太子道(筋違道)①
2014年11月28日
法隆寺駅(JR)・・・伊弉冊命神社・・斑鳩大塚古墳・・・国道25号・・業平姿見の井戸①・日切地蔵(継子地蔵)・・・法隆寺松並木・・南大門・・中門・・東大門・・夢殿・・・駒塚古墳・・・調子丸古墳・・・新業平橋(富雄川)・・業平橋(富雄川)・・高安地区・・・安堵第二踏切(JR関西本線)・(安堵町)・・・善照寺・・・広峰神社・業平姿見の井戸②・・・安堵町水道課・・・飽波神社・太子腰掛石・・天神社道標・・・富本憲吉記念館・・大寶寺・・極楽寺・・天神社・・・高塚・・(西名阪自動車道)・・・(岡崎川)・・・杵築神社①・・・馬場塚・・・常徳寺・・下街道合流地点・・馬場尻橋(新太子橋・大和川)・・下街道分岐地点・(川西町)・・・南陽善寺・・・杵築神社②・・・油掛地蔵・・・梅戸橋(寺川)・・・井戸橋(寺川)・・・糸井神社・・・宮前橋(寺川)・・面塚碑・・(三宅町)・・白山神社①・太子腰掛石・太子像・・杵築神社③・矢尻の井戸・・・忍性生誕地碑・・・白山神社②・・杵築神社④・三宅村道路元標・・・万葉歌碑・・・融観寺・・・(田原本町)・・・黒田第2号踏切(近鉄田原本線)・・・法楽寺・孝霊天皇黒田盧戸宮跡・・・黒田大塚古墳・・・浄照寺・・・孝霊神社・・黒田池・・・(京奈和自動車道)・・・宮古地区・都村道路元標・・・地蔵祠・・・鏡作伊多神社①・・・保津の環濠集落・・鏡作伊多神社②・・・(県道14号)・・・飛鳥川沿い・・・多神社・・・(橿原市)・・・新ノ口池・・・近鉄大阪線ガード・・・地黄橋(飛鳥川)・・・入鹿神社・・・春日橋(飛鳥川)・・・内膳大師堂・・・踏切(近鉄大阪線)・・踏切(近鉄橿原線)・・・大和八木駅(近鉄大阪線)
【ル-ト地図】(24.9km地点まで)
写真をクリックすると拡大します。
愛馬黒駒に乗り、舎人の調子麻呂を従えて斑鳩から飛鳥に向かう聖徳太子。
『聖徳太子伝暦』などによると、推古天皇6年(598)に聖徳太子が諸国から献上された馬の中から甲斐の黒駒を選んで、調子麻呂に飼育させたのだとか。調子麻呂は百済からの渡来人で、多くの舎人の中でも常に太子の側に仕えていたといわれる。
安堵町の水道課の塀に設置のもの。
法隆寺駅から2、3寄り道してから法隆寺に向かう。
伊弉冊命(イザナミノミコト)神社 《地図》
祭神はイザナミ命、本殿は国重文。
斑鳩大塚古墳 (伊弉冊命神社の北側)
業平姿見の井戸① 《地図》
業平の邸跡ともいう上街道沿いの在原寺から河内の高安の女の所へ通った「業平道」沿いにも「姿見の井戸」がある。『中街道①』に記載。
弘法大師が掘った「弘法井戸」で、ここの地名の「五百井」(いおい)ともなっていて「五百井戸」ともいう。
ヨモミ(榎のこと)の大木の下に継子地蔵堂、その奥に業平井戸。今もヨモミはあるが上部は切られて葉はなく残骸に近い。
小林一茶の「おらが春」の「まゝ子」の話
さて太子道に取り掛かろう。法隆寺を過ぎるあたりまでは、『竜田越奈良街道』と重なる所もある。『法隆寺境内図』
法隆寺境内を後にして飛鳥の宮へと向かう。
太子の愛馬の黒駒を葬った塚との伝承がある。4世紀後半頃築造の前方後円墳で時期的には合わないが、黒駒を追葬した可能性もあるかも。
この古墳も時代が合わないようだ。
まだ斑鳩を出発したばかりなのに黒駒も調子麻呂もこんな所で眠ってもらっては困る。
業平橋を渡って高安地区へ 《地図》
東京墨田区の業平橋、大阪府芦屋市の山陽道の業平橋よりこの橋の方が気に入った。少し南側に新業平橋が架る。
ここは大和の高安(斑鳩町)で、業平が河内高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。それにしても天理から河内の高安までよく通ったものだ。よほど河内姫がいい女だったのか、業平の色好みせいなのか。詳しくは『在原神社と業平道』で。
業平姿見の井戸②(広峰神社境内) 《地図》
こんな所にもあったか。
飽波神社 《地図》
太子の飽波宮跡と伝える安堵の総社。
太子がここで休んだ時に雀が舞って太子をいやしたことから雀は飽波神社の使いとされているとか。
ここを進んで極楽寺、天神社へ寄る。
生家を利用した個人美術館
聖徳太子の開創と伝える寺
ここは大道教の本部になっている。
「飛鳥川のほとり」、「秋篠川の堤防上」にあったから「水屋敷」なのか、「天理教祖が水のおさずけを戴いた」からなのか?
