京都散歩(旧嵯峨街道・物集女街道)
2014年12月16日
嵐山駅(京福嵐山線)・・・渡月橋(桂川)・・旧嵯峨街道・・・法輪寺・・・西光院・・・蔵泉寺・・・松尾大社・・・月読神社・・・最福寺旧蹟地・・・鈴虫寺(華厳禅寺)・・・華厳橋(西芳寺川)・・・かぐや姫竹御殿・・・地蔵院・・・道標・・・山田口交差点(府道29号)・物集女(もずめ)街道・・・(国道9号)・府道67号・・・樫原交差点・山陰道交差地点・・・三宮神社・・樫原廃寺跡・・・福成寺・・・(向日市)・・・御所海道交差点(府道201号)・・・物集女城跡・・・昌運寺・・・淳和天皇火葬所・・・物集女車塚古墳・・・天満宮・・・向日市文化資料館・・・向日町競輪場・・・須田家住宅・向日町道路元標・西国街道合流地点・古道案内標柱・・・向日神社・・・五辻・・・南真教寺・・・(長岡宮跡)・・・西向日駅(阪急京都線)
雨の渡月橋を渡って旧嵯峨街道を南下し、地蔵院の先で物集女街道に入り、樫原交差点で山陰道を横切り、向日市寺戸の西国街道との合流地点まで歩いた。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
嵐電嵐山駅
冷たい雨の中でも観光客が多い。当初は法輪寺橋と呼ばれていた。鎌倉時代に亀山上皇が朱塗りの美しい橋の姿を、「満月の渡るに似る」として渡月橋と命名したと伝える。
左面は、「一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒」(小督局(こごうのつぼね)を捜す源仲国の歌)。渡月橋の西側に小督塚がある。
「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれ、『枕草子』にも、「寺は 壺坂。笠置。法輪。高野は弘法大師の御住處なるがあはれなるなり。石山。粉川。志賀」、と代表的な寺として記されている。
西行が住んだと伝える寺で、今も何代目かの西行桜がそびえる。洛西観音霊場の第29番で、すぐ先に第28番の蔵泉寺がある。
大きな「開運ひつじ」絵馬
最福寺は幾度もの兵火で焼かれ再建されていない。
鈴虫寺(華厳禅寺)
どんな願い事でも一つだけは叶えてくれるとか。
「かぐや姫の郷」は奈良県の広陵町(「かぐや姫情報」)にもある。他所にもある。
地蔵院(竹の寺)
道標(右の民家の塀の前に2本)の立つ辻 《地図》
「右 地蔵院」・「左 浄住寺」、ここを左折し山田口交差点(府道29号)に向かう。
山田口交差点 《地図》
ここを右折し南下する。地図には「物集女街道」と表記されている。
樫原交差点 《地図》
樫原宿で山陰道と交差する。本来の物集女街道はここから向日市(むこうし)の寺戸で西国街道と合流するまでをいう。
中門・(八角)塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、正面は八角塔基壇跡(復元)。
八角塔基壇の上には三重塔が建っていたと推定されている。
向日市に入る。
「物集女」(もずめ)は『和名抄』にみえる乙訓郡11郷の一つ、「物集郷」(もずめごう)で、河内国大鳥郡の百舌鳥(もず)に分布した土師氏一族の居住地ともいう。中世は物集女荘で、六波羅攻めや応仁の乱の物集女縄手の合戦の戦場にもなった。惣村が発達し土一揆も盛んであった。『京都府の歴史散歩 下』より
周辺を支配した西岡被官衆の一人、物集女氏の居城の土塁跡と堀跡という。天正3年(1575)、物集女忠重が勝竜寺城で細川藤孝に殺されて以後、物集女氏は記録上から姿を消したそうだ。
このあたりは城の主郭跡近くの中条地区で、正面奥の民家の生垣前に「物集女町 中条」の標柱が立つ。
左は物集女公民館
淳和天皇火葬所 《地図》
承和7年(840)、淳和天皇は死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。
淳和天皇の火葬が「物集村」で行われたことが『日本紀略』に記されているそうだ。
全長約45m、高さ8mの古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳
上が横穴石室
立派な屋根に守られこの雨でもへいちゃらだ。
西国街道合流地点 《地図》(西国街道と記されている道が物集女街道で、右斜めから来るのが旧西国街道)
右の須田家住宅前に古道案内標柱、道路を挟んだ所に「向日町道路元標」が立つ。
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント