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2014年12月 4日 (木)

山陽道(長府駅→下関駅)

2014年11月24日

長府駅(JR山陽本線)・・・八幡御旅所・・・八幡橋・・・菊舎旧宅跡・・狩野芳崖宅跡・・・印内西交差点(国道2号)・・鞏昌橋(印内川)・・大乗寺・・徳応寺・・法華寺・・正円寺・・忌宮神社・豊浦宮跡碑・集童場場長室跡・・横枕小路・・乃木神社・・吉岡家長屋・・長門国分寺跡・・和同橋(逢坂川)・・覚苑寺・長門鋳銭所跡・・総社跡・長府毛利邸・・古江小路・菅家長屋門・・壇具橋(壇具川)・長府藩侍屋敷長屋跡・山頭火句碑・・笑山寺・・回天義挙之所碑・功山寺・・野久留米街道・・軍神廣瀬中佐亡友展墓記念碑・・辻堂峠・・清水地蔵祠・・・前田地区・・・ロープウェイ壇ノ浦駅・・・安徳天皇入水像①・・・みもすそ川公園・壇ノ浦砲台跡碑・・壇ノ浦古戦場跡・安徳天皇御入水之処碑・・関門人道トンネル・・・門司側・和布刈神社・・関門人道トンネル・・・下関側・・・立石稲荷神社・・・安徳天皇入水像②・朝鮮通信使上陸淹留之地・・赤間神宮・・春帆楼・・赤間関宿本陣伊藤邸跡・・引接寺・・旧下関英国領事館・・亀山八幡宮・山陽道標柱(山陽道終点)・・聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑・堂崎の渡し場跡碑・・唐戸桟橋・唐戸連絡船→門司港→唐戸桟橋・・・旧秋田商会ビル・・・(現)国分寺・・・寿公園・・・上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地)・・・馬関越荷方役所跡・・山口銀行旧本店・・・永福寺参道・・・光明寺・・・東光寺・・・一二三坂(お祓い坂)・大歳神社・・・下関駅(山陽本線)

  城下町長府を紅葉を楽しみながら散策し、辻堂峠を越えて源平、幕末の史跡の多い壇ノ浦へ入る。海底の関門トンネル人道を往復し、赤間神宮から赤間関宿へと進み、亀山八幡宮前の堂崎の渡し跡を山陽道の終点とした。近くの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港までを往復し下関駅に向かった。

  【ル-ト地図】(長府駅(7.7km)→下関駅・ただし唐戸桟橋(25.5km)←往復→門司港桟橋は関門連絡船)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7283八幡御旅所

ここは長府八幡町で八幡宮と思ったが社殿がない。忌宮神社の御旅所で宇津宮というそうだ。

この先で八幡(やわた)橋を渡って行く。

Img_7287土塀の旧家

Img_7290菊舎旧宅跡(左・長府印内町9) 

江戸時代の女流俳人

Img_7291説明板

Img_7297狩野芳崖宅跡(菊舎旧宅の向い側を入ったあたり)

Img_7294説明板

国道2号の印内西交差点を横切る。

Img_7300鞏昌(きょうしょう)橋(印内川)を渡り、長州藩の支藩の長府藩の「城下町長府」を散策する。

橋の手前に一里塚があったという。大乗寺、徳応寺と並んでいる。ここは長府金屋町で、長門国府の鋳物師が住み、「金座」として賑わったという。

Img_7304菊舎句碑(徳応寺境内) 《地図

「雲となる花の父母なり春の雨」

Img_7305徳応寺墓地

菊舎の墓がある。

Img_7309正円寺の大イチョウ(樹齢千年)

狭い所で窮屈そうだ。

Img_7330忌宮神社

長門国の二の宮で、一の宮は住吉神社

Img_7328由緒

Img_7321豊浦宮皇居趾碑

後ろが長州藩士の福田扇馬の開いた私塾の集童場場長室跡で、もとは古江小路にあったものを移築。乃木希典も学んだそうだ。

Img_7322説明板

Img_7323説明板(集童場場長室跡)

Img_7337横枕小路を乃木神社に向かう。

Img_7339乃木神社

境内には乃木将軍が育った家が復元されているようだが、軍人には会いたくないのですぐ引き返す。

Img_7341横枕小路を国分寺跡に向かう。

Img_7347
吉岡家長屋

Img_7346説明板

Img_7342旧家(吉岡家長屋の向い側)

Img_7350長門国分寺跡 《地図

寺域は他国のものより狭く、方一町程度だったと推定されている。現国分寺は南部町にある。国衙は忌宮神社近くにあったと推定されている。

Img_7349説明板

Img_7371覚苑寺前の紅葉 《地図

Img_7366覚苑寺本堂

Img_7367説明板

Img_7361長門鋳銭所(ちゅうせんしょ)跡(覚苑寺境内)

開設は和同年間(708~714)で、和同開珎も鋳造した。天長2年(825)に廃止となり、周防鋳銭司(じゅぜんじ)に移った。現在発掘調査中

Img_7365説明板

Img_7372毛利邸へ向かう。

Img_7391総社跡(毛利邸の南側あたり)

長府惣社町にその名が残る。

Img_7374長府毛利邸 《地図

Img_7388ここも真っ赤だ

Img_7375説明板

Img_7386母屋

Img_7383明治天皇宿泊の間

意外と質素な部屋だ。維新の立役者の長州藩では文句も言えまい。
敷地は防府の毛利本邸の方が5倍も広い。ここの池泉回遊式庭園もそれほどのことはなかった。

Img_7394古江小路 《地図

くはこのあたりまで入になっていたという。

Img_7397菅家長屋門(古江小路の途中)

Img_7396説明板

Img_7401侍屋敷長屋(移築)・壇具川 《地図

Img_7404説明板①

Img_7403説明板②

Img_7402説明板③

Img_7406山頭火句集の「山行水行」の冒頭碑(侍屋敷長屋の庭)

「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春 夏 秋 冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」
防府では山頭火の生家跡に寄った。『山陽道(福川駅→大道駅)』 
愛媛県の松山では終(つい)の棲家の一草庵を訪れた。『四国遍路道(愛媛県⑧)

Img_7411笑山寺 《地図

毛利長府藩の初代藩主、毛利秀元の開基。父の毛利(穂井田)元清の法号「洞雲寺笑山常快」にちなむ寺名。左に十三重石塔

Img_7410説明板

Img_7413高杉晋作回天義挙之所碑(左)

ここ功山寺で挙兵した。

Img_7415功山寺山門

修理中で左に長府博物館の方へ迂回する。

Img_7414説明板

Img_7428長府博物館(正面)

Img_7420仏殿(国宝)

Img_7419説明板

ようやく「城下町長府」散策を終え、山陽道を行く。

Img_7432野久留米街道を辻堂峠へ上る。《地図

功山寺で挙兵した高杉晋作らは、この街道を駆け抜け萩本藩新地会所を襲撃したという。
途中右に「軍神廣瀬中佐 亡友展墓記念碑」が立つ。

Img_7437清水地蔵の祠(右)

これが辻堂峠の辻堂だろうか?

峠から前田地区に下る途中に、壇ノ浦の戦いに敗れた平家が落ち延びたと伝えられている「高畑部落」への標識「平家塚 霊鷲山」が立っている。

Img_7444古城山(175m)と関門橋(1068m)が見え始めた。

Img_7448前田地区の関門海峡沿いで一休み。 《地図

前田には毛利綱元により山荘(御茶屋)が造られ、幕末にはこの近くに前田砲台が築かれた。また古代山陽道の終点の臨門駅があったと推定されている。
2003年12月20日に正面の古城山(門司城跡)の上から関門海峡を絶えず行き交う大小、色とりどりの船を飽きずに眺めていた。もう一昔前で懐かしかった。

Img_7465火の山ロープウエイ地図

今日は3連休の最後で天気も良く、乗客も多いようだ。

Img_7473安徳天皇入水像(備前焼・みもすそ川別館内) 《地図

二位の尼に「浪の下にも都の候ぞ」(平家物語)と言い聞かされ、抱かれて海中の都に旅立った。

Img_7466壇浦砲䑓(ほうだい)舊址碑(正面) 《地図

Img_7468みもすそ川公園に長州砲(八十斤加農(カノン)砲)5基(レプリカ)が並んでいる。

文久3年(1863)、長州藩は関門海峡と通る外国船を壇ノ浦砲台から攻撃した。翌年に米英仏蘭の四国連合艦隊17隻に報復襲撃され前田砲台ともに破壊され占領された。 『下関戦争

Img_7532壇ノ浦古戦場

義経八艘飛び像・知盛「碇潜」(いかりかづき)像。ここは関門海峡の一番狭まった所で「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、潮流の変化が激しい難所だった。この下を通る関門トンネル人道で門司側に行く。

Img_7531説明板①

Img_7544説明板②

Img_7524関門トンネル人道入口 《地図

エレベータで地下55mまで下り、門司側まで780mの海底を歩く。料金箱?があるので有料かと思ったら歩行者は無料だった。

Img_7523海底県境

安徳天皇もこの上あたりに眠っているかも。ジョギングで何度も往復しているおっさんもいた。

Img_7484門司側から

Img_7504和布刈神社地図

「和布刈神事」は松本清張の推理小説「時間の習俗」に登場する。

Img_7507説明板

人道トンネルで下関側に戻る。

Img_7539朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地 《地図

ここにも安徳天皇入水像。これでは海中に沈まずに浮き上がってしまうかも。安徳天皇生存説も各地に残るようだ。義経不死北行伝説と同じく、判官びいきのなせる技だろう。
奥に日本語、韓国語、英語の大きな「淹留之地」碑が立つ。

Img_7546海峡守護の碇

Img_7545由来

Img_7550赤間神宮水天門・太鼓櫓

Img_7549境内図

Img_7558拝殿

Img_7553安徳天皇陵

Img_7561平家一門の墓

水をやり花を手向けるおばさんたちは平家一門、落人の末裔か??