高塚 《地図》
ここも太子の伝承地だが、もとは古墳のようだ。
杵築神社①(安堵町窪田) 《地図》
深楽廃寺のものだったと伝える七重になった十三重石塔だそうだ。塔身には梵字で薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒が彫られている。
五輪塔は甲斐武田家の家臣の馬場美濃守信房の供養塔。
信房の子(甥?)馬場信久は、歌舞伎の「大杯觴酒戦強者(おおさかづきしゅせんのつわもの)」に登場するそうだ。
窪田地区 《地図》
この先の常徳寺の所で大和川の土手に上り、東から来る下街道と合流し新太子橋を渡る。
新太子橋(今は馬場尻橋)から大和川 《地図》
昔は川底に木を渡しただけの流れ橋だったという。
渡ってすぐに川西町に入り下街道と分かれる。
杵築神社②(川西町吐田(はんだ)) 《地図》
大永3年(1523)の造立だから相当古い。聖徳太子が斑鳩へ向かう途中休息した際に念仏を唱えたところ、空中に生身の地蔵尊が現れたため、その像を彫ってこの地に安置したという伝承もあるそうだ。そばにサラダ油が何本も置かれている。
畑の間の真っ直ぐな道を南下する。《地図》
前方右は島の山古墳
宮前橋(寺川)を渡る。
ここ結崎は能楽観世流の発祥地。天から翁の能面はともかく、ネギ(葱)が降ってきたというのは面白い。そのネギは見事に生育し、戦前までは「結崎ネブカ」として名物だったという。
この先で三宅町に入る。
白山神社 《地図》
右が冒頭の写真の聖徳太子らの像。左奥に太子の腰掛石がある。「駒つなぎの柳」もあったようだ。
向い側に杵築神社③(三宅町屏風)がある。
太子が矢で突いたら水が湧き出たという井戸。各地にある弘法大師が杖で突いた弘法井戸と同じ係累の話だ。「屏風」という地名は、村人が太子をもてなす際に屏風をたてて風を防ぎ、接待したことから名づけられたとか。 拝殿には「聖徳太子接待」の絵馬も奉納されているそうだ。
杵築神社③と④の間にも上部を切られたヨノミの木があるようだ。
忍性生誕地碑
杵築神社④(三宅町伴堂(ともんど)) 《地図》
左は「三宅村道路元標」
どこかの道沿いから境内へ移設されたものだろう。
「うち日さつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫(ぬ)き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑぞ 通はすも吾子(あこ)諾(うべ)な諾な 母は知らじ諾な諾な 父は知らじ 蜷(にな・みな)の腸(わた)か黒き髪に 真木綿(まゆふ)以(も)ち あざさ結(ゆ)ひ垂(た)れ 大和の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 抑(おさ)へ挿(さ)す うらぐはし子 それぞわが妻」
(反歌) 「父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも」
歌碑の前が「あざさ」(学名アサザ)の池
田原本町に入る。
法楽寺 《地図》
孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立された聖徳太子開基の寺という。
桃太郎のモデルの吉備津彦が孝霊天皇の子というだけの話で、「桃太郎伝説発祥の地」というのはおこがましくはないか。まあ孝霊天皇は欠史八代の天皇の一人、それほど目くじらを立てることもないか。
遠くから見ているとあまり動かないので像と思った。来年はひつじ年で、山羊(やぎ)年ではないよ。
黒田大塚古墳 《地図》
もとは周濠まで含めた全長86mの前方後円墳。
どんどん削平されて縮小してしまったということ。
ここから太子道へ出るのに迷ってしまった。
太子道沿いではない。
かなり南下してしまってから太子道に戻った。
最後に「太子道」とある。
都村道路元標(電柱の右側) 《地図》
ここ宮古(みやこ)は都村だったのだ。
鏡作伊多神社①(宮古) 《地図》
元禄17年(1704)の古絵図によれば、環濠は東西・南北約1町(約109m)四方のほぼ正方形に近く、鏡作伊多神社部分が南側に張り出している。濠の幅は2間強(約4m)。
左が古地図の復原図
環濠集落内にある。
多(おお)地区は古事記の編纂者太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とされる。本殿は県の重文
橿原市に入り、地黄(じお)橋から西へ人麿神社に寄ろうとしたら、どう道を間違ったのか入鹿神社の前に出てしまった。入鹿神社は横大路を歩いた時、その前にも訪れ3度目となった。歌聖の柿本人麻呂、聖徳太子よりも逆臣?の蘇我入鹿の方によほど縁があるのかも。
縁の薄い人麿神社は割愛して春日橋を渡って大和八木駅に向かう。
ここは内膳町だが大師とは誰なのか? 内膳地蔵尊・行者神変大菩薩も祀られているようだ。
| 固定リンク
« 長尾街道② | トップページ | 太子道(筋違道)② »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント