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2014年12月26日 (金)

山陰道(丹波口→樫原宿→亀山宿)

2014年12月15日

京都駅・・・東本願寺・・・西本願寺・・・花屋町通り・・・島原大門・・輪違屋・・角屋・・東鴻臚館跡・・住吉神社・西門跡・・・七条通・(JR山陰本線)・丹波口跡(京の七口)・・西鴻臚館跡・・・松尾神社朱雀旅所・・・源為義之塚・権現寺・・・月読橋(西高瀬川)・・・七条橋(天神川)・・・地蔵院・・・八条通・・桂大橋(桂川)・・(桂離宮)・・・春日神社・・・桂地蔵寺(京都六地蔵)・・・孝子儀兵衛翁之墓道標・・・道標・・・西山別院・・川岡踏切(阪急京都線)・・大宮社・・・物集街道交差地点(樫原交差点)・樫原宿・・小畠川(明智川)・勤皇家殉難之地標柱・・郷倉跡・・龍淵寺(辻の地蔵)・・本陣跡玉村家・・札場跡・三の宮神社旅所・・旧道・・・題目塔・・行止り・・・維新殉難志士墓・・・樫原秤谷交差点・(国道9号)・・旧道・・・大枝地区・・・地福寺・・・宇波多陵参道・三ノ宮神社・・・下狩橋(下狩川)・・・府道142号・・・兒子神社・・・沓掛地区・・・大枝神社・・・桓武天皇御母陵参道標柱・・・国道9号・・・・沓掛西バス停・京都霊園内の道・・・(京都縦貫自動車道)・・・老ノ坂峠(193m)・・首塚大明神・・・国境石・(亀岡市) ・・・京都縦貫自動車道の間の道・・・旧道・・・王子橋手前・国道9号・・旧道・・・占い石・・・三軒屋標示板・・・船着場跡・・・府道402号・・王子神社・・・篠村八幡宮(矢塚・旗立楊)・・・道路元標・・・桑田神社・・・徳寿寺・・・西川橋(西川)・・・念仏寺…年谷橋(年谷川)・千本松跡・・・亀山宿・・八坂神社(祇園社)・・嶺樹院・・古世地蔵堂・・京町通り・・天満宮・・矢田町通り・・呉服町通り・・旅籠町通り・・本陣跡・・新町・高札所跡・・本町通り・・山脇東洋宅跡?・・本町辻子・・法華寺・・寿仙院・・本門寺・・心学持養社跡・・円通寺・・枡形・・大円寺・・亀山城跡・・春日坂・・南郷池(雑水川)・・・亀岡駅(JR山陰本線)

  京の七口の丹波口から周防国小郡宿(山口県山口市)の山陽道との合流点までの山陰道を歩き始める。

  【ル-ト地図

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Img_8753花屋町通り 《地図

右に「太夫最中」の伊藤軒がある。この突き当りの枡形が花街の島原大門跡。

Img_8755島原大門

花街島原の正式名は「西新屋敷」で、島原の由来については諸説ある。門前には廓(くるわ)に入ろうか戻ろうか思案した「思案橋」があったが川が暗渠になって撤去された。「出口の柳」と「さらば垣」は残っている。柳の下の用水手桶は、かつて島原の火災の際に門が閉められていて多くの遊女が焼死したため、消火用に置かれたという。
江戸の吉原遊廓跡のような風俗店街になっていなくて歩きやすい。

Img_8759説明板

Img_8760輪違屋

現在も営業中の置屋兼お茶屋。

Img_8776角屋(すみや) 《地図

置屋から太夫や芸妓を呼んで遊宴する所。

Img_8772説明板

Img_8781東鴻臚館跡

ここが江戸時代には角屋の敷地となった。

Img_8780説明板

Img_8782西門跡・住吉神社

Img_8785説明板

山陰本線沿いを南下して、京の七口の丹波口へと向かう。北には丹波口駅がある。

Img_8788丹波口跡あたり 《地図

七条通りと千本通りが交差するこのあたりが山陰道の起点だ。天正10年(1582)6月2日未明に、明智光秀軍はこの丹波口を通って京に入り、本能寺に向かった。

Img_8790標石(平成20年に立てられた復元品)

荷を載せた馬は、馬子(口付・口取り)が馬に乗ったままで洛中へ入ってはならないという意で、洛中の往来安全のため下馬を命じたもの。
左面に、「此付近は江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口である。当時の京都には都市全体を囲む城壁・環濠の御土居堀があったが、町奉行所は当地を含むその出入り口など約三〇ヵ所に本銘辞を刻む標石を建設した。すなわちここから東が同時代の京都(洛中)であった。(歴史地理研究者 中村武生)」と説明文がある。

Img_8793説明板(西鴻臚館跡)

Img_8797六條判官源為義公塚(権現寺参道) 《地図

右が五輪供養塔で、左は顕彰碑。ここ権現寺の寺伝によると、もとは丹波街道(山陰道・七条通り)の北側に墓があり、この五輪塔は貞享3年(1686)の為義の年忌法要に際し、再整備したものという。明治45年に中央卸売市場からここへ移設された。

Img_8821桂大橋から愛宕山方向だが山頂あたりは雲に隠れている。

橋を渡った北側の桂離宮は、参観には事前の申込みが必要。

Img_8826中村軒 (桂離宮の向い側)

麦代餅(むぎてもち)は農家の間食として重宝され、農繁期も終わった頃、その代金として麦をもらった物々交換からこの名が生まれたという。

Img_8831桂地蔵寺

小野篁作という地蔵を安置する京都六地蔵の寺の一つ。東海道の山科区の徳林庵には六地蔵の一つの山科地蔵が、鳥羽街道の恋塚浄禅寺には鳥羽地蔵がある。

Img_8830説明板

Img_8836道標

「右 西山御坊 よし峯 大原の 岩くら」・
「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」で、西山別院はすぐ先にある。

Img_8842大宮社 《地図

松尾七社の一社とされる。

Img_8844孝子儀兵衛翁墓道標

南方向の冷聲院に墓があるようだが行かなかった。桂地蔵寺先の交差点にも道標があった。

Img_8851カーブして山陰道で最初の宿場、樫原(かたぎはら)宿へと進む。

Img_8854樫原交差点 《地図

物集女街道と交差する。

Img_8863郷倉跡

Img_8861説明板

Img_8859小畠川(郷倉の前)

明智光秀の逸話があり、明智川と呼ばれてきた。そばに「勤皇家殉難之地」の石柱が立つ。蛤御門の変で長州藩勢の3名の兵士がこの付近で小浜藩兵に囲まれ討たれたという。

Img_8858説明板

Img_8868辻の地蔵(龍淵寺)

Img_8865説明板

Img_8874本陣跡玉村家

享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛門永張が京都所司代板倉氏から依頼されて経営に従事したことから「頼まれ本陣」とも口伝され、安政2年(1855)に足利家直系の玉村新太郎が継承したという。(説明板②)

Img_8875説明板①

Img_8872説明板②

Img_8877札場跡 《地図

木の後ろに道標が立っているようだが見逃した。向い側は三ノ宮神社の御旅所になっている。

Img_8878説明板

ここから旧道を上って題目塔の先から下って国道9号を横切っていくのだが、題目塔の先で行止りになってしまう。少し戻って左の墓地の中の道を行く。

Img_8891維新殉難志士墓標柱と説明板

墓はここへ下りてくる途中にあるようだが見逃した。

Img_8888説明板

樫原秤谷交差点の北側の旧道に入る。行止りとなった旧道はこの道へ続いていた。

Img_8897竹林の間の旧道 《地図

Img_8903三ノ宮神社 《地図

北へ「宇波多陵参道」(桓武天皇夫人で淳和天皇生母の藤原旅子)が続いている。

Img_8907大枝の集落へと入る。

Img_8911茅葺の家 《地図

ここで府道142号に出る。

Img_8917兒子(ちご)神社のクスノキ 《地図

もとは西の沓掛の大枝神社にあり、聖徳太子の幼児の像が祀られていたともいう。

Img_8919「山陰街道沓掛地区」の標識 

Img_8922大枝神社 《地図

Img_8923説明板

「はじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたところから千児明神と称していた」とある。

Img_8924桓武天皇御母陵標石(右)

Img_8930国道9号に出て少し北上する。《地図

「4℃ 凍結注意」の標識、向かい風が冷たく感じる。

Img_8934京都霊園の中に入って行く。

Img_8940老ノ坂峠への上りとなる。《地図

右上を京都縦貫自動車道が走っている。所々に「ガス管」標識と、「洛西散策の森」の標識がある。

Img_8942新老ノ坂トンネルの入口(右)

トンネルの南側を越えて行く感じか。

Img_8945直進する。

Img_8948ガス設備で行止りだが、手前で右に道は続いている。

Img_8952山道となって土嚢の敷かれた道を上って行く。

Img_8956老ノ坂峠(193m) 《地図

西部クリーンセンターへの道をくぐるあたりが峠の頂上だろう。本能寺へ向かう明智光秀軍が越えた峠だ。

Img_8961首塚大明神

大江山の酒呑童子の首を祀った塚。

Img_8963由緒

Img_8967国境石(左)

「従是東山城國」で、「従是西丹波國」は刻まれていない。ここで京都市から亀岡市に入る。

Img_8970愛宕山常夜灯

前に「京都の自然二百選 老ノ坂峠(山陰道)」の標柱

この先で急坂を下って行く。

Img_8975京都縦貫自動車道の間の道となる。《地図

味気ない道だがそう長くはない。

Img_8978国道9号の左側沿いの旧道を下る。

前方に亀岡市街地が見えてきた。

王子橋の手前で国道9号に合流する。

Img_8983王子橋親柱 《地図

明治17年建設の初代王子橋。今の王子橋は「めがね橋」というようだが、その形を撮れる場所が見当たらなかった。

Img_8984京都縦貫自動車道の「めがね橋」?

Img_8989旧道に入る。《地図

Img_8992切通しを上る。

Img_8993占い石

山陰道を行き交う旅人はこの石に座り、旅の吉兆を占ったとか。

Img_8998田園地帯が広がる。

このあたりは「三軒屋」と呼ばれていたようだ。

Img_9009船着場跡

保津川の支流の鵜ノ川だろうか? 往時の石組が残る。

Img_9013緩やかに上って府道402号に出る。

Img_9018王子神社 《地図

昔は闇宮(くらがりのみや)と呼ばれた峠神で、街道を往還する旅人が安全を祈願したという。
左は「ツブラジイ(椎)」の大木。「スダジイ」の大木はよく見かけるが。

Img_9015説明板

篠町地区を進む。

Img_9021長屋門

Img_9023長屋門

Img_9044篠村八幡宮前 《地図

鳥居前を北方向に行く道は「異人街道」で、昭和の初期には山本浜にも保津川下りの会社があり、京都から外国人が保津川下りをするのに通ったためこう呼ばれたそうだ。
この道は「トロッコ亀岡駅」へと続いている。

Img_9028篠村八幡宮

足利高氏(尊氏)の鎌倉倒幕の挙兵地。

Img_9029説明板

Img_9035矢塚

足利尊氏が戦勝祈願して矢を奉納したという。

Img_9032説明板

Img_9040乾疫神社

山陰道を通って平安京へ入ろうとする怨霊・疫病を鎮める神社で、日本最古の疫(御霊)神社の一つだそうだ。

Img_9039説明板

Img_9041旗立楊(やなぎ)

これも足利尊氏の逸話の残る6、7代目の楊。

Img_9042説明板

Img_9054道路元標(旧篠村?) 《地図

「元標 海抜百0六米」とある。このあたりは平地で高さは全然感じない。

Img_9052説明板

Img_9055篠町の家並み

馬堀駅方向に進み、桑田神社、徳寿寺を過ぎて西川橋(西川)を渡って行く。

Img_9063念仏寺 《地図

「はめ(マムシ)除けのお釈迦さん」として有名だそうだ。

Img_9062説明板

Img_9068千本松跡(年谷橋から年谷川) 《地図

堤上に明智光秀が植えたともいう松並木が続いていたという。

Img_9069説明板

亀山宿、亀山城下へと入って行く。

Img_9079八坂神社(祇園社)

城下の出入り口の守護神だろう。

Img_9078説明板

Img_9083旧家

Img_9087嶺樹院 《地図

境内には亀山城の惣構跡(土居)が残っているようだ。 亀山藩主の菅沼家は断絶したが菩提寺は城下に残った。

Img_9090説明板

Img_9099古世地蔵堂 《地図

源頼政の守り本尊で、錫杖の代わりに矢を持っているという「矢の根地蔵」を祀るというが、地蔵は拝めず。堂の前の道標には「右 穴太寺 そのべ 能勢妙見」・「左 京 ふしみ」とある。街道筋から移設されたものだろう。
ここに亀山城下の南方面への出入り口の古世門があったという。

Img_9093説明板

京町通り~矢田町通り~呉服町通りと散策し、旅籠町通りで山陰道に戻る。

Img_9119本陣跡 《地図

右の亀岡病院前に古ぼけた木の立札が立っている。どうも「亀山」と「亀岡」を混同してしまう。伊勢の亀山と紛らわしいので、明治になってからここを亀岡と改めたという。これには戊辰戦争で伊勢亀山藩は新政府側につき、丹波亀山藩は幕府側についたため、敗れた丹波のほうが改名させられることになったとか。

Img_9121高札所跡 《地図

ここは亀山城の大手門へ通じる新町通りだが、今は前方の亀山中学で途切れる。ここを左折して本町通りを進むのが山陰道の道筋。

Img_9127山脇東洋」の立札

生家跡か屋敷跡か? 東洋は亀山の生まれで父は医家の清水家。享保11年(1726)に父が門下の法眼、山脇家の養子となり、東洋はその家督を相続して法眼となる。

この先で北に本町辻子(ずし)に入り、法華寺・寿仙院・本門寺に寄り、紺屋町通りを北に進む。

Img_9141心学持養社跡

丹波国生まれの石田梅岩の石門心学を広めるための塾跡。

Img_9148_2関酒造

屋号「井づ源」で明治8年の創業。江戸時代には亀山城下の富農で、江戸末期から副業で酒造りを始めたそうだ。

Img_9154桝形を曲がって西町に入る。《地図

白土塀は大円寺で亀山城主の小早川秀秋から米二石を寄進された亀山五ヶ寺の一つ。

Img_9155_2説明板

「穴太道の要衝」とある。城下から西国三十三カ所観音霊場の第21番穴太寺に通じる道で、江戸時代には多くの巡礼者が多く往き来していたという。
大円寺の裏の路地に道標(安永5年(1776))
「是より 廿一ばん 穴太寺道 妙見山道 法貴谷越え」があるそうだ。

Img_9158今日はこの交差点までとし、亀山城跡から亀岡駅に向かう。《地図

Img_9168亀山城西門跡 《地図

今は大本(教)の本部になっている。

Img_9165説明板

Img_9171万祥池 《地図

亀山城の内堀跡。万祥殿の立つ積み直された石垣も城の名残りだろう。

Img_9178正門を出て春日坂を下る。《地図

Img_9184南郷池

雑水川(ぞうずがわ)でかつては亀山城本丸北側の堀だった。

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2014年12月24日 (水)

太子道(筋違道)②

2014年12月14日

大和八木駅(近鉄橿原線)・・・春日橋(飛鳥川)・・・(JR桜井線)・・・蘇武橋(飛鳥川)・蘇武井・・・(近鉄橿原線)・・・橿原橋(飛鳥川)・おふさ観音道標・・・中街道合流地点・・・(おふさ観音)・・・中街道分岐地点・・・鷲栖神社・・・新河原橋(飛鳥川)・・・本薬師寺跡・・・(明日香村)・・・伝小墾田宮跡・・雷橋(飛鳥川)・・雷丘・・・向原寺(豊浦宮跡・豊浦寺跡)・・甘樫坐神社・・・西念寺・・・甘樫丘(148m)・・・飛鳥橋(飛鳥川)・・・弥勒石・・・飛鳥京跡苑池遺構・・・川原寺跡・・橘寺・黒駒像・・・亀石・・・(天武持統陵)・・・鬼の俎・鬼の雪隠・・・欽明天皇陵・・吉備姫王墓・・・中街道合流地点(国道169号)・・榎龍神碑・・豊年橋(高取川)・道標・ほうねん橋碑・・飛鳥駅(近鉄吉野線)

  【ル-ト地図】(大和八木駅(24.9km地点)から)

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Img_8546蘇武橋(飛鳥川) 《地図

樹齢420年の榎と今井町の町並み

Img_8548蘇武井

斑鳩から飛鳥に向かう聖徳太子、愛馬の黒駒が 水を飲んだともいう井戸。

Img_8549説明板

Img_8559中街道と合流して進む。《地図

この先で左に入れば「おふさ観音」がある。

Img_8564中街道分岐地点

中街道は神道橋(飛鳥川)を渡って南下、太子道は左折して飛鳥川沿いを行く。

Img_8565飛鳥川沿い 《地図

見事な大木は何の木だったか?

