室津街道
2014年11月25日
山陽姫路駅(山陽電鉄) 神姫バス→室津西口・・友君橋・・室津海駅館・・本陣紀伊国屋跡・・見性寺・・室津民俗館・・本陣肥後屋跡・・本陣筑前屋跡・・室津診療所・・姫路藩御茶屋跡・・徳乗寺・・本陣薩摩屋跡・・明神道・・本陣肥前屋跡・・本陣一ツ屋跡・・湊口番所跡・龍福寺跡・・賀茂神社・・大聖寺・・浄運寺・遊女友君の塚・・貝堀の井戸・・・藻振鼻・藻振観音堂跡・万葉歌碑・・・友君橋・きむらや旅館・国道250号・・・旧道・・屋津坂・・・鳩ヶ峰標柱・・・近藤池・・・丸亀藩使者場跡①・・大谷川橋・・・道標・・・馬場宿本陣跡・・・元誓寺・・・県道442号・・・旧道・・・(丸亀藩高札場跡)・・・龍隆寺・金剛山廃寺跡・・日吉神社・・・西遊寺・・・袋尻浅谷遺跡・・・道標・・・丸亀藩使者場跡②・水神社・・揖保川土手・・・(馬路川)・・・豊受神社・・・(山陽新幹線)・・・正條の渡し跡・山陽道合流地点・山陽道・・・竜野駅(JR山陽本線)
山陽道正條宿の正條の渡しから室津の港に通じる室津街道を歩く。室津は古来よりの風光明媚な天然の良港で、万葉集にも詠まれ、行基により摂播五泊の一つに定められ、江戸時代には西国大名の参勤交代や朝鮮通信使の上陸地として栄えて「室津千軒」とまでいわれた。
雨の室津を散策し、屋津坂経由で鳩ヶ峰を越えて馬場宿を通って揖保川に出て、正條の渡し跡まで行く。迷う道でもなさそうだしちょうど半日の行程だろう。
【ル-ト地図】
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友君橋 《地図》
友君は木曽義仲の愛妾だった山吹御前で、流れついた室津で舞いを見せ、遊女の始まりと伝えられている。法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に出逢う。友君は「この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と訴えた。法然から阿弥陀如来の本願と念仏の勧めを聞いた友君は後年尼となる。許されて京に戻る上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったという。
室津の港で、法然の乗っている船に小舟を寄せて、その教えを聞く遊女。『法然上人絵伝』
「此の泊(とまり) 風を防ぐこと 室の如し 故に因りて名を為す」(播磨国風土記)と記されているように、古来よりの天然の良港で、行基の定めた摂播五泊の一つでもある。
治承4年(1180)に高倉上皇が平清盛らと海路厳島神社へ参拝の途中で室津に寄港した際の、源通親の随行記『高倉院厳島御幸記』には、「室(むろ)の泊に着き給。山まはりて、その中に池などのやうにぞ見ゆる」と記す。
今日は雨でひっそりと時が止まったように静かな情景だ。
廻船問屋の豪商、嶋屋の建物。海の宿駅として栄えた室津の資料館となっていて参勤交代や朝鮮通信使に関する資料を展示しているようだが、あいにく今日は休館日。
室津の家並み 《地図》
江戸時代には西国大名の参勤交代の上陸地として栄え、6軒の本陣、脇本陣を兼ねた豪商の邸宅、宿屋、揚げ屋、置屋などが軒を連ね、文字通り「室津千軒」の賑わいであったという。しかし殷賑をきわめた室津も明治維新後は陸上交通などの時代の波にさらされて衰退して行った。
本陣は最多時には6軒あったが、昭和40年代にはすべての建物は姿を消した。今は新しい建物か空地になっていて往時は偲べない。
室津郵便局前
西鶴で有名な「お夏清十郎」の清十郎は、ここの造り酒屋の息子だったという。山陽道の片上宿の先の葛坂には「お夏の墓」があった。
室津の遊女の室君の花漆が建立したと伝わる五ヶ精舎のうちで現存する唯一の寺という。花漆は唐船の貴人からもらった贈り物を朝廷に献上し、この時賜った千両で、五ヶ寺を建立したとか。
書写山円教寺を創建した性空上人がある夜、室の白拍子が普賢菩薩だという夢のお告げを聞く。花漆は、室津を訪れた性空上人の前でに舞い終わると、白象にまたがり西方に飛び立とうとした。この時上人のつかまえた白象の尾が抜けたので、花漆の館であった町を「尾の町」と名づけたという伝説もあるというから、友君より以前に室津に遊女がいたことになる。
また『高倉院厳島御幸記』には、「この泊の遊女者(あそびもの)ども、古き塚の狐の夕暮に媚(ば)けたらんやうに、我も我もと御所近くさし寄す」と書かれているから友君の先輩たちだ。古今東西、港に女はつきものということだろう。
室津民俗館 《地図》
豪商の海産物問屋「魚屋」の旧豊野家住宅で、脇本陣としても使われた。向かい側が「本陣肥後屋跡」
天正3年(1575)の創建という。山門をくぐった右は経蔵の転法輪で一切経の本と、阿弥陀如来像と三蔵法師像が安置されているそうだ。
姫路藩御茶屋跡 《地図》
姫路藩主の池田輝政によって建てられた、藩主が領内を巡視する際の休泊施設。今は「たつの市室津出張所」と「みなと茶屋」として営業中。
司馬遼太郎が昭和49年3月に『街道をゆく』の取材で室津を訪れた時には、まだ建物が現存していた。「・・・薩摩屋 肥前屋 紀伊国屋といった大屋敷が、修復の仕様もないほど朽ちはてて軒を傾かせている。そのうちの肥前屋の前に立つと、城楼のような蔵をそなえた堂々たる破風造りの二階建てながら、壁は落ち、大屋根は波打ち、なんともすさまじい落ち崩れようながらも、歴史の残映を平然と白昼の路上にとり残させているあたり、室津という町の凄味といっていい」と、「播州揖保川・室津みち」で書いている。取り壊される寸前の時だったのだろう。この先の右側が本陣一ツ屋跡。
大坂城築城残石 《地図》
大坂へ運ぶ途中で海に落ちた”残念石”で、山陽道の徳山藩館邸跡にもあった。『山陽道(高水駅→福川駅)』
この前の海沿いが姫路藩の湊口番所跡で、中世には見性寺の末寺の龍福寺があった。
不規則で雨に濡れて滑りやすく慎重に上る。
本殿と拝殿の間に空間があり、向き合っている。「飛び拝殿」というらしい。
賀茂神社唐門・本殿
治承4年(1180)に高倉上皇と平清盛らが参拝している。
この四脚門が表門で石段脇にソテツが群生する。
野生状態の群生林では日本の北限だそうだ。
お夏の木像、友君の坐像もあるようだ。
法然上人貝堀の井戸 《地図》
風も弱く波もなく静寂の雨の中を、室君花漆、友君、お夏などを偲びながら歩くのにはうってつけだ。
「玉藻刈る辛荷の島に島廻(しまみ)する水烏(う)にしもあれや家思はざらん」
室津には古来、多くの文人墨客が訪れ、作品に取り上げている。広重は「山海見立相撲・室津図」を描いている。
昔、唐の船が難破して積み荷がこの島に流れ着いたところからその名がついたという。手前から地の唐荷島、中の唐荷島、沖の唐荷島。
室津散策を終え、友君橋から室津街道を行く。友君橋の向い側の国道250号沿いのきむら旅館の東側から上るのが旧室津街道だが、雨が降り続いているので明治時代に造られた屋津坂越えの新室津街道を進んだ。
きむらや旅館(別館千年茶屋)
谷崎潤一郎、竹久夢二、司馬遼太郎も泊まっている。まあ室津では旅館はここだけのようだが。
国道250号から右へ旧道の屋津坂に入る。《地図》
舗装されている部分も多い。
きむらや旅館の東側からの道はここへ通じているのだろう。左に「御津山脈縦走路 嫦娥山登山口」の標識が架る。旧道は嫦娥(峨)山(じょうがさん・265m)と屋津坂の間を通ってここへ出るのだろう。
鳩が峰(108m) 《地図》
左の標柱には、「室津街道上の丸亀藩と姫路藩の境界。当時の街道は現在地より東へ200Mほど登ったところ。かつてシーボルトもここを通って江戸に参府した」とある。なぜこの先が讃岐の丸亀藩なのかは間もなく分かる。
ダイセル化学の敷地沿いを下って行く。
丸亀藩使者場跡(右に標柱と説明板) 《地図》
「龍野藩主の京極氏が四国の丸亀に移封されると同時に、丸亀藩の飛地となった」とある。
「左室津港」・「右相生町」
この先で県道442号と合流する。
「白鳳時代寺院跡」200mとあるので行って見る。このあたりに丸亀藩の高札場があったようだ。
金剛廃寺跡が分からずにうろついて引き上げかける。
でも白鳳時代の建物ではあるまい。
龍隆寺(跡) 《地図》
「この一画に法起寺式伽藍配置の建物が甍(いらか)を並べて建っていた。龍隆寺の境内には、今も塔の心礎が残っている」とある。
今日も紅葉に出会えた。
西遊寺跡か? 《地図》
ここも荒れている。奥の墓地は健在だが。
弥生前期の土拡墓15基、壺棺1基、古墳前期の横穴式古墳4基が確認された。
道標(昭和3年御大典記念) (電柱の右側) 《地図》
「右 室津 石見港・・・・」、「左 網干町 御津村・・・・」で、「・・・・」は距離が標示されている。
この先で馬路川を渡る。《地図》
前方の山陽新幹線をくぐれば正條の渡し跡だ。
正條の渡し跡 《地図》
山陽道との合流地点で室津街道はここで終わる。正條宿を通り竜野駅に向かった。
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コメント
ダイセルは自動車のエアバック関連部品を作っているところですね。
投稿: マリンエンジニア | 2022年3月30日 (水) 21:41
ダイセルの久保田邦親博士(工学)は化学反応理論で有名な方ですが、室津港近くの道の駅みつで食べた牡蠣はとてもおいしかったそうです。
投稿: サステナブル | 2022年3月30日 (水) 09:22