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2014年12月13日 (土)

太子道(筋違道)①

2014年11月28日

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  【ル-ト地図】(24.9km地点まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8414愛馬黒駒に乗り、舎人の調子麻呂を従えて斑鳩から飛鳥に向かう聖徳太子。

『聖徳太子伝暦』などによると、推古天皇6年(598)に聖徳太子が諸国から献上された馬の中から甲斐の黒駒を選んで、調子麻呂に飼育させたのだとか。調子麻呂は百済からの渡来人で、多くの舎人の中でも常に太子の側に仕えていたといわれる。

Img_8319太子道

安堵町の水道課の塀に設置のもの。

法隆寺駅から2、3寄り道してから法隆寺に向かう。

Img_8262伊弉冊命(イザナミノミコト)神社地図

祭神はイザナミ命、本殿は国重文。

Img_8264斑鳩大塚古墳 (伊弉冊命神社の北側)

Img_8273業平姿見の井戸① 《地図

業平の邸跡ともいう上街道沿いの在原寺から河内の高安の女の所へ通った「業平道」沿いにも「姿見の井戸」がある。『中街道①』に記載。
弘法大師が掘った「弘法井戸」で、ここの地名の「五百井」(いおい)ともなっていて「五百井戸」ともいう。

Img_8270説明板

ヨモミ(榎のこと)の大木の下に継子地蔵堂、その奥に業平井戸。今もヨモミはあるが上部は切られて葉はなく残骸に近い。

Img_8274継子(ままこ)地蔵(日切地蔵)

Img_8277由来

小林一茶の「おらが春」の「まゝ子」の話

さて太子道に取り掛かろう。法隆寺を過ぎるあたりまでは、『竜田越奈良街道』と重なる所もある。『法隆寺境内図

Img_8282法隆寺松並木を抜けて南大門へ

Img_8288東大門をくぐり太子が住んだ斑鳩宮跡の夢殿へ

Img_8290夢殿への道

法隆寺境内を後にして飛鳥の宮へと向かう。

Img_8293駒塚古墳地図

太子の愛馬の黒駒を葬った塚との伝承がある。4世紀後半頃築造の前方後円墳で時期的には合わないが、黒駒を追葬した可能性もあるかも。

Img_8294調子丸古墳地図

この古墳も時代が合わないようだ。
まだ斑鳩を出発したばかりなのに黒駒も調子麻呂もこんな所で眠ってもらっては困る。

Img_8299業平橋を渡って高安地区へ 《地図

東京墨田区の業平橋、大阪府芦屋市の山陽道の業平橋よりこの橋の方が気に入った。少し南側に新業平橋が架る。

Img_8303高安地区の家並み

ここは大和の高安(斑鳩町)で、業平が河内高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通った際に立ち寄っていたので「高安」と呼ばれるようになったそうだ。それにしても天理から河内の高安までよく通ったものだ。よほど河内姫がいい女だったのか、業平の色好みせいなのか。詳しくは『在原神社と業平道』で。

Img_8313業平姿見の井戸②(広峰神社境内) 《地図

こんな所にもあったか。

Img_8323飽波神社 《地図

太子の飽波宮跡と伝える安堵の総社。

Img_8330説明板

Img_8329太子腰掛石

太子がここで休んだ時に雀が舞って太子をいやしたことから雀は飽波神社の使いとされているとか。

Img_8332「水屋敷 天神社」道標

ここを進んで極楽寺、天神社へ寄る。

Img_8335富本憲吉記念館

生家を利用した個人美術館

Img_8339極楽寺

聖徳太子の開創と伝える寺

Img_8340阿弥陀如来坐像(国重文)

Img_8342天神社

ここは大道教の本部になっている。

Img_8344説明板

「飛鳥川のほとり」、「秋篠川の堤防上」にあったから「水屋敷」なのか、「天理教祖がのおさずけを戴いた」からなのか?

Img_8348高塚 《地図

ここも太子の伝承地だが、もとは古墳のようだ。

Img_8349説明板

Img_8359杵築神社①(安堵町窪田) 《地図

Img_8354由緒

Img_8358石塔(説明板の推古式古代人造の石塔)

深楽廃寺のものだったと伝える七重になった十三重石塔だそうだ。塔身には梵字で薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒が彫られている。

Img_8362馬場塚

五輪塔は甲斐武田家の家臣の馬場美濃守信房の供養塔。

Img_8361説明板

信房の子(甥?)馬場信久は、歌舞伎の「大杯觴酒戦強者(おおさかづきしゅせんのつわもの)」に登場するそうだ。

Img_8364窪田地区 《地図

この先の常徳寺の所で大和川の土手に上り、東から来る下街道と合流し新太子橋を渡る。

Img_8369新太子橋(今は馬場尻橋)から大和川 《地図

昔は川底に木を渡しただけの流れ橋だったという。

渡ってすぐに川西町に入り下街道と分かれる。

Img_8379杵築神社②(川西町吐田(はんだ)) 《地図

Img_8380説明板

Img_8382濠の水までも赤く見えるか。

Img_8385油掛け地蔵

Img_8386説明板

Img_8387油ぎった地蔵さん

大永3年(1523)の造立だから相当古い。聖徳太子が斑鳩へ向かう途中休息した際に念仏を唱えたところ、空中に生身の地蔵尊が現れたため、その像を彫ってこの地に安置したという伝承もあるそうだ。そばにサラダ油が何本も置かれている。