新河原橋を渡って本薬師寺跡に寄る。

Img_8586本薬師寺(もとやくしじ)跡 《地図

天武9年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気の平癒を祈願して発願した寺。

Img_8582説明板

Img_8584薬師寺式伽藍配置

Img_8596道標(天保14年(1843))

「左 かく山 法ねん寺」で、法然上人二十五霊場第10番の香久山少林院法然寺への道標。この法然寺も聖徳太子にゆかりの地と言えるだろう。《地図

明日香村に入って行く。

Img_8624小懇田宮跡地図

ここは「古宮」という小字名。塚の上はヨノミ(榎)の大木で左前方は畝傍山。
現在ではこの東方の雷丘の南麓が推古朝の小懇田宮跡と推定されているようだ。

Img_8615雷丘(いかづちのおか)から天香久山方向。《地図

小さな丘だが標高は110mもあるようだ。
大君は神にしませば天雲のの上に庵りせるかも」(柿本人麻呂・万葉集)

Img_8631向原寺(豊浦宮跡) 《地図

推古天皇は豊浦宮から小懇田宮へ移った。

Img_8629説明板

Img_8640甘樫坐神社 (向原寺の南側)

Img_8638立石

現在ではこの前で「盟神探湯」神事が行われる。

Img_8639説明板

Img_8650甘樫丘(148m)から

天香久山(右)・耳成山(左前方)

Img_8665畝傍山(右)・二上山(後方)

川原展望台まで行き飛鳥川沿いに下る。

Img_8671弥勒石 《地図

もとは条里制の標石であったともいう。

Img_8669説明板

Img_8674飛鳥京跡苑池遺構

Img_8677川原寺跡地図

飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺の一つ。

Img_8678説明板

Img_8680橘寺

右に「聖徳太子御誕生所」標柱

Img_8683説明板

Img_8692黒駒像(本堂前)

斑鳩からここまで道案内ご苦労さん。ここを太子道歩きの終点とした。

Img_8697二面石

こちらが善面(顔)

Img_8704西門を出て石造物を見ながら飛鳥駅に向かう。

Img_8711亀石 《地図

Img_8713説明板

Img_8720鬼の俎(まないた) 《地図

Img_8722鬼の雪隠(せっちん)

道路を挟んだ下方にある。

Img_8721説明板

吉備姫王墓の先で再び中街道に出て、豊年橋(高取川)を渡って飛鳥駅に着いた。

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2014年12月13日 (土)

太子道(筋違道)①

2014年11月28日

法隆寺駅(JR)・・・伊弉冊命神社・・斑鳩大塚古墳・・・国道25号・・業平姿見の井戸①・日切地蔵(継子地蔵)・・・法隆寺松並木・・南大門・・中門・・東大門・・夢殿・・・駒塚古墳・・・調子丸古墳・・・新業平橋(富雄川)・・業平橋(富雄川)・・高安地区・・・安堵第二踏切(JR関西本線)・(安堵町)・・・善照寺・・・広峰神社・業平姿見の井戸②・・・安堵町水道課・・・飽波神社・太子腰掛石・・天神社道標・・・富本憲吉記念館・・大寶寺・・極楽寺・・天神社・・・高塚・・(西名阪自動車道)・・・(岡崎川)・・・杵築神社①・・・馬場塚・・・常徳寺・・下街道合流地点・・馬場尻橋(新太子橋・大和川)・・下街道分岐地点・(川西町)・・・南陽善寺・・・杵築神社②・・・油掛地蔵・・・梅戸橋(寺川)・・・井戸橋(寺川)・・・糸井神社・・・宮前橋(寺川)・・面塚碑・・(三宅町)・・白山神社①・太子腰掛石・太子像・・杵築神社③・矢尻の井戸・・・忍性生誕地碑・・・白山神社②・・杵築神社④・三宅村道路元標・・・万葉歌碑・・・融観寺・・・(田原本町)・・・黒田第2号踏切(近鉄田原本線)・・・法楽寺・孝霊天皇黒田盧戸宮跡・・・黒田大塚古墳・・・浄照寺・・・孝霊神社・・黒田池・・・(京奈和自動車道)・・・宮古地区・都村道路元標・・・地蔵祠・・・鏡作伊多神社①・・・保津の環濠集落・・鏡作伊多神社②・・・(県道14号)・・・飛鳥川沿い・・・多神社・・・(橿原市)・・・新ノ口池・・・近鉄大阪線ガード・・・地黄橋(飛鳥川)・・・入鹿神社・・・春日橋(飛鳥川)・・・内膳大師堂・・・踏切(近鉄大阪線)・・踏切(近鉄橿原線)・・・大和八木駅(近鉄大阪線)

  【ル-ト地図】(24.9km地点まで)

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Img_8414愛馬黒駒に乗り、舎人の調子麻呂を従えて斑鳩から飛鳥に向かう聖徳太子。

『聖徳太子伝暦』などによると、推古天皇6年(598)に聖徳太子が諸国から献上された馬の中から甲斐の黒駒を選んで、調子麻呂に飼育させたのだとか。調子麻呂は百済からの渡来人で、多くの舎人の中でも常に太子の側に仕えていたといわれる。

Img_8319太子道

安堵町の水道課の塀に設置のもの。

法隆寺駅から2、3寄り道してから法隆寺に向かう。

Img_8262伊弉冊命(イザナミノミコト)神社 《地図

祭神はイザナミ命、本殿は国重文。

Img_8264斑鳩大塚古墳 (伊弉冊命神社の北側)

Img_8273業平姿見の井戸① 《地図

業平の邸跡ともいう上街道沿いの在原寺から河内の高安の女の所へ通った「業平道」沿いにも「姿見の井戸」がある。『中街道①』に記載。
弘法大師が掘った「弘法井戸」で、ここの地名の「五百井」(いおい)ともなっていて「五百井戸」ともいう。

Img_8270説明板

ヨモミ(榎のこと)の大木の下に継子地蔵堂、その奥に業平井戸。今もヨモミはあるが上部は切られて葉はなく残骸に近い。

Img_8274継子(ままこ)地蔵(日切地蔵)

Img_8277由来

小林一茶の「おらが春」の「まゝ子」の話

さて太子道に取り掛かろう。法隆寺を過ぎるあたりまでは、『竜田越奈良街道』と重なる所もある。『法隆寺境内図

Img_8282法隆寺松並木を抜けて南大門へ

Img_8288東大門をくぐり太子が住んだ斑鳩宮跡の夢殿へ

Img_8290夢殿への道

法隆寺境内を後にして飛鳥の宮へと向かう。

Img_8293駒塚古墳地図

太子の愛馬の黒駒を葬った塚との伝承がある。4世紀後半頃築造の前方後円墳で時期的には合わないが、黒駒を追葬した可能性もあるかも。

Img_8294調子丸古墳地図

この古墳も時代が合わないようだ。
まだ斑鳩を出発したばかりなのに黒駒も調子麻呂もこんな所で眠ってもらっては困る。

Img_8299業平橋を渡って高安地区へ 《地図

東京墨田区の業平橋、大阪府芦屋市の山陽道の業平橋よりこの橋の方が気に入った。少し南側に新業平橋が架る。

Img_8303高安地区の家並み

ここは大和の高安(斑鳩町)で、業平が河内高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。それにしても天理から河内の高安までよく通ったものだ。よほど河内姫がいい女だったのか、業平の色好みせいなのか。詳しくは『在原神社と業平道』で。

Img_8313業平姿見の井戸②(広峰神社境内) 《地図

こんな所にもあったか。

Img_8323飽波神社 《地図

太子の飽波宮跡と伝える安堵の総社。

Img_8330説明板

Img_8329太子腰掛石

太子がここで休んだ時に雀が舞って太子をいやしたことから雀は飽波神社の使いとされているとか。

Img_8332「水屋敷 天神社」道標

ここを進んで極楽寺、天神社へ寄る。

Img_8335富本憲吉記念館

生家を利用した個人美術館

Img_8339極楽寺

聖徳太子の開創と伝える寺

Img_8340阿弥陀如来坐像(国重文)

Img_8342天神社

ここは大道教の本部になっている。

Img_8344説明板

「飛鳥川のほとり」、「秋篠川の堤防上」にあったから「水屋敷」なのか、「天理教祖がのおさずけを戴いた」からなのか?

