山陽道(長府駅→下関駅)
2014年11月24日
長府駅(JR山陽本線)・・・八幡御旅所・・・八幡橋・・・菊舎旧宅跡・・狩野芳崖宅跡・・・印内西交差点(国道2号)・・鞏昌橋(印内川)・・大乗寺・・徳応寺・・法華寺・・正円寺・・忌宮神社・豊浦宮跡碑・集童場場長室跡・・横枕小路・・乃木神社・・吉岡家長屋・・長門国分寺跡・・和同橋(逢坂川)・・覚苑寺・長門鋳銭所跡・・総社跡・長府毛利邸・・古江小路・菅家長屋門・・壇具橋(壇具川)・長府藩侍屋敷長屋跡・山頭火句碑・・笑山寺・・回天義挙之所碑・功山寺・・野久留米街道・・軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑・・辻堂峠・・清水地蔵祠・・・前田地区・・・ロープウェイ壇ノ浦駅・・・安徳天皇入水像①・・・みもすそ川公園・壇ノ浦砲台跡碑・・壇ノ浦古戦場跡・安徳天皇御入水之処碑・・関門人道トンネル・・・門司側・和布刈神社・・関門人道トンネル・・・下関側・・・立石稲荷神社・・・安徳天皇入水像②・朝鮮通信使上陸淹留之地・・赤間神宮・・春帆楼・・赤間関宿本陣伊藤邸跡・・引接寺・・旧下関英国領事館・・亀山八幡宮・山陽道標柱(山陽道終点)・・聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑・堂崎の渡し場跡碑・・唐戸桟橋・唐戸連絡船→門司港→唐戸桟橋・・・旧秋田商会ビル・・・(現)国分寺・・・寿公園・・・上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地)・・・馬関越荷方役所跡・・山口銀行旧本店・・・永福寺参道・・・光明寺・・・東光寺・・・一二三坂(お祓い坂)・大歳神社・・・下関駅(山陽本線)
城下町長府を紅葉を楽しみながら散策し、辻堂峠を越えて源平、幕末の史跡の多い壇ノ浦へ入る。海底の関門トンネル人道を往復し、赤間神宮から赤間関宿へと進み、亀山八幡宮前の堂崎の渡し跡を山陽道の終点とした。近くの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港までを往復し下関駅に向かった。
【ル-ト地図】(長府駅(7.7km)→下関駅・ただし唐戸桟橋(25.5km)←往復→門司港桟橋は関門連絡船)
写真をクリックすると拡大します。
ここは長府八幡町で八幡宮と思ったが社殿がない。忌宮神社の御旅所で宇津宮というそうだ。
この先で八幡(やわた)橋を渡って行く。
菊舎旧宅跡(左・長府印内町9)
江戸時代の女流俳人
狩野芳崖宅跡(菊舎旧宅の向い側を入ったあたり)
国道2号の印内西交差点を横切る。
鞏昌(きょうしょう)橋(印内川)を渡り、長州藩の支藩の長府藩の「城下町長府」を散策する。
橋の手前に一里塚があったという。大乗寺、徳応寺と並んでいる。ここは長府金屋町で、長門国府の鋳物師が住み、「金座」として賑わったという。
菊舎句碑(徳応寺境内) 《地図》
「雲となる花の父母なり春の雨」
菊舎の墓がある。
狭い所で窮屈そうだ。
長門国の二の宮で、一の宮は住吉神社。
後ろが長州藩士の福田扇馬の開いた私塾の集童場場長室跡で、もとは古江小路にあったものを移築。乃木希典も学んだそうだ。
境内には乃木将軍が育った家が復元されているようだが、軍人には会いたくないのですぐ引き返す。
長門国分寺跡 《地図》
寺域は他国のものより狭く、方一町程度だったと推定されている。現国分寺は南部町にある。国衙は忌宮神社近くにあったと推定されている。
覚苑寺前の紅葉 《地図》
開設は和同年間(708~714)で、和同開珎も鋳造した。天長2年(825)に廃止となり、周防鋳銭司(じゅぜんじ)に移った。現在発掘調査中
長府惣社町にその名が残る。
意外と質素な部屋だ。維新の立役者の長州藩では文句も言えまい。
敷地は防府の毛利本邸の方が5倍も広い。ここの池泉回遊式庭園もそれほどのことはなかった。
古江小路 《地図》
古くはこのあたりまで入江になっていたという。
侍屋敷長屋(移築)・壇具川 《地図》
山頭火句集の「山行水行」の冒頭碑(侍屋敷長屋の庭)
「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春 夏 秋 冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」
防府では山頭火の生家跡に寄った。『山陽道(福川駅→大道駅)』
愛媛県の松山では終(つい)の棲家の一草庵を訪れた。『四国遍路道(愛媛県⑧)』
笑山寺 《地図》
毛利長府藩の初代藩主、毛利秀元の開基。父の毛利(穂井田)元清の法号「洞雲寺笑山常快」にちなむ寺名。左に十三重石塔
ここ功山寺で挙兵した。
功山寺山門
修理中で左に長府博物館の方へ迂回する。
長府博物館(正面)
ようやく「城下町長府」散策を終え、山陽道を行く。
野久留米街道を辻堂峠へ上る。《地図》
功山寺で挙兵した高杉晋作らは、この街道を駆け抜け萩本藩新地会所を襲撃したという。
途中右に「軍神廣瀬中佐 亡友展墓記念碑」が立つ。
これが辻堂峠の辻堂だろうか?
峠から前田地区に下る途中に、壇ノ浦の戦いに敗れた平家が落ち延びたと伝えられている「高畑部落」への標識「平家塚 霊鷲山→」が立っている。
古城山(175m)と関門橋(1068m)が見え始めた。
前田地区の関門海峡沿いで一休み。 《地図》
前田には毛利綱元により山荘(御茶屋)が造られ、幕末にはこの近くに前田砲台が築かれた。また古代山陽道の終点の臨門駅があったと推定されている。
2003年12月20日に正面の古城山(門司城跡)の上から関門海峡を絶えず行き交う大小、色とりどりの船を飽きずに眺めていた。もう一昔前で懐かしかった。
今日は3連休の最後で天気も良く、乗客も多いようだ。
二位の尼に「浪の下にも都の候ぞ」(平家物語)と言い聞かされ、抱かれて海中の都に旅立った。
壇浦砲䑓(ほうだい)舊址碑(正面) 《地図》
みもすそ川公園に長州砲(八十斤加農(カノン)砲)5基(レプリカ)が並んでいる。
文久3年(1863)、長州藩は関門海峡と通る外国船を壇ノ浦砲台から攻撃した。翌年に米英仏蘭の四国連合艦隊17隻に報復襲撃され前田砲台ともに破壊され占領された。 『下関戦争』
義経八艘飛び像・知盛「碇潜」(いかりかづき)像。ここは関門海峡の一番狭まった所で「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい難所だった。この下を通る関門トンネル人道で門司側に行く。
エレベータで地下55mまで下り、門司側まで780mの海底を歩く。料金箱?があるので有料かと思ったら歩行者は無料だった。
安徳天皇もこの上あたりに眠っているかも。ジョギングで何度も往復しているおっさんもいた。
「和布刈神事」は松本清張の推理小説「時間の習俗」に登場する。
人道トンネルで下関側に戻る。
ここにも安徳天皇入水像。これでは海中に沈まずに浮き上がってしまうかも。安徳天皇生存説も各地に残るようだ。義経不死北行伝説と同じく、判官びいきのなせる技だろう。
奥に日本語、韓国語、英語の大きな「淹留之地」碑が立つ。
赤間神宮水天門・太鼓櫓
水をやり花を手向けるおばさんたちは平家一門、落人の末裔か??
小泉八雲の『耳無芳一の話』
春帆楼(しゅんぱんろう)
ふぐ料理を気に入った伊藤博文が、「ふぐ食用禁止令」を解禁して「ふぐ料理公許第一号店」となった料亭。日清戦争の講和会議の舞台ともなった。右側の建物は日清講和記念館。
赤間関宿本陣伊藤邸跡(東の本陣跡) 《地図》
坂本龍馬とお龍は一時期、伊藤家の一室の「自然堂」で暮らした。
「西の本陣」の佐甲邸跡は下関商港沿いの細江町3丁目の「アドバンス21ベイスクエア下関」の所だそうだ。《地図》
朝鮮通信使や日清講和会議の全権大使・李鴻章も泊まった寺。
三門天井の左甚五郎の作ともいう龍の彫刻を見逃した。『引接寺の伝説』
山陽道の起点・終点を示す碑で、正面に「山陽道」・右面に「長門国豊浦郡赤間関」・裏面に「明治十一年九月 渡船場蒲築 山口懸」で、拙者もここを山陽道の終点とした。
昔はこのあたりは海に突き出た地形で、八幡宮の東側に船番所と渡船場があった。ここにも亀山砲台が築かれ下関戦争で連合国への第一弾が発射された。唐戸市場も家族連れなどで賑わっていた。
すぐそばの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港桟橋に向かう。
唐戸桟橋 《地図》
休日でけっこう混んでいた。片道400円で往復割引はなしで門司港まで5分。
昔は門司港の南の大里(だいり)宿の本土渡海口へと渡っていた。(門司往還に記載) そして小倉から九州の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)へと道は続く。唐津街道と中津街道は歩いている。これで本州の竜飛崎から九州の唐津、中津までつながったことになる。
門司港で一休みして唐戸桟橋へ引き返し、下関駅に向かう。
(現)国分寺 《地図》
金子みすゞ顕彰碑(寿公園) 《地図》
金子みすゞの20歳の写真(中央)と紹介文(右)で、左は詩「はちと神さま」:「はちはお花のなかに、お花はお庭になかに、お庭は土べいのなかに、土べいは町になかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃなはちのなかに」
上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地) 《地図》
永福寺参道前 《地図》
「山陽道」(山口県歴史の道調査報告書)では、ここに一里塚があり、山陽道の起点・終点とする。堂崎の渡し場からはかなり離れている。
幕末には、松下村塾で高杉晋作とともに双璧と称された久坂玄瑞が中心となって結成し、後に奇兵隊の母体となった「光明寺党」と呼ばれる有志隊が寄宿していた。
奇兵隊の支援者の豪商、白石正一郎の奉納した大鳥居。この石段が一二三(ひふみ)坂(お祓い坂)だろう。昭和15年に当地に遷座した時には123段あったのだろうか。現在は何段あるかは数えなかった。
七卿潜寓の画碑
長府駅を出発したのが7時半過ぎ、下関駅に着いたのは17時近くだった。
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コメント
ご苦労様でした。
蓮台寺峠を越えた時のことが思い出されて懐かしかったです。
投稿: 狸上人様へ(坂道散歩) | 2018年11月23日 (金) 17:33
11月11日にやっと下関までたどり着きました。歩き始めから5年かかりました。最後の難所、蓮台寺峠は地元の方が補修していてくれたおかげでぬかるみにはまらず通過できました。蓮台寺は草ぼうぼうでしたが。いろいろと参考にさせていただきました。ありがとうございました。
投稿: 狸上人 | 2018年11月23日 (金) 16:35