« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015年1月30日 (金)

田原街道④・伊勢街道(表浜街道)①

2015年1月10日

三河田原駅(豊橋電鉄渥美線)→亀山西バス停・国道259号・・・伊良湖神社北交差点・・・伊良湖神社・・・国道259号・・・菜の花畑バス停・・・芭蕉の句碑公園・・・港入口交差点・・伊良湖港・西行歌碑・・道の駅伊良湖クリスタルボルト・・伊良湖岬遊歩道・・糟屋磯丸歌碑・・伊良湖岬灯台・・万葉歌碑・・(伊勢湾海上交通センター)・・恋路ヶ浜・・・道の駅・・・港入口交差点・伊勢街道(国道42号)・・・(日出の石門)・・・帰命寺・・・国道42号・・・伊良湖菜の花ガーデン・・・新堀川・・ハマボウ野生地・・・堀切交差点・・・常光寺・・・神明社・・・境橋(小塩津放水路)・・・国道42号・・・新川尻橋(川尻川)・・・和地バス停→三河田原駅

  風は相変わらず強くおまけに雨だ。午前中には上がるようだが気が重い。幸い伊良湖神社に着く頃には小降りになって来た。強風の伊良湖岬遊歩道を一周し、伊良湖岬の道の駅で大アサリを食べながら、この先伊勢街道に入ろうか、このままバスで三河田原駅まで戻ろうか思案しているうちに雨は上がり青空が広がって来た。行くっきゃない、行くなら今と遠州灘沿いに伊勢街道に入った。
 今日から始まった「菜の花祭り」なども楽しみながら進み、バスの時間も考慮して和地バス停までとした。

  【ル-ト地図】(亀山西バス停(59.9k)→和地バス停(81k)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9882伊良湖神社 《地図

この地が伊勢神宮領伊良湖御厨(みくりや)であったことから、神宮と深い関わりを持っていた。「ごぜんだら祭」・「おんぞ(御衣)祭」で有名な神社。

Img_9880由緒

Img_9884津波避難経路(伊良湖神社境内)

ここから伊良湖岬の南側の小高い伊良湖ビューホテルまで上って行くようだ。

Img_9889バス停「菜の花畑」前

冬の渥美半島は冬キャベツ畑と菜の花畑が広がり、もう12月から約1250万本の菜の花が咲き始めるそうだ。

Img_9897芭蕉句碑(芭蕉の真筆を複製して作った新しい句碑・芭蕉の句碑公園内)

「鷹一つ見付てうれしいらご崎」、『笈の小文』に「伊良古崎は万葉集に伊勢の名所にうちに選ばれ、「いらご鷹」など歌にも詠まれていて趣深く思う」と記す。

Img_9894寛政5年(1793)10月の芭蕉百回忌に建立。

岩の上には行けず、ここから眺めるのみ。山頭火も昭和14年の旅でこの句碑を見ている。『旅日記』(4月20日)

Img_9911伊良湖港 《地図

ちょうど鳥羽港行きの伊勢湾フェリーが出港した。約55分で着くというからここから伊勢は近い。

Img_9906西行歌碑(伊良湖港前)

「浪もなし いらごが崎にこぎいでて われからつける わかめかれあま」
(海士たちよ割殻虫がついた若布(わかめ)を刈りなさい)か?

文治2年(1186)8月のはじめ、69才の西行は俊乗坊重源の依頼により、東大寺再建の砂金勧進のため藤原秀衡を訪ねるべく伊勢の二見ケ浦から伊良湖岬に渡り奥州へと旅立った。2度目の「小夜の中山」越えをし、「年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さよの中山」と詠んだ。
鎌倉では源頼朝と歓談し、頼朝が贈った「銀の猫」を通りで遊んでいた子どもに与えてしまったという。『西行と頼朝

Img_9905説明碑

Img_9922伊良湖岬に流れ着いたヤシの実(道の駅伊良湖クリスタルボルト内の「やしの実博物館」)

島崎藤村の『椰子の実』は、柳田国男が伊良湖岬で流れ着いた「椰子の実」を見たことを明治31年に藤村に語ったことから発想されたそうだ。
今でも台風の通過した後などには流れ着くこともあるという。