Img_8348高塚 《地図

ここも太子の伝承地だが、もとは古墳のようだ。

Img_8349説明板

Img_8359杵築神社①(安堵町窪田) 《地図

Img_8354由緒

Img_8358石塔(説明板の推古式古代人造の石塔)

深楽廃寺のものだったと伝える七重になった十三重石塔だそうだ。塔身には梵字で薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒が彫られている。

Img_8362馬場塚

五輪塔は甲斐武田家の家臣の馬場美濃守信房の供養塔。

Img_8361説明板

信房の子(甥?)馬場信久は、歌舞伎の「大杯觴酒戦強者(おおさかづきしゅせんのつわもの)」に登場するそうだ。

Img_8364窪田地区 《地図

この先の常徳寺の所で大和川の土手に上り、東から来る下街道と合流し新太子橋を渡る。

Img_8369新太子橋(今は馬場尻橋)から大和川 《地図

昔は川底に木を渡しただけの流れ橋だったという。

渡ってすぐに川西町に入り下街道と分かれる。

Img_8379杵築神社②(川西町吐田(はんだ)) 《地図

Img_8380説明板

Img_8382濠の水までも赤く見えるか。

Img_8385油掛け地蔵

Img_8386説明板

Img_8387油ぎった地蔵さん

大永3年(1523)の造立だから相当古い。聖徳太子が斑鳩へ向かう途中休息した際に念仏を唱えたところ、空中に生身の地蔵尊が現れたため、その像を彫ってこの地に安置したという伝承もあるそうだ。そばにサラダ油が何本も置かれている。

Img_8389畑の間の真っ直ぐな道を南下する。《地図

前方右は島の山古墳

Img_8398糸井神社  《地図

Img_8400説明板

宮前橋(寺川)を渡る。

Img_8406面塚碑(宮前橋を渡った所)

ここ結崎は能楽観世流の発祥地。天から翁の能はともかく、ネギ(葱)が降ってきたというのは面白い。そのネギは見事に生育し、戦前までは「結崎ネブカ」として名物だったという。

Img_8407由来

この先で三宅町に入る。

Img_8409白山神社 《地図

右が冒頭の写真の聖徳太子らの像。左奥に太子の腰掛石がある。「駒つなぎの柳」もあったようだ。

向い側に杵築神社③(三宅町屏風)がある。

Img_8422矢尻の井戸(屏風の清水)

太子が矢で突いたら水が湧き出たという井戸。各地にある弘法大師が杖で突いた弘法井戸と同じ係累の話だ。「屏風」という地名は、村人が太子をもてなす際に屏風をたてて風を防ぎ、接待したことから名づけられたとか。 拝殿には「聖徳太子接待」の絵馬も奉納されているそうだ。

杵築神社③と④の間にも上部を切られたヨノミの木があるようだ。

Img_8426忍性生誕地碑

Img_8427説明板

Img_8443杵築神社④(三宅町伴堂(ともんど)) 《地図

左は「三宅村道路元標」

Img_8438道標(安政5年(1858))

どこかの道沿いから境内へ移設されたものだろう。

Img_8454万葉歌碑

「うち日さつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫(ぬ)き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑぞ 通はすも吾子(あこ)諾(うべ)な諾な 母は知らじ諾な諾な 父は知らじ (にな・みな)の腸(わた)か黒き髪に 真木綿(まゆふ)以(も)ち あざさ結(ゆ)ひ垂(た)れ 大和の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 抑(おさ)へ挿(さ)す うらぐはし子 それぞわが妻」
(反歌) 「父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも」
歌碑の前が「あざさ」(学名アサザ)の池

Img_8453説明板

田原本町に入る。

Img_8462法楽寺 《地図

孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立された聖徳太子開基の寺という。

Img_8461説明板

Img_8463説明板

桃太郎のモデルの吉備津彦が孝霊天皇の子というだけの話で、「桃太郎伝説発祥の地」というのはおこがましくはないか。まあ孝霊天皇は欠史八代の天皇の一人、それほど目くじらを立てることもないか。

Img_8466本物です。

遠くから見ているとあまり動かないので像と思った。来年はひつじ年で、山羊(やぎ)年ではないよ。

Img_8469黒田大塚古墳 《地図

もとは周濠まで含めた全長86mの前方後円墳。

Img_8470説明板

Img_8471変遷図

どんどん削平されて縮小してしまったということ。

ここから太子道へ出るのに迷ってしまった。

Img_8479旧家

太子道沿いではない。

かなり南下してしまってから太子道に戻った。

Img_8483孝霊神社

Img_8482説明板

最後に「太子道」とある。

Img_8491都村道路元標(電柱の右側) 《地図

ここ宮古(みやこ)は都村だったのだ。

Img_8498鏡作伊多神社①(宮古) 《地図

東方の下ツ道(中街道)沿いの鏡作神社の末社。

Img_8497説明板

Img_8502保津環濠集落

元禄17年(1704)の古絵図によれば、環濠は東西・南北約1町(約109m)四方のほぼ正方形に近く、鏡作伊多神社部分が南側に張り出している。濠の幅は2間強(約4m)。

Img_8503説明板

左が古地図の復原図

Img_8508鏡作伊多神社②(保津)

環濠集落内にある。

Img_8506説明板

Img_8516飛鳥川沿いを南下して行く。

Img_8521多神社 《地図

多(おお)地区は古事記の編纂者太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とされる。本殿は県の重文

橿原市に入り、地黄(じお)橋から西へ人麿神社に寄ろうとしたら、どう道を間違ったのか入鹿神社の前に出てしまった。入鹿神社は横大路を歩いた時、その前にも訪れ3度目となった。歌聖の柿本人麻呂、聖徳太子よりも逆臣?の蘇我入鹿の方によほど縁があるのかも。

縁の薄い人麿神社は割愛して春日橋を渡って大和八木駅に向かう。

Img_8538内膳大師堂

ここは内膳町だが大師とは誰なのか? 内膳地蔵尊・行者神変大菩薩も祀られているようだ。

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2014年12月12日 (金)

長尾街道②

2014年11月27日

道明寺駅(近鉄南大阪線)・・・東高野街道交差地点・・・石川橋(石川)・(柏原市)・・・片山神社・・・了雲寺・・・原川橋(原川)・・・安堂第2号踏切(近鉄大阪線)・・・西町地蔵堂・竜田越奈良街道合流地点・・・国分地区・・竜田越奈良街道分岐地点・・・(国道25号)・・・春日神社・田辺廃寺跡・・・(西名阪道)・・・国道165号・・・旧道・・・行止り・・・国道165号・・・(奈良県香芝市)・・・旧道合流地点(田尻交差点)・・・どんづる峰案内板・・・田尻峠・・・穴虫交差点・・・カラシミズ池・・・(旧道)・・・国道165号・・・(二上山駅)・・・旧道・・・畑地区・・・磯壁地区・・法満寺・・春日神社・・・良福寺交差点・・・阿弥陀橋(初田川)・・・恵心僧都源信誕生地碑・・・良福寺交差点・・・千股池・・(初田川)・・五位堂池・・・今在家橋(熊谷川)・・・踏切(近鉄南大阪線・当麻寺駅)・・・地蔵堂・・・竹内街道合流地点・・・長尾神社・・・磐城駅(近鉄南大阪線)

  石川橋を渡って柏原市に入り、田尻峠の手前で奈良県に入った。畑地区、磯壁地区を通って良福寺交差点から二上山を眺めながら南下して竹内街道との合流地点に着いた。

  【ル-ト地図】(道明寺駅(16.7km)から)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8146原川、大和川合流地点(原川橋から)

Img_8152西町地蔵堂 《地図

ここで国豊橋(大和川)を渡って来た竜田越(亀瀬越)奈良街道と合流し、しばらく進む。

Img_8153説明板

Img_8157国分地区の家並み 《地図

舟運業で栄え米相場が立ち、商家、職人の家が並ぶ町場だったという。馬つなぎの輪は残っているいだろうか? 気がつかなかったが。
国分本町4丁目で竜田越奈良街道と分かれ、南進する。(本来の分岐点は国分本町5丁目の道標の立つ辻)

Img_8167春日神社 《地図

ここは田辺廃寺跡で、柏原市田辺を本貫地)とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が白鷗時代末に建てた氏寺という。金堂、東西の三重塔、南大門などの薬師寺式伽藍配置が確認されたそうだ。

Img_8166説明板

Img_8170西名阪自動車道沿いの道となる。《地図

Img_8177行止りのように見えるが、この先で右に自動車道をくぐれる。

Img_8180国道165号に出る。《地図

しばらく車の往来の激しい車道歩きとなる。

Img_8183残土置き場から旧道に入ってほっと一息だが。《地図

Img_8186原川を越える所で行止りとなる。

地図には道の標示はあるのだが、大阪ガスの施設で施錠されて完全に遮断。上からも横からも通り抜けるのは無理で国道へ引き返す。

Img_8189県境

奈良県香芝市に入る。

Img_8191田尻交差点 《地図

旧道はここへ出て来るのだろう。

Img_8200田尻峠(120m) 《地図

西側は県の天然記念物屯鶴峯(どんづるぼう)だ。

穴虫交差点に「右 大坂道 」・「左 さかい道」の地蔵道標があるようだが、道路を横断することばかりに気を取られて見逃した。

Img_8205近鉄南大阪線沿いを行く。《地図

左側に少し旧道が残るのだが、うっかり直進してしまった。(【ル-ト地図】には旧道を標示した)
二上山駅を過ぎ国道から分かれ、畑地区、磯壁地区を斜めに南下して行くが見所はなかった。