Img_7564耳なし芳一

小泉八雲の『耳無芳一の話

Img_7566説明板

Img_7570春帆楼(しゅんぱんろう)

ふぐ料理を気に入った伊藤博文が、「ふぐ食用禁止令」を解禁して「ふぐ料理公許第一号店」となった料亭。日清戦争の講和会議の舞台ともなった。右側の建物は日清講和記念館。

Img_7573赤間関宿本陣伊藤邸跡(東の本陣跡) 《地図

坂本龍馬とお龍は一時期、伊藤家の一室の「自然堂」で暮らした。
「西の本陣」の佐甲邸跡は下関商港沿いの細江町3丁目の「アドバンス21ベイスクエア下関」の所だそうだ。《地図

Img_7576説明板

Img_7582引接寺(いんじょうじ)三門

朝鮮通信使や日清講和会議の全権大使・李鴻章も泊まった寺。
三門天井の左甚五郎の作ともいう龍の彫刻を見逃した。『引接寺の二伝説

Img_7581説明板

Img_7589旧下関英国領事館

Img_7591説明板

Img_7598山陽道標柱(明治11年) 《地図

山陽道の起点・終点を示す碑で、正面に「山陽道」・右面に「長門国豊浦郡赤間関」・裏面に「明治十一年九月 渡船場蒲築 山口懸」で、拙者もここを山陽道の終点とした。

Img_7602亀山八幡宮から堂崎の渡し(下関商港・唐戸桟橋)方向

昔はこのあたりは海に突き出た地形で、八幡宮の東側に船番所と渡船場があった。ここにも亀山砲台が築かれ下関戦争で連合国への第一弾が発射された。唐戸市場も家族連れなどで賑わっていた。

Img_7606聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑・堂崎の渡し場跡碑

Img_7604碑文

すぐそばの唐戸桟橋から関門連絡船で門司港桟橋に向かう。

Img_7611唐戸桟橋 《地図

休日でけっこう混んでいた。片道400円で往復割引はなしで門司港まで5分。

Img_7614船の舳(へさき)で波しぶきを浴びながら門司港へ。

昔は門司港の南の大里(だいり)宿の本土渡海口へと渡っていた。(門司往還に記載) そして小倉から九州の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)へと道は続く。唐津街道中津街道は歩いている。これで本州の竜飛崎から九州の唐津、中津までつながったことになる。

門司港で一休みして唐戸桟橋へ引き返し、下関駅に向かう。

Img_7629旧秋田商会ビル地図

Img_7632説明板

Img_7634(現)国分寺 《地図

Img_7636金子みすゞ顕彰碑(寿公園) 《地図

金子みすゞの20歳の写真(中央)と紹介文(右)で、左は詩「はちと神さま」:「はちはお花のなかに、お花はお庭になかに、お庭は土べいのなかに、土べいは町になかに、町は日本のなかに、日本は世界のなかに、世界は神さまのなかに。そうして、そうして、神さまは、小ちゃなはちのなかに」

Img_7639上山文英堂書店本店跡(金子みすゞ終焉の地) 《地図

Img_7637説明板

Img_7638詩碑「みんなを好きに」

Img_7642馬関越荷方役所跡碑

Img_7644説明板

Img_7647山口銀行旧本店

Img_7645説明板

Img_7649永福寺参道前 《地図

「山陽道」(山口県歴史の道調査報告書)では、ここに一里塚があり、山陽道の起点・終点とする。堂崎の渡し場からはかなり離れている。

Img_7651光明寺地図

幕末には、松下村塾で高杉晋作とともに双璧と称された久坂玄瑞が中心となって結成し、後に奇兵隊の母体となった「光明寺党」と呼ばれる有志隊が寄宿していた。

Img_7665大歳神社地図

奇兵隊の支援者の豪商、白石正一郎の奉納した大鳥居。この石段が一二三(ひふみ)坂(お祓い坂)だろう。昭和15年に当地に遷座した時には123段あったのだろうか。現在は何段あるかは数えなかった。

Img_7666説明板

Img_7667由来(大歳神社)

Img_7671七卿潜寓の画碑

Img_7673説明板

Img_7674蓑笠姿で長州へ下向する七卿たち。

長府駅を出発したのが7時半過ぎ、下関駅に着いたのは17時近くだった。

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