山陰道(丹波口→樫原宿→亀山宿)
2014年12月15日
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京の七口の丹波口から周防国小郡宿(山口県山口市)の山陽道との合流点までの山陰道を歩き始める。
【ル-ト地図】
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花屋町通り 《地図》
右に「太夫最中」の伊藤軒がある。この突き当りの枡形が花街の島原大門跡。
花街島原の正式名は「西新屋敷」で、島原の由来については諸説ある。門前には廓(くるわ)に入ろうか戻ろうか思案した「思案橋」があったが川が暗渠になって撤去された。「出口の柳」と「さらば垣」は残っている。柳の下の用水手桶は、かつて島原の火災の際に門が閉められていて多くの遊女が焼死したため、消火用に置かれたという。
江戸の吉原遊廓跡のような風俗店街になっていなくて歩きやすい。
現在も営業中の置屋兼お茶屋。
置屋から太夫や芸妓を呼んで遊宴する所。
ここが江戸時代には角屋の敷地となった。
山陰本線沿いを南下して、京の七口の丹波口へと向かう。北には丹波口駅がある。
丹波口跡あたり 《地図》
七条通りと千本通りが交差するこのあたりが山陰道の起点だ。天正10年(1582)6月2日未明に、明智光秀軍はこの丹波口を通って京に入り、本能寺に向かった。
荷を載せた馬は、馬子(口付・口取り)が馬に乗ったままで洛中へ入ってはならないという意で、洛中の往来安全のため下馬を命じたもの。
左面に、「此付近は江戸時代の「京の七口」のひとつ丹波口である。当時の京都には都市全体を囲む城壁・環濠の御土居堀があったが、町奉行所は当地を含むその出入り口など約三〇ヵ所に本銘辞を刻む標石を建設した。すなわちここから東が同時代の京都(洛中)であった。(歴史地理研究者 中村武生)」と説明文がある。
右が五輪供養塔で、左は顕彰碑。ここ権現寺の寺伝によると、もとは丹波街道(山陰道・七条通り)の北側に墓があり、この五輪塔は貞享3年(1686)の為義の年忌法要に際し、再整備したものという。明治45年に中央卸売市場からここへ移設された。
橋を渡った北側の桂離宮は、参観には事前の申込みが必要。
中村軒 (桂離宮の向い側)
麦代餅(むぎてもち)は農家の間食として重宝され、農繁期も終わった頃、その代金として麦をもらった物々交換からこの名が生まれたという。
小野篁作という地蔵を安置する京都六地蔵の寺の一つ。東海道の山科区の徳林庵には六地蔵の一つの山科地蔵が、鳥羽街道の恋塚浄禅寺には鳥羽地蔵がある。
「右 西山御坊 よし峯 大原の 岩くら」・
「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」で、西山別院はすぐ先にある。
大宮社 《地図》
松尾七社の一社とされる。
孝子儀兵衛翁墓道標
南方向の冷聲院に墓があるようだが行かなかった。桂地蔵寺先の交差点にも道標があった。
カーブして山陰道で最初の宿場、樫原(かたぎはら)宿へと進む。
樫原交差点 《地図》
物集女街道と交差する。
明智光秀の逸話があり、明智川と呼ばれてきた。そばに「勤皇家殉難之地」の石柱が立つ。蛤御門の変で長州藩勢の3名の兵士がこの付近で小浜藩兵に囲まれ討たれたという。
享保4年(1719)に当地の豪族廣田庄兵衛門永張が京都所司代板倉氏から依頼されて経営に従事したことから「頼まれ本陣」とも口伝され、安政2年(1855)に足利家直系の玉村新太郎が継承したという。(説明板②)
札場跡 《地図》
木の後ろに道標が立っているようだが見逃した。向い側は三ノ宮神社の御旅所になっている。
ここから旧道を上って題目塔の先から下って国道9号を横切っていくのだが、題目塔の先で行止りになってしまう。少し戻って左の墓地の中の道を行く。
墓はここへ下りてくる途中にあるようだが見逃した。
樫原秤谷交差点の北側の旧道に入る。行止りとなった旧道はこの道へ続いていた。
竹林の間の旧道 《地図》
三ノ宮神社 《地図》
北へ「宇波多陵参道」(桓武天皇夫人で淳和天皇生母の藤原旅子)が続いている。
茅葺の家 《地図》
ここで府道142号に出る。
兒子(ちご)神社のクスノキ 《地図》
もとは西の沓掛の大枝神社にあり、聖徳太子の幼児の像が祀られていたともいう。
大枝神社 《地図》
「はじめは聖徳太子の幼児の像が祀られていたところから千児明神と称していた」とある。
桓武天皇御母陵標石(右)
国道9号に出て少し北上する。《地図》
「4℃ 凍結注意」の標識、向かい風が冷たく感じる。
老ノ坂峠への上りとなる。《地図》
右上を京都縦貫自動車道が走っている。所々に「ガス管」標識と、「洛西散策の森」の標識がある。
トンネルの南側を越えて行く感じか。
老ノ坂峠(193m) 《地図》
西部クリーンセンターへの道をくぐるあたりが峠の頂上だろう。本能寺へ向かう明智光秀軍が越えた峠だ。
大江山の酒呑童子の首を祀った塚。
「従是東山城國」で、「従是西丹波國」は刻まれていない。ここで京都市から亀岡市に入る。
前に「京都の自然二百選 老ノ坂峠(山陰道)」の標柱
この先で急坂を下って行く。
京都縦貫自動車道の間の道となる。《地図》
味気ない道だがそう長くはない。
前方に亀岡市街地が見えてきた。
王子橋の手前で国道9号に合流する。
王子橋親柱 《地図》
明治17年建設の初代王子橋。今の王子橋は「めがね橋」というようだが、その形を撮れる場所が見当たらなかった。
旧道に入る。《地図》
山陰道を行き交う旅人はこの石に座り、旅の吉兆を占ったとか。
このあたりは「三軒屋」と呼ばれていたようだ。
保津川の支流の鵜ノ川だろうか? 往時の石組が残る。
王子神社 《地図》
昔は闇宮(くらがりのみや)と呼ばれた峠神で、街道を往還する旅人が安全を祈願したという。
左は「ツブラジイ(椎)」の大木。「スダジイ」の大木はよく見かけるが。
篠町地区を進む。
篠村八幡宮前 《地図》
鳥居前を北方向に行く道は「異人街道」で、昭和の初期には山本浜にも保津川下りの会社があり、京都から外国人が保津川下りをするのに通ったためこう呼ばれたそうだ。
この道は「トロッコ亀岡駅」へと続いている。
足利高氏(尊氏)の鎌倉倒幕の挙兵地。
足利尊氏が戦勝祈願して矢を奉納したという。
山陰道を通って平安京へ入ろうとする怨霊・疫病を鎮める神社で、日本最古の疫(御霊)神社の一つだそうだ。
これも足利尊氏の逸話の残る6、7代目の楊。
道路元標(旧篠村?) 《地図》
「元標 海抜百0六米」とある。このあたりは平地で高さは全然感じない。
馬堀駅方向に進み、桑田神社、徳寿寺を過ぎて西川橋(西川)を渡って行く。
「はめ(マムシ)除けのお釈迦さん」として有名だそうだ。
千本松跡(年谷橋から年谷川) 《地図》
堤上に明智光秀が植えたともいう松並木が続いていたという。
亀山宿、亀山城下へと入って行く。
城下の出入り口の守護神だろう。
嶺樹院 《地図》
境内には亀山城の惣構跡(土居)が残っているようだ。 亀山藩主の菅沼家は断絶したが菩提寺は城下に残った。
古世地蔵堂 《地図》
源頼政の守り本尊で、錫杖の代わりに矢を持っているという「矢の根地蔵」を祀るというが、地蔵は拝めず。堂の前の道標には「右 穴太寺 そのべ 能勢妙見」・「左 京 ふしみ」とある。街道筋から移設されたものだろう。
ここに亀山城下の南方面への出入り口の古世門があったという。
京町通り~矢田町通り~呉服町通りと散策し、旅籠町通りで山陰道に戻る。
本陣跡 《地図》
右の亀岡病院前に古ぼけた木の立札が立っている。どうも「亀山」と「亀岡」を混同してしまう。伊勢の亀山と紛らわしいので、明治になってからここを亀岡と改めたという。これには戊辰戦争で伊勢亀山藩は新政府側につき、丹波亀山藩は幕府側についたため、敗れた丹波のほうが改名させられることになったとか。
高札所跡 《地図》
ここは亀山城の大手門へ通じる新町通りだが、今は前方の亀山中学で途切れる。ここを左折して本町通りを進むのが山陰道の道筋。
「山脇東洋」の立札
生家跡か屋敷跡か? 東洋は亀山の生まれで父は医家の清水家。享保11年(1726)に父が門下の法眼、山脇家の養子となり、東洋はその家督を相続して法眼となる。
この先で北に本町辻子(ずし)に入り、法華寺・寿仙院・本門寺に寄り、紺屋町通りを北に進む。
丹波国生まれの石田梅岩の石門心学を広めるための塾跡。
屋号「井づ源」で明治8年の創業。江戸時代には亀山城下の富農で、江戸末期から副業で酒造りを始めたそうだ。
桝形を曲がって西町に入る。《地図》
白土塀は大円寺で亀山城主の小早川秀秋から米二石を寄進された亀山五ヶ寺の一つ。
「穴太道の要衝」とある。城下から西国三十三カ所観音霊場の第21番穴太寺に通じる道で、江戸時代には多くの巡礼者が多く往き来していたという。
大円寺の裏の路地に道標(安永5年(1776))
「是より 廿一ばん 穴太寺道 妙見山道 法貴谷越え」があるそうだ。
今日はこの交差点までとし、亀山城跡から亀岡駅に向かう。《地図》
今は大本(教)の本部になっている。『熊野古道(中辺路)』の近露王子跡には大本教教祖の一人、出口王仁三郎の筆による近露王子碑があった。
万祥池 《地図》
亀山城の内堀跡。万祥殿の立つ積み直された石垣も城の名残りだろう。
正門を出て春日坂を下る。《地図》
雑水川(ぞうずがわ)でかつては亀山城本丸北側の堀だった。
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