街道は良福寺交差点から南下するのだが、良福寺地区に寄る。

Img_8217阿弥陀橋(初田川) 《地図

恵心僧都源信が架けた橋と伝える。

Img_8221説明板

Img_8223初田川の橋板に転用していた古墳石室の長持形石棺蓋石

Img_8225恵心僧都源信誕生の地碑 《地図

Img_8229千股池(右)

堤上の「修築記念碑」の前で一休み。寛永5年(1628)に築造し、享保15年(1730)に拡張修築した溜池のようだ。

Img_8233二上山(右が雄岳(517m)・左が雌岳(474m))

謀反の疑いで処刑された弟、大津皇子の姉の大伯皇女の歌が万葉集に載る。雄岳山頂付近に大津皇子の墓がある。2000年の10月に登ったことがあるが、当時のことはすっかり忘れている。

南下して当麻寺駅を過ぎる。今朝のNHKTVのニュースで当麻寺の紅葉を放送していた。駅付近には紅葉狩りの人たちがちらほらといた。こちらは山陽道、室津街道で紅葉は十分に堪能したので寄らなかった。

Img_8243地蔵堂 《地図

「平田の地蔵さん」というらしい。

Img_8245竹内街道合流地点 《地図

左に竹内街道を進み、すぐ先の長尾神社の狛親子に挨拶して磐城駅に向かった。

竹内街道横大路初瀬街道伊勢街道と街道はさらに東へと続いて行く。

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2014年12月11日 (木)

長尾街道①

2014年11月26日

堺駅(南海本線)・・・大小路筋・・・紀州街道・・・ザビエル公園・長尾街道起点・・・菅原神社・・・誓源寺・・・(阪神高速15号堺線)・・・長尾街道標柱・南海高野線地下道・・・方違神社・熊野古道交差地点・三国の坂・・・大阪刑務所・・・金岡南一踏切(JR阪和線)・・・小今池橋(狭間川)・・・長尾街道説明板・・・愛染院・・・(地下鉄御堂筋線)・・・地蔵祠・・・道標・・・須牟地曽根神社(勝手大明神)・・・蔵前橋(光竜川)・・・遠見地蔵尊・・・(松原市)・・・惣井戸跡・布忍橋(西除川)・下高野街道交差地点・・・踏切(近鉄南大阪線)・・・今池・・・ちちかみ橋碑・・・中門の堰樋碑・・・阿保茶屋跡・中高野街道交差地点・・・寺池・・・(中央環状線)・・・高鷲橋(東除川)・・・(羽曳野市)・・・吉村家住宅・・・雄略天皇陵・・・(藤井寺市)・・・古市街道合流地点・道標・・・光乗寺・・古市街道分岐地点・・道標・・・(西名阪道)・・・(大阪外環状線)・・・新大蔵橋(大水川)・・・(国道170号)・・地蔵道標・・市野山古墳(允恭天皇陵)・・・東高野街道交差地点・道標・・・道明寺駅(近鉄南大阪線)

  長尾街道は古代には大津道、江戸時代には大和街道と呼ばれ、堺と河内・大和地方を結ぶ重要な東西道だった。また道明寺や葛井寺への参詣道としても賑わった。竹内街道の北方を通り奈良県葛城市の長尾神社の手前で竹内街道と合流した。

  【ル-ト地図】(道明寺駅(16.7km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7938ザビエル公園地図

ここは天文19年(1550年)、フランシスコ・ザビエルが堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近で、「聖フランシスコ・ザビエル芳躅(ほうたく)の碑」・「堺鐡砲之碑」・「慈眼院之址碑」などがある。

この前の紀州街道との交差点が長尾街道の起点。2本南の大小路が竹内街道の起点。

Img_7939紀州街道を横切って長尾街道に入る。

Img_7949菅原神社楼門(境内から) 《地図

Img_7944説明板

Img_7951長尾街道標柱(南海高野線地下道手前) 《地図

堺市にはこの標柱が数多く立っている。

Img_7952方違神社前で熊野古道(紀伊路)と交差する。《地図

長尾街道は直進する。このあたりは摂津・和泉・河内の境で三国の坂と呼ばれていたが、今は傾斜はほとんど感じない広い車道だ。坂上の三国ヶ丘には三国茶屋があったという。

JR阪和線の踏切を渡って行く。

Img_7977長尾街道標柱と説明板(五箇荘中学校前)

説明板には「さかいの五街道」として、A紀州街道・B熊野街道・C長尾街道・D竹内街道・E西高野街道が記されている。

Img_7985新堀町の旧家

Img_7988愛染院の大クス 《地図

Img_7994説明板

Img_7995聖観音像(本尊・本堂内)

愛染堂は山門を入った左側にある。

Img_7990愛染院旧石橋(元禄4年(1691))

Img_7989説明板

Img_8001_2地蔵祠 《地図

左の地蔵の台座に「ひだりハふじゐ寺 はせならみち」で、長尾街道は藤井寺を通って、葛城市で竹内街道と合流して横大路に続き、奈良から初瀬街道で長谷へと続き、さらに伊勢街道で伊勢神宮へと通じる。

Img_8006祠の後ろの道標

「右 たき谷 金剛山 道」・「天保十五年・・・・・」で、元の地蔵堂の柱だったそうだ。

Img_8008旧家

Img_8009道標 《地図

Img_8012「← 葛井寺 道明寺」が長尾街道だが、「右 勝手大明神」へ進んでみる。

Img_8014須牟地曽根神社(勝手大明神)

Img_8015由来

長尾街道に戻る。蔵前橋(光竜川)を渡り、堺市と松原市の境を進む。

Img_8020遠見地蔵

昔はこの地から堺の海を望むことができたことから、この名がついたという。今は海はおろか扉が閉まっていて近くの地蔵も見えない。

松原市に入る。

Img_8027惣井戸(布忍(ぬのせ)橋の手前) 《地図

Img_8028説明板

Img_8029惣井戸

古代の大津道の駅家の施設の名残りともいう。もとは布忍橋(西除川)西詰の堤防上にあったもので、井筒に「更池村惣井戸 寛政八丙辰年十二月」と刻む。

布忍(ぬのせ)橋の西側で中高野街道と交差する。

Img_8036今池

Img_8041長尾街道・ちちかみ橋説明碑(松原警察署の向かい側) 《地図

Img_8039由来(ちちかみ橋)

読んでいたら男の私でも乳首が痛くなった。

Img_8046中門の堰樋

大海池(おおがいけ)用水の堰樋だった。

Img_8044説明板

Img_8049分量石

Img_8047堰樋と分量石図

Img_8054阿保(あおん)茶屋跡 《地図

「あぼ」と思っていた。ここは中高野街道との交差地点。石碑は「松原村出征軍人碑」

Img_8051説明板

東除川の高鷲橋を渡ると羽曳野市に入る。

Img_8072吉村家住宅地図

吉村家は源頼朝の武将・佐々木高綱の子孫で、鎌倉時代初期に島泉付近に移り住んだと伝えられるそうだ。

Img_8070説明板

Img_8082雄略天皇

天皇陵に治定され手つかずで、古墳と周濠は野鳥と水鳥の楽園だ。

この先で藤井寺市に入る。

Img_8086旧家

この先で突き当り古市街道と合流し、少し南下する。

Img_8091突き当りの道標(慶応3年(1867)) 《地図

下が埋まっている。元は常夜灯か? 「右 いせ 道明寺 葛井寺」・「村内安

Img_8099この先を左折し、古市街道と分かれる。《地図

Img_8103分岐点の南東角にあった道標(元禄14年(1701))

現在は藤井寺市役所前に移設。

Img_8102説明板

西名阪道をくぐり、大阪外環状線・・・新大蔵橋(大水川)・・・国道170号を渡って行く。

Img_8114地蔵の祠 《地図

Img_8120台座の正面に「右大坂さかひ 左ならはせ道」・左面に「右ふじゐてら道」

Img_8123市野山古墳(允恭天皇陵)

