ向かう。

Img_6161温田観音 《地図

今では峠らしくもないが、このあたりに萩御水茶屋所・温田一里塚・御駕籠立場があったという。「雨乞い観音」の温田観音堂も今は寂れている感じだ。

県道347号に下り、右に旧道に入り、山口銀行の所を左折し福川駅に向かった。

Img_6165福川駅

今日もけっこう歩いたが快調だ。

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