Img_9936伊良湖岬遊歩道 《地図

漁夫歌人糟谷磯丸の歌碑が並ぶ「祈りの磯道」だが、気に入った歌はなかった。

Img_9949伊良湖岬灯台・神島

潮騒の 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹のるらむか 荒き島廻を」(柿本人麻呂・万葉集巻一)『たのしい万葉集
日本の灯台50選」の灯台だが、今はこの上の古山に立つ「伊勢湾海上交通センター」が主役か。
神島(三重県鳥羽市)は鳥羽藩の流刑地であったため、志摩八丈と呼ばれたこともあった。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になったことでも有名だ。5度も映画化され、吉永小百合、山口百恵も主役を演じているが、どれも見ていない。伊良湖港から神島観光船が出ている。

沖の方より、風のあしきとて、鰹(かつお)と申す魚釣ける舟どもの帰りけるに
「伊良胡崎に 鰹釣り舟 並び浮きて 西北風(はがち)の波に 浮かびつつぞ寄る」(西行・「山家集」(新潮日本古典集成)より)。昔も今も風が強いのは変わりなしだ。

Img_9952伊勢湾海上交通センター

「古山の烽火(のろし)場」があったのはこのあたりか。この少し下に万葉歌碑が立つ。

Img_9955万葉歌碑

「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈りを食す」(麻続王・万葉集巻一)

流人の三位の皇族が飢えをしのぐため、波にぬれて海藻をかじっている惨めで世をすねた姿が目に浮かぶようで哀れを誘う? いや愉快だ。晴れて京へ帰れる日を夢見て、荒波にさらわれて魚の餌食、海の藻屑にならないように頑張って頂戴。

Img_9953説明板

Img_9970恋路ヶ浜地図

ミーちゃん、ハーちゃんを呼び込む観光スポット「恋人の聖地」として命名されたものではなく、文化5年(1808)には和歌に「春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝」などと歌われていて、伝説では、その昔、高貴な身分の男女が許されぬ恋ゆえに都を追放されこの地に暮らした事にちなむという。
「やしの実」が流れ着いたのもこの浜か。

Img_9965「タカの渡り」

「9月下旬から10月中旬頃、タカたちは伊良湖水道を渡って志摩半島を目指します」とある。芭蕉が伊良湖岬を訪れた冬の時期貞享4年(1687)11月12日(旧暦)には「いらご鷹」はいないはずだが。前記の芭蕉の句の「鷹」は、「はぐれ鷹」か、鷹狩り用に飼育された鷹か、芭蕉の想作か、愛弟子の杜国を鷹に譬えたのか?
西行は「巣鷹渡る伊良湖が崎を疑ひてなを木に帰る山帰りかな」と詠んでいる。白洲正子は『西行』(新潮社)で、「「巣鷹」は若鳥、「山帰り」は成鳥のことを指すそうで、若い鷹が上昇気流に乗って勢いよく飛び立って行くのを、不安げに見送った親鳥は山へ帰り、風待ちをしているという意味である。」と書いている。さらに「(西行が)ここを通ったのは文治2年(1186)8月はじめのことであった。新暦では9月下旬にあたるから、鷹渡りはその時実見したものにほぼ間違いはない。」と続けている。
「巣鷹」は鷹狩り用に飼育された鷹の雛(ひな)で、渡り鳥の「いらご鷹」とは別物ともいい、この歌には別の解釈もあるようだ。

Img_9976伊勢街道(表浜街道)に入る。《地図

晴れてきて雨の心配はなくなった。東方向に進むので追い風にもなるだろう。渥美半島の遠州灘沿いを表浜、三河湾沿い(歩いてきた田原街道沿い)を裏浜と呼ぶ。

Img_9980起伏のある道が続く。

正面上が先ほどの伊良湖神社からの津波避難経路の伊良湖ビューホテル。あそこまでは表浜、裏浜からの津波も到達しまい。

Img_9989恋路ヶ浜・伊良湖岬港方向

Img_9993
日出の石門(ひいのせきもん)

太平洋の荒波の浸食によって真ん中が洞穴となった岩。

Img_9996伊勢街道(表浜街道)は遠州灘沿いの「片浜十三里」の沿いの道だ。

Img_0004日出の石門(反対側からの眺め)

四国遍路道での海蝕洞門の「トオルマの夕日」を思い出した。

Img_0007国道42号と分れ直進した。《地図

Img_0009帰命寺(きみょうじ)

渥美開運大師の第10番

Img_0017初立ダム・東大寺瓦窯跡標識

ここを左折して行けば昨日訪れた東大寺瓦窯跡(12世紀末~13世紀初め)に通じている。西行が東大寺再建勧進の奥州への旅で伊勢街道を歩いた時(文治2年(1186))には、この窯で瓦を焼いていたであろうか、西行は瓦窯があるのを知っていただろうか?