Img_8124説明板

Img_8128東高野街道交差地点 《地図

渡った右側に道標「右 道明寺」
今日はここまでとし、道明寺駅に向かった。

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2014年12月 7日 (日)

室津街道

2014年11月25日

山陽姫路駅(山陽電鉄) 神姫バス→室津西口・・友君橋・・室津海駅館・・本陣紀伊国屋跡・・見性寺・・室津民俗館・・本陣肥後屋跡・・本陣筑前屋跡・・室津診療所・・姫路藩御茶屋跡・・徳乗寺・・本陣薩摩屋跡・・明神道・・本陣肥前屋跡・・本陣一ツ屋跡・・湊口番所跡・龍福寺跡・・賀茂神社・・大聖寺・・浄運寺・遊女友君の塚・・貝堀の井戸・・・藻振鼻・藻振観音堂跡・万葉歌碑・・・友君橋・きむらや旅館・国道250号・・・旧道・・屋津坂・・・鳩ヶ峰標柱・・・近藤池・・・丸亀藩使者場跡①・・大谷川橋・・・道標・・・馬場宿本陣跡・・・元誓寺・・・県道442号・・・旧道・・・(丸亀藩高札場跡)・・・龍隆寺・金剛山廃寺跡・・日吉神社・・・西遊寺・・・袋尻浅谷遺跡・・・道標・・・丸亀藩使者場跡②・水神社・・揖保川土手・・・(馬路川)・・・豊受神社・・・(山陽新幹線)・・・正條の渡し跡・山陽道合流地点・山陽道・・・竜野駅(JR山陽本線)

 山陽道正條宿の正條の渡しから室津の港に通じる室津街道を歩く。室津は古来よりの風光明媚な天然の良港で、万葉集にも詠まれ、行基により摂播五泊の一つに定められ、江戸時代には西国大名の参勤交代や朝鮮通信使の上陸地として栄えて「室津千軒」とまでいわれた。
 雨の室津を散策し、屋津坂経由で鳩ヶ峰を越えて馬場宿を通って揖保川に出て、正條の渡し跡まで行く。迷う道でもなさそうだしちょうど半日の行程だろう。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7791友君橋 《地図

君は木曽義仲の愛妾だった山吹御前で、流れついた室津で舞いを見せ、遊女の始まりと伝えられている。法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に出逢う。友君は「この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と訴えた。法然から阿弥陀如来の本願と念仏の勧めを聞いた友君は後年尼となる。許されて京に戻る上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったという。

Img_7683室津漁港

「此の泊(とまり) 風を防ぐこと の如し 故に因りて名を為す」(播磨国風土記)と記されているように、古来よりの天然の良港で、行基の定めた摂播五泊の一つでもある。
治承4年(1180)に高倉上皇が平清盛らと海路厳島神社へ参拝の途中で室津に寄港した際の、源通親の随行記『高倉院厳島御幸記』には、「室(むろ)の泊に着き給。山まはりて、その中に池などのやうにぞ見ゆる」と記す。
今日は雨でひっそりと時が止まったように静かな情景だ。
 

Img_7690室津海駅館 《地図

廻船問屋の豪商、嶋屋の建物。海の宿駅として栄えた室津の資料館となっていて参勤交代や朝鮮通信使に関する資料を展示しているようだが、あいにく今日は休館日。

Img_7692室津の家並み 《地図

江戸時代には西国大名の参勤交代の上陸地として栄え、6軒の本陣、脇本陣を兼ねた豪商の邸宅、宿屋、揚げ屋、置屋などが軒を連ね、文字通り「室津千軒」の賑わいであったという。しかし殷賑をきわめた室津も明治維新後は陸上交通などの時代の波にさらされて衰退して行った。

Img_7695案内図 

本陣は最多時には6軒あったが、昭和40年代にはすべての建物は姿を消した。今は新しい建物か空地になっていて往時は偲べない。

Img_7696『街道をゆく』からの一文

室津郵便局前 

Img_7697本陣紀伊国屋跡(右に標柱)

Img_7700清十郎生家跡(左に標柱)

西鶴で有名な「お夏清十郎」の清十郎は、ここの造り酒屋の息子だったという。山陽道の片上宿の先の葛坂には「お夏の墓」があった。

Img_7702見性寺

室津の遊女の室君の花漆が建立したと伝わる五ヶ精舎のうちで現存する唯一の寺という。花漆は唐船の貴人からもらった贈り物を朝廷に献上し、この時賜った千両で、五ヶ寺を建立したとか。
書写山円教寺を創建した性空上人がある夜、室の白拍子が普賢菩薩だという夢のお告げを聞く。花漆は、室津を訪れた性空上人の前でに舞い終わると、白象にまたがり西方に飛び立とうとした。この時上人のつかまえた白象の尾が抜けたので、花漆の館であった町を「尾の町」と名づけたという伝説もあるというから、友君より以前に室津に遊女がいたことになる。
 また『高倉院厳島御幸記』には、「この泊の
遊女者(あそびもの)ども、古き塚の狐の夕暮に媚(ば)けたらんやうに、我も我もと御所近くさし寄す」と書かれているから友君の先輩たちだ。古今東西、港に女はつきものということだろう。 

Img_7703説明板

Img_7706室津民俗館 《地図

豪商の海産物問屋「魚屋」の旧豊野家住宅で、脇本陣としても使われた。向かい側が「本陣肥後屋跡」

Img_7711本陣筑前屋跡

Img_7716寂静寺

天正3年(1575)の創建という。山門をくぐった右は経蔵の転法輪で一切経の本と、阿弥陀如来像と三蔵法師像が安置されているそうだ。

Img_7717古風な室津診療所

Img_7718姫路藩御茶屋跡 《地図

姫路藩主の池田輝政によって建てられた、藩主が領内を巡視する際の休泊施設。今は「たつの市室津出張所」と「みなと茶屋」として営業中。

Img_7720説明板

Img_7724案内図②

Img_7725本陣薩摩屋跡

Img_7727明神道を賀茂神社の方へ進む。

Img_7733本陣肥前屋跡

司馬遼太郎が昭和49年3月に『街道をゆく』の取材で室津を訪れた時には、まだ建物が現存していた。「・・・薩摩屋 肥前屋 紀伊国屋といった大屋敷が、修復の仕様もないほど朽ちはてて軒を傾かせている。そのうちの肥前屋の前に立つと、城楼のような蔵をそなえた堂々たる破風造りの二階建てながら、壁は落ち、大屋根は波打ち、なんともすさまじい落ち崩れようながらも、歴史の残映を平然と白昼の路上にとり残させているあたり、室津という町の凄味といっていい」と、「播州揖保川・室津みち」で書いている。取り壊される寸前の時だったのだろう。この先の右側が本陣一ツ屋跡。 

Img_7738大坂城築城残石 《地図

大坂へ運ぶ途中で海に落ちた”残念石”で、山陽道の徳山藩館邸跡にもあった。『山陽道(高水駅→福川駅) 

この前の海沿いが姫路藩の湊口番所跡で、中世には見性寺の末寺の龍福寺があった。

Img_7736説明板

Img_7740急な石段を上り賀茂神社境内へ。

不規則で雨に濡れて滑りやすく慎重に上る。 

Img_7741説明板

Img_7754境内図

本殿と拝殿の間に空間があり、向き合っている。「飛び拝殿」というらしい。 

Img_7747賀茂神社唐門・本殿

治承4年(1180)に高倉上皇と平清盛らが参拝している。 

Img_7744拝殿

Img_7748神門から出て浄運寺へ向かう。 

この四脚門が表門で石段脇にソテツが群生する。

Img_7753ソテツ 

野生状態の群生林では日本の北限だそうだ。 

Img_7752_2説明板

Img_7759浄運寺

お夏の木像、友君の坐像もあるようだ。

Img_7762縁起

Img_7760遊女友君の塚(墓)

Img_7769法然上人貝堀の井戸 《地図

Img_7770説明板

Img_7773藻振鼻への道から

風も弱く波もなく静寂の雨の中を、室君花漆、友君、お夏などを偲びながら歩くのにはうってつけだ。

Img_7781藻振鼻の万葉歌碑(山部赤人) 《地図

「玉藻刈る辛荷の島に島廻(しまみ)する水烏(う)にしもあれや家思はざらん」
室津には古来、多くの文人墨客が訪れ、作品に取り上げている。広重は「山海見立相撲・室津図」を描いている。『室津と文学

Img_7780唐荷島の眺め(藻振観音堂跡から)

昔、唐の船が難破して積み荷がこの島に流れ着いたところからその名がついたという。手前から地の唐荷島、中の唐荷島、沖の唐荷島。

室津散策を終え、友君橋から室津街道を行く。友君橋の向い側の国道250号沿いのきむら旅館の東側から上るのが旧室津街道だが、雨が降り続いているので明治時代に造られた屋津坂越えの新室津街道を進んだ。

Img_7680きむらや旅館(別館千年茶屋)

谷崎潤一郎、竹久夢二、司馬遼太郎も泊まっている。まあ室津では旅館はここだけのようだが。

Img_7795国道250号から右へ旧道の屋津坂に入る。《地図

Img_7797旧道

舗装されている部分も多い。

Img_7806室津の海が見える。

Img_7811_2旧道入口

きむらや旅館の東側からの道はここへ通じているのだろう。左に「御津山脈縦走路 嫦娥山登山口」の標識が架る。旧道は嫦娥(峨)山(じょうがさん・265m)と屋津坂の間を通ってここへ出るのだろう。

Img_7815鳩が峰(108m) 《地図

左の標柱には、「室津街道上の丸亀藩と姫路藩の境界。当時の街道は現在地より東へ200Mほど登ったところ。かつてシーボルトもここを通って江戸に参府した」とある。なぜこの先が讃岐の丸亀藩なのかは間もなく分かる。

Img_7825ダイセル化学の敷地沿いを下って行く。

Img_7829近藤池

Img_7836丸亀藩使者場跡(右に標柱と説明板) 《地図

Img_7838説明板

龍野藩主の京極氏が四国の丸亀に移封されると同時に、丸亀藩の飛地となった」とある。

Img_7840道標(馬場地区)

「左室津港」・「右相生町」

Img_7850馬場宿本陣跡高西家

Img_7854最近は所構わず出没か

この先で県道442号と合流する。

Img_7855再び左に旧道を金剛山地区に進む。

Img_7859「金剛山廃寺」標識

「白鳳時代寺院跡」200mとあるので行って見る。このあたりに丸亀藩の高札場があったようだ。

金剛廃寺跡が分からずにうろついて引き上げかける。

Img_7862荒れた寺が見える。

でも白鳳時代の建物ではあるまい。

Img_7865龍隆寺(跡) 《地図

  • 右の標柱に「法道仙人開基 盤珪国師中興 道場」とある。近年は住職不在の状態というが廃寺ではないようだが。
    このあたり一帯が金剛山廃寺跡で、この向い側に標柱が立つ。

Img_7866金剛山廃寺跡

「この一画に法起寺式伽藍配置の建物が甍(いらか)を並べて建っていた。龍隆寺の境内には、今も塔の心礎が残っている」とある。

Img_7872日吉神社

今日も紅葉に出会えた。

Img_7886西遊寺跡か? 《地図

ここも荒れている。奥の墓地は健在だが。

Img_7891袋尻浅谷遺跡標柱(左)

弥生前期の土拡墓15基、壺棺1基、古墳前期の横穴式古墳4基が確認された。

Img_7895道標(昭和3年御大典記念) (電柱の右側) 《地図

「右 室津 石見港・・・・」、「左 網干町 御津村・・・・」で、「・・・・」は距離が標示されている。

Img_7911丸亀藩使者場跡・水神社

Img_7914揖保川沿いとなる。

この先で馬路川を渡る。《地図

Img_7917豊受神社(左下)

前方の山陽新幹線をくぐれば正條の渡し跡だ。

Img_7921正條の渡し跡 《地図

山陽道との合流地点で室津街道はここで終わる。正條宿を通り竜野駅に向かった。

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2014年12月 4日 (木)

山陽道(長府駅→下関駅)

2014年11月24日

長府駅(JR山陽本線)・・・八幡御旅所・・・八幡橋・・・菊舎旧宅跡・・狩野芳崖宅跡・・・印内西交差点(国道2号)・・鞏昌橋(印内川)・・大乗寺・・徳応寺・・法華寺・・正円寺・・忌宮神社・豊浦宮跡碑・集童場場長室跡・・横枕小路・・乃木神社・・吉岡家長屋・・長門国分寺跡・・和同橋(逢坂川)・・覚苑寺・長門鋳銭所跡・・総社跡・長府毛利邸・・古江小路・菅家長屋門・・壇具橋(壇具川)・長府藩侍屋敷長屋跡・山頭火句碑・・笑山寺・・回天義挙之所碑・功山寺・・野久留米街道・・軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑・・辻堂峠・・清水地蔵祠・・・前田地区・・・ロープウェイ壇ノ浦駅・・・安徳天皇入水像①・・・みもすそ川公園・壇ノ浦砲台跡碑・・壇ノ浦古戦場跡・安徳天皇御入水之処碑・・関門人道トンネル・・・門司側・和布刈神社・・関門人道トンネル・・・下関側・・・立石稲荷神社・・・安徳天皇入水像②・朝鮮通信使上陸淹留之地・・赤間神宮・・春帆楼・・赤間関宿本陣伊藤邸跡・・引接寺・・旧下関英国領事館・・亀山八幡宮・山陽道標柱(山陽道終点)・・聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑・堂崎の渡し場跡碑・・唐戸桟橋・唐戸連絡船→門司港→唐戸桟橋・・・旧秋田商会ビル・・・(現)国分寺・・・寿公園・・・上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地)・・・馬関越荷方役所跡・・山口銀行旧本店・・・永福寺参道・・・光明寺・・・東光寺・・・一二三坂(お祓い坂)・大歳神社・・・下関駅(山陽本線)

  城下町長府を紅葉を楽しみながら散策し、辻堂峠を越えて源平、幕末の史跡の多い壇ノ浦へ入る。海底の関門トンネル人道を往復し、赤間神宮から赤間関宿へと進み、亀山八幡宮前の堂崎の渡し跡を山陽道の終点とした。近くの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港までを往復し下関駅に向かった。

  【ル-ト地図】(長府駅(7.7km)→下関駅・ただし唐戸桟橋(25.5km)←往復→門司港桟橋は関門連絡船)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7283八幡御旅所

ここは長府八幡町で八幡宮と思ったが社殿がない。忌宮神社の御旅所で宇津宮というそうだ。

この先で八幡(やわた)橋を渡って行く。

Img_7287土塀の旧家

Img_7290菊舎旧宅跡(左・長府印内町9) 

江戸時代の女流俳人

Img_7291説明板

Img_7297狩野芳崖宅跡(菊舎旧宅の向い側を入ったあたり)

Img_7294説明板

国道2号の印内西交差点を横切る。

Img_7300鞏昌(きょうしょう)橋(印内川)を渡り、長州藩の支藩の長府藩の「城下町長府」を散策する。

橋の手前に一里塚があったという。大乗寺、徳応寺と並んでいる。ここは長府金屋町で、長門国府の鋳物師が住み、「金座」として賑わったという。

Img_7304菊舎句碑(徳応寺境内) 《地図

「雲となる花の父母なり春の雨」

Img_7305徳応寺墓地

菊舎の墓がある。

Img_7309正円寺の大イチョウ(樹齢千年)

狭い所で窮屈そうだ。

Img_7330忌宮神社

長門国の二の宮で、一の宮は住吉神社

Img_7328由緒

Img_7321豊浦宮皇居趾碑

後ろが長州藩士の福田扇馬の開いた私塾の集童場場長室跡で、もとは古江小路にあったものを移築。乃木希典も学んだそうだ。

Img_7322説明板

Img_7323説明板(集童場場長室跡)

Img_7337横枕小路を乃木神社に向かう。

Img_7339乃木神社

境内には乃木将軍が育った家が復元されているようだが、軍人には会いたくないのですぐ引き返す。

Img_7341横枕小路を国分寺跡に向かう。

Img_7347
吉岡家長屋

Img_7346説明板

Img_7342旧家(吉岡家長屋の向い側)

Img_7350長門国分寺跡 《地図

寺域は他国のものより狭く、方一町程度だったと推定されている。現国分寺は南部町にある。国衙は忌宮神社近くにあったと推定されている。

Img_7349説明板

Img_7371覚苑寺前の紅葉 《地図

Img_7366覚苑寺本堂

Img_7367説明板

Img_7361長門鋳銭所(ちゅうせんしょ)跡(覚苑寺境内)

開設は和同年間(708~714)で、和同開珎も鋳造した。天長2年(825)に廃止となり、周防鋳銭司(じゅぜんじ)に移った。現在発掘調査中

Img_7365説明板

Img_7372毛利邸へ向かう。

Img_7391総社跡(毛利邸の南側あたり)

長府惣社町にその名が残る。

Img_7374長府毛利邸 《地図

Img_7388ここも真っ赤だ

Img_7375説明板

Img_7386母屋

Img_7383明治天皇宿泊の間

意外と質素な部屋だ。維新の立役者の長州藩では文句も言えまい。
敷地は防府の毛利本邸の方が5倍も広い。ここの池泉回遊式庭園もそれほどのことはなかった。

Img_7394古江小路 《地図

くはこのあたりまで入になっていたという。

Img_7397菅家長屋門(古江小路の途中)

Img_7396説明板

Img_7401侍屋敷長屋(移築)・壇具川 《地図

Img_7404説明板①

Img_7403説明板②

Img_7402説明板③

Img_7406山頭火句集の「山行水行」の冒頭碑(侍屋敷長屋の庭)

「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春 夏 秋 冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」
防府では山頭火の生家跡に寄った。『山陽道(福川駅→大道駅)』 
愛媛県の松山では終(つい)の棲家の一草庵を訪れた。『四国遍路道(愛媛県⑧)

Img_7411笑山寺 《地図

毛利長府藩の初代藩主、毛利秀元の開基。父の毛利(穂井田)元清の法号「洞雲寺笑山常快」にちなむ寺名。左に十三重石塔

Img_7410説明板

Img_7413高杉晋作回天義挙之所碑(左)

ここ功山寺で挙兵した。

Img_7415功山寺山門

修理中で左に長府博物館の方へ迂回する。

Img_7414説明板

Img_7428長府博物館(正面)

Img_7420仏殿(国宝)

Img_7419説明板

ようやく「城下町長府」散策を終え、山陽道を行く。

Img_7432野久留米街道を辻堂峠へ上る。《地図

功山寺で挙兵した高杉晋作らは、この街道を駆け抜け萩本藩新地会所を襲撃したという。
途中右に「軍神廣瀬中佐 亡友展墓記念碑」が立つ。

Img_7437清水地蔵の祠(右)

これが辻堂峠の辻堂だろうか?

峠から前田地区に下る途中に、壇ノ浦の戦いに敗れた平家が落ち延びたと伝えられている「高畑部落」への標識「平家塚 霊鷲山」が立っている。

Img_7444古城山(175m)と関門橋(1068m)が見え始めた。

Img_7448前田地区の関門海峡沿いで一休み。 《地図

前田には毛利綱元により山荘(御茶屋)が造られ、幕末にはこの近くに前田砲台が築かれた。また古代山陽道の終点の臨門駅があったと推定されている。
2003年12月20日に正面の古城山(門司城跡)の上から関門海峡を絶えず行き交う大小、色とりどりの船を飽きずに眺めていた。もう一昔前で懐かしかった。

Img_7465火の山ロープウエイ地図

今日は3連休の最後で天気も良く、乗客も多いようだ。

Img_7473安徳天皇入水像(備前焼・みもすそ川別館内) 《地図

二位の尼に「浪の下にも都の候ぞ」(平家物語)と言い聞かされ、抱かれて海中の都に旅立った。

Img_7466壇浦砲䑓(ほうだい)舊址碑(正面) 《地図

Img_7468みもすそ川公園に長州砲(八十斤加農(カノン)砲)5基(レプリカ)が並んでいる。

文久3年(1863)、長州藩は関門海峡と通る外国船を壇ノ浦砲台から攻撃した。翌年に米英仏蘭の四国連合艦隊17隻に報復襲撃され前田砲台ともに破壊され占領された。 『下関戦争

Img_7532壇ノ浦古戦場

義経八艘飛び像・知盛「碇潜」(いかりかづき)像。ここは関門海峡の一番狭まった所で「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい難所だった。この下を通る関門トンネル人道で門司側に行く。

Img_7531説明板①

Img_7544説明板②

Img_7524関門トンネル人道入口 《地図

エレベータで地下55mまで下り、門司側まで780mの海底を歩く。料金箱?があるので有料かと思ったら歩行者は無料だった。

Img_7523海底県境

安徳天皇もこの上あたりに眠っているかも。ジョギングで何度も往復しているおっさんもいた。

Img_7484門司側から

Img_7504和布刈神社地図

「和布刈神事」は松本清張の推理小説「時間の習俗」に登場する。

Img_7507説明板

人道トンネルで下関側に戻る。

Img_7539朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地 《地図

ここにも安徳天皇入水像。これでは海中に沈まずに浮き上がってしまうかも。安徳天皇生存説も各地に残るようだ。義経不死北行伝説と同じく、判官びいきのなせる技だろう。
奥に日本語、韓国語、英語の大きな「淹留之地」碑が立つ。

Img_7546海峡守護の碇

Img_7545由来

Img_7550赤間神宮水天門・太鼓櫓

Img_7549境内図

Img_7558拝殿

Img_7553安徳天皇陵

Img_7561平家一門の墓

水をやり花を手向けるおばさんたちは平家一門、落人の末裔か??

Img_7564耳なし芳一

小泉八雲の『耳無芳一の話

Img_7566説明板

Img_7570春帆楼(しゅんぱんろう)

ふぐ料理を気に入った伊藤博文が、「ふぐ食用禁止令」を解禁して「ふぐ料理公許第一号店」となった料亭。日清戦争の講和会議の舞台ともなった。右側の建物は日清講和記念館。

Img_7573赤間関宿本陣伊藤邸跡(東の本陣跡) 《地図

坂本龍馬とお龍は一時期、伊藤家の一室の「自然堂」で暮らした。
「西の本陣」の佐甲邸跡は下関商港沿いの細江町3丁目の「アドバンス21ベイスクエア下関」の所だそうだ。《地図

Img_7576説明板

Img_7582引接寺(いんじょうじ)三門

朝鮮通信使や日清講和会議の全権大使・李鴻章も泊まった寺。
三門天井の左甚五郎の作ともいう龍の彫刻を見逃した。『引接寺の伝説

Img_7581説明板

Img_7589旧下関英国領事館

Img_7591説明板

Img_7598山陽道標柱(明治11年) 《地図

山陽道の起点・終点を示す碑で、正面に「山陽道」・右面に「長門国豊浦郡赤間関」・裏面に「明治十一年九月 渡船場蒲築 山口懸」で、拙者もここを山陽道の終点とした。

Img_7602亀山八幡宮から堂崎の渡し(下関商港・唐戸桟橋)方向

昔はこのあたりは海に突き出た地形で、八幡宮の東側に船番所と渡船場があった。ここにも亀山砲台が築かれ下関戦争で連合国への第一弾が発射された。唐戸市場も家族連れなどで賑わっていた。

Img_7606聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑・堂崎の渡し場跡碑

Img_7604碑文

すぐそばの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港桟橋に向かう。

Img_7611唐戸桟橋 《地図

休日でけっこう混んでいた。片道400円で往復割引はなしで門司港まで5分。

Img_7614船の舳(へさき)で波しぶきを浴びながら門司港へ。

昔は門司港の南の大里(だいり)宿の本土渡海口へと渡っていた。(門司往還に記載) そして小倉から九州の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)へと道は続く。唐津街道中津街道は歩いている。これで本州の竜飛崎から九州の唐津、中津までつながったことになる。

門司港で一休みして唐戸桟橋へ引き返し、下関駅に向かう。

Img_7629旧秋田商会ビル 《地図

Img_7632説明板

Img_7634(現)国分寺 《地図

Img_7636金子みすゞ顕彰碑(寿公園) 《地図

金子みすゞの20歳の写真(中央)と紹介文(右)で、左は詩「はちと神さま」:「はちはお花のなかに、お花はお庭になかに、お庭は土べいのなかに、土べいは町になかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃなはちのなかに」

Img_7639上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地) 《地図

Img_7637説明板

Img_7638詩碑「みんなを好きに」

Img_7642馬関越荷方役所跡碑

Img_7644説明板

Img_7647山口銀行旧本店

Img_7645説明板

Img_7649永福寺参道前 《地図

「山陽道」(山口県歴史の道調査報告書)では、ここに一里塚があり、山陽道の起点・終点とする。堂崎の渡し場からはかなり離れている。

Img_7651光明寺地図

幕末には、松下村塾で高杉晋作とともに双璧と称された久坂玄瑞が中心となって結成し、後に奇兵隊の母体となった「光明寺党」と呼ばれる有志隊が寄宿していた。

Img_7665大歳神社地図

奇兵隊の支援者の豪商、白石正一郎の奉納した大鳥居。この石段が一二三(ひふみ)坂(お祓い坂)だろう。昭和15年に当地に遷座した時には123段あったのだろうか。現在は何段あるかは数えなかった。

Img_7666説明板

Img_7667由来(大歳神社)

Img_7671七卿潜寓の画碑

Img_7673説明板

Img_7674蓑笠姿で長州へ下向する七卿たち。

長府駅を出発したのが7時半過ぎ、下関駅に着いたのは17時近くだった。

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