Img_8389畑の間の真っ直ぐな道を南下する。《地図

前方右は島の山古墳

Img_8398糸井神社  《地図

Img_8400説明板

宮前橋(寺川)を渡る。

Img_8406面塚碑(宮前橋を渡った所)

ここ結崎は能楽観世流の発祥地。天から翁の能はともかく、ネギ(葱)が降ってきたというのは面白い。そのネギは見事に生育し、戦前までは「結崎ネブカ」として名物だったという。

Img_8407由来

この先で三宅町に入る。

Img_8409白山神社 《地図

右が冒頭の写真の聖徳太子らの像。左奥に太子の腰掛石がある。「駒つなぎの柳」もあったようだ。

向い側に杵築神社③(三宅町屏風)がある。

Img_8422矢尻の井戸(屏風の清水)

太子が矢で突いたら水が湧き出たという井戸。各地にある弘法大師が杖で突いた弘法井戸と同じ係累の話だ。「屏風」という地名は、村人が太子をもてなす際に屏風をたてて風を防ぎ、接待したことから名づけられたとか。 拝殿には「聖徳太子接待」の絵馬も奉納されているそうだ。

杵築神社③と④の間にも上部を切られたヨノミの木があるようだ。

Img_8426忍性生誕地碑

Img_8427説明板

Img_8443杵築神社④(三宅町伴堂(ともんど)) 《地図

左は「三宅村道路元標」

Img_8438道標(安政5年(1858))

どこかの道沿いから境内へ移設されたものだろう。

Img_8454万葉歌碑

「うち日さつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫(ぬ)き 夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑぞ 通はすも吾子(あこ)諾(うべ)な諾な 母は知らじ諾な諾な 父は知らじ (にな・みな)の腸(わた)か黒き髪に 真木綿(まゆふ)以(も)ち あざさ結(ゆ)ひ垂(た)れ 大和の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 抑(おさ)へ挿(さ)す うらぐはし子 それぞわが妻」
(反歌) 「父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも」
歌碑の前が「あざさ」(学名アサザ)の池

Img_8453説明板

田原本町に入る。

Img_8462法楽寺 《地図

孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立された聖徳太子開基の寺という。

Img_8461説明板

Img_8463説明板

桃太郎のモデルの吉備津彦が孝霊天皇の子というだけの話で、「桃太郎伝説発祥の地」というのはおこがましくはないか。まあ孝霊天皇は欠史八代の天皇の一人、それほど目くじらを立てることもないか。

Img_8466本物です。

遠くから見ているとあまり動かないので像と思った。来年はひつじ年で、山羊(やぎ)年ではないよ。

Img_8469黒田大塚古墳 《地図

もとは周濠まで含めた全長86mの前方後円墳。

Img_8470説明板

Img_8471変遷図

どんどん削平されて縮小してしまったということ。

ここから太子道へ出るのに迷ってしまった。

Img_8479旧家

太子道沿いではない。

かなり南下してしまってから太子道に戻った。

Img_8483孝霊神社

Img_8482説明板

最後に「太子道」とある。

Img_8491都村道路元標(電柱の右側) 《地図

ここ宮古(みやこ)は都村だったのだ。

Img_8498鏡作伊多神社①(宮古) 《地図

東方の下ツ道(中街道)沿いの鏡作神社の末社。

Img_8497説明板

Img_8502保津環濠集落

元禄17年(1704)の古絵図によれば、環濠は東西・南北約1町(約109m)四方のほぼ正方形に近く、鏡作伊多神社部分が南側に張り出している。濠の幅は2間強(約4m)。

Img_8503説明板

左が古地図の復原図

Img_8508鏡作伊多神社②(保津)

環濠集落内にある。

Img_8506説明板

Img_8516飛鳥川沿いを南下して行く。

Img_8521多神社 《地図

多(おお)地区は古事記の編纂者太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とされる。本殿は県の重文

橿原市に入り、地黄(じお)橋から西へ人麿神社に寄ろうとしたら、どう道を間違ったのか入鹿神社の前に出てしまった。入鹿神社は横大路を歩いた時、その前にも訪れ3度目となった。歌聖の柿本人麻呂、聖徳太子よりも逆臣?の蘇我入鹿の方によほど縁があるのかも。

縁の薄い人麿神社は割愛して春日橋を渡って大和八木駅に向かう。

Img_8538内膳大師堂

ここは内膳町だが大師とは誰なのか? 内膳地蔵尊・行者神変大菩薩も祀られているようだ。

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