Img_0024伊良湖菜の花ガーデン

ちょうど今日から「渥美半島菜の花まつり」が始まった。

Img_0034冬キャベツ畑と南国風の並木の取り合わせがいいね。

Img_0037ハマボウの野生地 《地図

黄色の花が咲くようだ。

Img_0036説明板

ここが分布の北限というが、千葉県の方が北にあるのでは?

Img_0038常光寺 《地図

犬が二匹出迎えてくれた? 不審者が来たのでキャンキャンほえて追い返そうとしているのだ。うるさくつきまとわれて参った。
京都の公家、烏丸準大臣資任が応仁の乱を逃れ、堀切の浜辺近くに当寺を建立し、潔堂義俊和尚を開山に迎えたのが始まり。本尊は聖観世音菩薩。江戸時代には、奥郡曹洞宗寒厳派寺院の中心で、神島、登志島を含め30ケ寺ほどの末寺があったという。東海七福神の布袋尊天で、これで4ヶ寺訪れたことになる。

Img_0046堀切地区の家並み

Img_0049神明社

Img_0051「想い出の地」石柱(参道近く)

「明治 大正 昭和 兵隊送迎の跡」と刻まれている。この村社の前で大勢の村人から送られた兵隊たちの幾人が無事に迎えられ故里へ戻れたのだろうか。

国道42号に出て和地バス停まで行き、三河田原駅に出た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月25日 (日)

田原街道③

2015年1月9日

三河田原駅(豊橋鉄道渥美線)→野田バス停・国道259号・・・宮川橋(今池川)・・・旧道・・・今方公会堂・・・宇津江坂・・・西円寺・・・宇津江八幡神社・・・国道259号・・泉橋(今堀川)・・・成道寺・・・泉村道路元標・・・紺屋橋(紺屋川)・・・南岑寺・・・新堀橋(新堀川)・・・女郎橋(女郎川)・・・(伊川津交差点)・・・国道259号・・・高木東交差点・旧道・・・清田小学校・・・常夜灯・・・古田会館・・・常夜灯・城坂・大垣新田藩畠村陣屋跡・・・福江橋(江川)・・・山頭火句碑・・・潮音寺・・・水戸橋(免々田川)・・・(県道421号)・・・保美町・・・西原交差点・国道259号・・・大辻橋(天白川)・旧道・・・亀鶴院・・・高札場跡・・・国道259号・・・初立池公園標識・・・初立ダム・伊良湖東大寺瓦窯跡・・・国道259号・・・亀山西バス停→三河田原駅

  やはり国道259号から宇津江坂に向かう道筋を間違えた。一本手前の道を行ってしまい、今方公会堂がないのをおかしいとは思いながら溜池沿いの道を進んで行くと、下がぬかるんできて、その先は笹薮が立ちはだかり行止りになってしまった。国道に引き返し慎重に進んで宇津江坂を越えた。
 その後も水戸橋の先、大辻橋の先で道を間違えて随分タイムロスしたが、伊良湖岬も近い伊良湖東大寺瓦窯跡まで行った。

  【ル-ト地図】(野田バス停(33.2km)から亀山西バス停(59.9km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9711宇津江(うづえ)坂へ 《地図

ここを左に入り、今方公会堂の前を通って行く。前方右は「ディーテック」の看板。

今方公会堂の先の道筋も分かりにくい。

Img_9719ここを直進してなだらかな坂道に入る。

ここまで来れば一安心か。

Img_9720くねった道だか迷う道ではない。

Img_9724坂上近く

高さはないが峠になっていてここから下って行く。両側の石積みは何だったのか?

宇津江町へと下って行く。

Img_9730三河湾の眺め

Img_9744宇津江八幡神社 《地図

Img_9743由緒

Img_9746天狗像と思ったら猿田彦像だった。

Img_9753_2国道259号に合流する。《地図

右は渥美湾の泉漁港。今堀川沿いの小高い所の江比間句碑公園に、「雪や砂馬より落そ酒の酔」 の芭蕉句碑があるようだ。保美に愛弟子の杜国を訪ねる途中、酒に酔って馬から落ちそうな同行の越人を気づかった句。天津畷(縄手)か宇津江坂で詠んだのだろうか。

Img_9759成道寺

東海七福神の恵比寿天

Img_9762江比間地区を進む。

Img_9764泉村道路元標(左角の小さな石標)

ホース格納庫の所は高札場跡か? 

紺屋橋(紺屋川)・・・新堀橋(新堀川)・・・女郎橋(女郎川)と渡って国道259号に出る。

Img_9791雨乞山(237m) 《地図

雨乞い祭祀が行われた雨乞神社の神体の磐座(いわくら)に小祠があるようだ。

高木東交差点を直進し、国道と分かれる。清田小学校の先でも直進する。

Img_9808?寺跡 《地図

古田会館の所

Img_9812常夜灯(安政3年(1856))

この向い側が城坂

Img_9813城坂 《地図

このあたりは旅館、料亭が多く昔風情の家も残っている。

Img_9821旧家

Img_9814大垣新田藩畠村陣屋跡(城坂上)

右の石垣の空き地の所だろうか? 案内板などはない。この陣屋が城坂の名の由来だろう。

Img_9830山頭火句碑(潮音寺の手前)

左側の「波音の墓のひそかにも」は昭和14年4月20日に伊良湖岬に向かう途中、潮音寺の杜国の墓に参った時の句。『旅日記

Img_9829説明板

Img_9833杜国墓・三吟句碑(潮音寺) 《地図

保美の閑居で杜国と再会した時の、芭蕉・杜国・越人の句。翌年、杜国は伊勢に渡り芭蕉と落ち合い、吉野で花を愛で、各地を吟行している。二人のの間柄は師弟関係を越えたものだったようだ。
国道259号の南側に杜国が隠れ住んだ屋敷跡が杜国公園として整備されている。

Img_9831説明板

水戸橋(免々田川)を渡り、県道421号を横切り、西原交差点で国道259号に合流する。大辻橋(天白川)を渡って国道と別れ直進し、亀鶴院手前で左折して行く。
Img_9853高札場跡? 《地図

このあたりは札ノ辻という地名だ。ここは右へ行く。

亀山小学校前を通り、梅藪差点の手前で国道259号に合流する。

Img_9860初立池(はったちいけ)公園標識

ここを左に入って東大寺瓦窯跡に寄る。初立池(ダム)一帯は豊川用水の地震対策・複線化工事で重機が掘り返していて、景観を楽しむことはできなかった。

Img_9866東大寺瓦窯(がよう)跡  《地図

鎌倉時代の東大寺再建時の瓦を焼いた窯跡で、「東大寺大佛殿瓦」と刻印された軒丸瓦や軒平瓦、平瓦などの瓦や、瓦塔などの宗教用具が出土している。

Img_9864説明板

国道259号に戻り、亀山西バス停まで引き返し三河田原駅に向かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月21日 (水)

田原街道②

2015年1月8日

老津駅(豊橋鉄道渥美線)・・・国道259号・・老津公園・・・境橋(紙田川)・旧道・・・常夜灯・常心寺・・・天津畷・・・(知原川)・田原市・・・国道259号・今田橋(蜆川)・・豊島東交差点・旧道・・・(仁皇川)・・・大坪交差点・・・船倉橋東交差点・・・船倉橋(汐川)・・田原城下・・常夜灯・・東木戸跡あたり・・田原町道路元標・・時計台(殿町交差点)・・田原市民俗資料館・・報民倉跡・・成章館跡・・田原城跡・田原市博物館・・巴江神社・・中小路通り・・崋山神社・・池ノ原公園・渡辺崋山幽居跡・・武家屋敷土塀跡・・田原城惣門跡・田原市報民倉・・田原萱町交差点・・城宝寺・・慶雲寺・・龍泉寺・・西木戸跡あたり・龍門寺・・清谷橋(清谷川)・・・加治の坂・常夜灯・・・田原署・・・県道28号・・・大久保交差点・旧道・・・大久保駐在所北交差点・・・長興寺・・・篭池古墳・・・地蔵坂古戦場跡あたり・・・国道259号・・・野田バス停(豊鉄バス)→三河田原駅(豊橋鉄道渥美線)

  冷たい風が吹きさらしの天津畷(縄手)を通り、田原城下を散策してから伊良湖岬を目指し、宇津江坂の旧道入口近くまで進んだ。

  【ル-ト地図】(老津駅(13.6km)から野田バス停(33.2km)まで)

  写真をクリックすると拡大します

Img_9498老津公園 《地図

芭蕉句碑が4つある。

Img_9499貞享5年(1688)に杜国と吉野の花見に旅立つ時の句。『笈の小文

Img_9497句碑案内

境橋(紙田川)を渡り右に旧道に入り天津地区を進む。

Img_9509常心寺 《地図

田原街道沿いには立派な常夜灯が多い。

Img_9511海岸沿いに並ぶ風力発電の風車

渥美半島は日本有数の風の強い地域だそうだ。『田原市の風力発電

Img_9520天津畷を行く。《地図

芭蕉が「すくみ行や馬上に氷る影法師」と詠んだ、冷たい潮風の吹きさらしの直線の縄手道だ。今日も風が強く、手袋をしていても指先の感覚がなくなり、まさに「すくみ行や路上に氷る影法師」で、芭蕉の追体験ができた。
『笈の小文』では、「冬の日や馬上に氷る影法師」となる。

Img_9531きゃべつ畑が広がる。

冬きゃべつは渥美半島が生産の中心地だそうだ。この先も美味そうなキャベツ球が広がる道にいくつも出会う。

知原川を渡って田原市に入り、今田橋で蜆川(しじみがわ)を渡った豊島東交差点で左の旧道に入る。《地図
大坪交差点を左に進み、船倉橋東交差点を直進し汐川に突き当たり、右の船倉橋を渡る。

Img_9546船倉橋から汐川 《地図

Img_9547常夜灯(寛政11年(1799))

船倉橋西交差点の手前

Img_9548由来

「亀井戸木戸の内番所前・・・建てられたのは寛政11年・・・」とある。

Img_9549田原町道路元標(電柱の左下) 《地図

このあたりが東木戸跡(亀井戸木戸?)だろう。

ここを右折し、田原城下を散策する。

Img_9552時計台(殿町交差点) 《地図

Img_9571報民倉跡(左) 《地図

遺構は残っていない。右は田原市歴史民俗資料館だが今日は休館日。

Img_9570説明板

Img_9572成章館跡

田原藩の藩校で、現在は中部小学校。

Img_9553田原城跡(袖池・楼門)

文明12年(1480)頃、戸田宗光が築城する。その後今川義元に攻略され落城したが、寛文4年(1664)からは三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。
かつて海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴文に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれていた。三宅氏の江戸藩邸の坂が皇居の桜田濠沿いの「三宅坂」。

Img_9562説明板

Img_9559楼門

Img_9568二の丸櫓

Img_9569田原市博物館(二の丸跡あたり)

企画展「渥美線」の開催中だった。渡辺崋山に関する展示物も多い。

Img_9566巴江神社

本丸跡で祭神は三宅氏の家祖とも伝える南朝の忠臣児島高徳

Img_9567由緒

Img_9574崋山神社

Img_9576由緒

Img_9580池ノ原公園へ向かう。

Img_9582田原福祉専門学校

やけに立派な建物だが、福祉の現場は厳しいぞ。

Img_9588渡辺崋山幽居跡(池ノ原公園内) 《地図

ここで天保12年(1841)10月11日に自決した。

Img_9594武家屋敷土塀跡

Img_9605田原城惣門跡・(現)報民倉 《地図

Img_9602説明板

Img_9599説明板

街道筋へ戻る。

Img_9622渡辺崋山の墓(城宝寺) 《地図

本堂奥の崋山霊牌堂の天井画

Img_9620城宝寺古墳

上の弁財天堂は東海七福神(渥美半島)の一つ。

Img_9614説明板

円墳という。

Img_9618横穴石室

奥に大日如来像が鎮座する。

Img_9613説明板

「前方後円墳と言う」

Img_9629龍泉寺

Img_9631芭蕉句碑(天明2年(1782)建立)

先ほどの天津畷での句。「すくみ行や馬上に氷る影法師」

Img_9632説明板

Img_9635西木戸跡あたり 《地図

Img_9636説明板

Img_9637龍門寺

永正15年(1518)の開創という。小牧長久手の戦で疲弊したが、関ケ原の戦いで丸岡城(福井県坂井市)攻略で功のあった戸田尊次が田原城に入封し、新たに城下町を拡張した際に現在地に移された。

Img_9640本堂

前が樹齢250年以上という「双龍の松」

Img_9641心越禅師の書の扁額

Img_9638説明板

Img_9645江戸屋? 《地図

旅館か料亭だったのだろうか? この建物沿いに進み清谷橋(清谷川)を渡る。

Img_9654加治の坂を上る。《地図

永禄8年(1565)徳川家康が今川方の田原城を攻略すべくこの坂沿いあたりに加治砦を築いたという。今でも「西砦」・「北取手」・「東取手」・「取手」という地名が残る。家康の本陣は東方の長仙寺に置かれた。

大久保交差点を直進し県道28号から分かれ、大久保駐在所北交差点で右折し、田原城を築いた戸田氏の菩提寺の長興寺に向かう。

Img_9666長興寺 《地図

静かで落ち着いた雰囲気の寺だ。木造聖観世音立像(通称「鉈彫観音」)は県指定文化財。

Img_9668説明板

Img_9671戸田氏歴代の墓

ここから篭池古墳への道がはっきりしない。長興寺前で農作業中のおじさんに聞いてなんとかたどりつく。

Img_9679篭池古墳

円墳だが私有地のようで立ち入れない。墳丘にはビニール温室がある。

Img_9675説明板

Img_9677横穴式石室の奥に組合式石棺

街道に戻る。

Img_9681地蔵坂(右)を上る。《地図

このあたりも田原城攻防の今川方と徳川方の古戦場跡という。坂沿いに「地蔵」という地名が残る。

Img_9682未舗装道となる。

Img_9683坂上あたり(写真はぼやけてしまった)

化粧地蔵と呼ばれた地蔵堂があったようだ。『愛知県歴史の道調査報告書 田原街道』によると、今は野田の法光院に移されているという。このあたりに石塔(八人塚?・足軽塚?)があるというが、探しても見当たらず。見逃したのかも。

ここから下りとなって吹上バス停近くで国道259号に出る。

Img_9687野田バス停 《地図

まだ2時頃で時間は早いが、この先の宇津江(うづえ)坂の旧道の道筋がはっきりせず、迷うことも考えてここまでとし、豊鉄バスで三河田原駅に戻った。

Img_0073三河田原駅

2013年10月からの新駅舎

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月15日 (木)

田原街道①

2015年1月7日

豊橋駅(東海道新幹線)・・・東海道吉田宿・田原街道起点・・・吉田天満宮・吉田新銭座跡・・・(駅前大通り)・・・新川橋(牟呂用水)・・・諏訪神社・・・豊橋鉄道渥美線踏切・・・元柳生橋(柳生川)・・田原街道踏切(東海道本線)・・・常夜灯・小松原街道分岐地点・・(東海道新幹線)・・潮音寺・・・照国稲荷神社・・・高師口交差点・十三本塚・国道259号・・愛知大学・・・空池交差点・野依街道分岐地点・高師緑地・道標・・・梅田橋(梅田川)・・旧道・・・車神社・車神社古墳・・・大崎インター東交差点(国道23号豊橋バイパス)・国道259号・・・新池・・・境川・・・老津町交差点・老津村道路元標・・・観音堂・・・老津神社・宮脇1号墳・・・老津駅(豊橋鉄道渥美線)

  寒風吹きすさぶ渥美半島を行く。東海道の吉田宿(愛知県豊橋市)から三河湾沿いを西に向かい田原城下(愛知県田原市)を通り、伊良湖(いらご)岬に至るのが田原街道で、芭蕉が愛弟子の杜国を訪ね「笈の小文」の旅で歩いた道でもある。
 伊良湖岬から遠州灘沿いに東海道の白須賀宿(静岡県湖西市)に通じるのが伊勢街道(表浜街道)で、西行が伊勢の二見ケ浦から伊良湖岬に渡り、東大寺再建の勧進のため奥州へと旅立った道筋だ。
 田原街道、伊勢街道とも伊勢、熊野に向かうのには東海道の熱田の宮宿から七里の渡しで桑名に入るよりも近道で、多く利用されたようだ。現在では伊良湖岬から志摩半島の鳥羽に伊勢湾フェリーが出ている。

 田原街道を伊良湖岬まで行き、伊勢街道に入って少し進んだ所まで行く。渥美半島は温暖とばかり思っていて、日本有数の風の強い地域とは知らなんだ。とにかく北西からの冷たい風にあおられっ放しの4日間だった。

  【ル-ト地図】(老津駅(13.6km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9402_2田原街道起点 《地図

東海道吉田宿のここを南に進む。貞享4年(1687)、芭蕉は越人を伴い、保美に杜国を訪ねるべく吉田宿に泊まった。「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」の旅寝塚句碑が湊町公園にある。『東海道(吉田宿→藤川宿)』に記載。
笈の小文』には、「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」とある。

Img_9408_2吉田新銭座跡(吉田天満宮) 《地図

Img_9407_2説明板

絵銭の「吉田駒引銭」を見たいものだ。

Img_9410_2駅前大通りを渡る。

豊橋鉄道東田本線が通る。市内線、市電とも呼ばれて親しまれている併用軌道の路面電車。

Img_9414_2牟呂用水の新川橋を渡る。《地図

このあたりは暗渠になっていて、水路上に「大豊水上ビル」が建ち並んでいる。

Img_9424田原街道踏切(東海道本線)を渡る。《地図

Img_9425常夜灯の辻(潮満公園) 《地図

右が田原街道で、左は伊勢街道(表浜街道)の小松原町へ通じる小松原街道。

東海道新幹線をくぐる。

Img_9433潮音寺

杜国の墓があるのは田原街道沿いの田原市福江の潮音寺で、後日訪れる。

Img_9430地蔵道標(潮音寺境内)

「右於くかうり道 左小ま津原道」で、さっきの小松原街道との分岐にあったものだろう。 「於くかうり道」とはどこを指しているのだろうか?

Img_9445十三本塚(高師口交差点の西側) 《地図

「大乗妙典供養塔」(天保7年(1836))で、今川氏真龍拈寺で処刑された徳川家康方の13人の人質の供養塔という。詳しくは『福岡小学校地域紹介』で。
道標を兼ねていて、「右大崎 左田原道」で、田原道は左の国道259号を南下する。右を進めば大崎街道(県道2号)に続く。

国道259号を南下する。
Img_9450豊橋鉄道渥美線

路面電車のように愛知大学と国道の間を走っている。

Img_9455野依街道分岐地点 《地図

正面の高師緑地の北端に道標(大正4年)、「前豊橋道」・「→田原ヲ経テ伊良湖ニ至ル」・「←野依ヲ経テ小松原ニ至ル」

Img_9461高師緑地内を行く。

確かに危ない。

高師駅前から豊鉄と離れて行く。

Img_9463梅田橋から梅田川下流方向 《地図

三河湾からの強風が凄まじく水が赤茶けている。でも水鳥はすいすい、ちゃぷちゃぷと浮いている。

梅田橋を渡って左に旧道に入る。

Img_9466車神社古墳地図

Img_9468説明板

Img_9470車神社

社殿の東側に横穴式石室の石材があるようだ。

Img_9476老津村道路元標(右の電柱前) 《地図

Img_9479観音堂 《地図

境内の石仏群の中の地蔵台座に、「左太平寺○○○ 右田原 願主念仏講」とあるというが、ずいぶんと探したがどれか分からず。もとは老津町交差点あたりにあったものだろう。太平寺は老津駅の南にある。

Img_9483老津神社

七五三→初詣→もう節分か。早いものだ年を取るのも。

Img_9488宮脇1号墳(老津神社境内)

右に崩れかけた横穴石室が開口している。

Img_9486説明板

Img_9493老津駅

無人駅だがスイカは使える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月 5日 (月)

京都散歩(旧嵯峨街道・物集女街道)

2014年12月16日

嵐山駅(京福嵐山線)・・・渡月橋(桂川)・・旧嵯峨街道・・・法輪寺・・・西光院・・・蔵泉寺・・・松尾大社・・・月読神社・・・最福寺旧蹟地・・・鈴虫寺(華厳禅寺)・・・華厳橋(西芳寺川)・・・かぐや姫竹御殿・・・地蔵院・・・道標・・・山田口交差点(府道29号)・物集女(もずめ)街道・・・(国道9号)・府道67号・・・樫原交差点・山陰道交差地点・・・三宮神社・・樫原廃寺跡・・・福成寺・・・(向日市)・・・御所海道交差点(府道201号)・・・物集女城跡・・・昌運寺・・・淳和天皇火葬所・・・物集女車塚古墳・・・天満宮・・・向日市文化資料館・・・向日町競輪場・・・須田家住宅・向日町道路元標・西国街道合流地点・古道案内標柱・・・向日神社・・・五辻・・・南真教寺・・・(長岡宮跡)・・・西向日駅(阪急京都線)

  雨の渡月橋を渡って旧嵯峨街道を南下し、地蔵院の先で物集女街道に入り、樫原交差点で山陰道を横切り、向日市寺戸の西国街道との合流地点まで歩いた。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9191嵐電嵐山駅

Img_9201渡月橋(とげつきょう)

冷たい雨の中でも観光客が多い。当初は法輪寺橋と呼ばれていた。鎌倉時代に亀山上皇が朱塗りの美しい橋の姿を、「満月の渡るに似る」として渡月橋と命名したと伝える。

Img_9203_2琴きゝ橋跡」碑 《地図

左面は、「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒」(小督局(こごうのつぼね)を捜す源仲国の歌)。渡月橋の西側に小督塚がある。

Img_9209法輪寺

「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれ、『枕草子』にも、「寺は 壺坂。笠置。法輪。高野は弘法大師の御住處なるがあはれなるなり。石山。粉川。志賀」、と代表的な寺として記されている。

Img_9208説明板

Img_9211吼える獅子とのんびりくつろぐ牛の取り合わせが妙だ。

Img_9227西光院

西行が住んだと伝える寺で、今も何代目かの西行桜がそびえる。洛西観音霊場の第29番で、すぐ先に第28番の蔵泉寺がある。

Img_9237松尾大社

Img_9243説明板

Img_9244拝殿

大きな「開運ひつじ」絵馬

Img_9251「酒の神」としても信仰が篤い。

Img_9254義民市原清兵衛君之碑

Img_9257月読神社

Img_9258説明板

Img_9259拝殿から本殿

Img_9267最福寺延朗堂地図

最福寺は幾度もの兵火で焼かれ再建されていない。

Img_9272鈴虫寺(華厳禅寺)

Img_9277草鞋をはいた幸福地蔵(鈴虫寺門前)

どんな願い事でも一つだけは叶えてくれるとか。

Img_9287かぐや姫竹御殿

Img_9285公開されているようだが、何となく入りづらい。

かぐや姫の郷」は奈良県の広陵町(「かぐや姫情報」)にもある。他所にもある。

Img_9286説明板

Img_9293地蔵院(竹の寺)

Img_9290説明板

Img_9294総門

Img_9300道標(右の民家の塀の前に2本)の立つ辻 《地図

「右 地蔵院」・「左 浄住寺」、ここを左折し山田口交差点(府道29号)に向かう。

Img_9304山田口交差点 《地図

ここを右折し南下する。地図には「物集女街道」と表記されている。

Img_9306樫原交差点 《地図

樫原宿で山陰道と交差する。本来の物集女街道はここから向日市(むこうし)の寺戸で西国街道と合流するまでをいう。

Img_9315樫原廃寺跡地図

中門・(八角)塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、正面は八角塔基壇跡(復元)。

Img_9316説明板

Img_9317伽藍配置

八角塔基壇の上には三重塔が建っていたと推定されている。

向日市に入る。

Img_9326「物集女街道」標識

「物集女」(もずめ)は『和名抄』にみえる乙訓郡11郷の一つ、「物集郷」(もずめごう)で、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に分布した土師氏一族の居住地ともいう。中世は物集女荘で、六波羅攻めや応仁の乱の物集女縄手の合戦の戦場にもなった。惣村が発達し土一揆も盛んであった。『京都府の歴史散歩 下』より

Img_9327物集女城跡地図

周辺を支配した西岡被官衆の一人、物集女氏の居城の土塁跡と堀跡という。天正3年(1575)、物集女忠重が勝竜寺城で細川藤孝に殺されて以後、物集女氏は記録上から姿を消したそうだ。

Img_9335このあたりは城の主郭跡近くの中条地区で、正面奥の民家の生垣前に「物集女町 中条」の標柱が立つ。

左は物集女公民館

Img_9338淳和天皇火葬所 《地図

承和7年(840)、淳和天皇は死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。
淳和天皇の火葬が「物集村」で行われたことが『日本紀略』に記されているそうだ。

Img_9345物集女車塚古墳 《地図

全長約45m、高さ8mの古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳

Img_9356説明板

Img_9368排水溝(説明板の中に復元)

上が横穴石室

Img_9346説明板

Img_9371石仏たち

立派な屋根に守られこの雨でもへいちゃらだ。

Img_9379西国街道合流地点 《地図》(西国街道と記されている道が物集女街道で、右斜めから来るのが旧西国街道)

右の須田家住宅前に古道案内標柱、道路を挟んだ所に「向日町道路元標」が立つ。

Img_9388「中・あたごみち」が物集女街道

Img_9393五辻を左折し、長岡宮跡の前を通り西向日駅に向かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »