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2015年2月28日 (土)

伊南房州通往還⑥

2015年2月13日

勝浦駅(JR外房線)・・・外房線ガード・・・(国道28号)・・・トンネル①・・・トンネル②・・・トンネル③・・・トンネル④・・・勝浦法輪閣・・・題目塔・・大法寺・・・荒川テニスコート・・・荒川小学校入口交差点・県道82号・・・貝掛交差点・題目塔(龍蔵寺)・・・落合橋(夷隅川)・・・六ツ雁の滝・・・新川橋(夷隅川)・・・諏訪神社・・・岩屋跡(鈴木家)・・・東光寺・・・宮川橋(夷隅川)・・・慈眼寺・・吉野酒造・・・興津坂上・馬頭観音・地蔵・・・題目塔(妙久寺)・・・熊野神社・・・仲川橋(夷隅川)・・・題目塔(寂光寺)・・・台宿地区・・・(鴨川市)・・・日蓮寺標識・市ヶ坂道・・・題目塔道標・・・日蓮寺・・・外房線ガード・・・八雲神社・・・磯崎神明社・・・開戸橋・・・吾妻神社・・・大橋(大風沢川)・・・安房小湊駅(外房線)

  勝浦から小湊までは海岸沿いのルートと内陸のルートがあるが、トンネルの多そうな海岸沿いを避け、少し遠回りになるが内陸の道を行く。長い坂を上って荒川地区で県道82号に入る。
 安房の鴨川市に入ると急カーブがいつまでも続くような道をひたすら下って日蓮寺に寄り、小湊まで進んで、安房小湊駅から特急で帰宅した。ここまで日帰りで来ていたが、往復の電車の時間の方が歩いている時間より長くなってきて気分的に疲れが増した。

  *伊南房州通往還⑦(安房小湊駅→太海駅)』へ続く。

  【ル-ト地図】(勝浦駅(68.2km)から安房小湊駅(89km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1384ここを右折し外房線をくぐり、内陸部を迂回する道筋を取る。《地図

本来の道筋は外房線をくぐった先の分岐を左に行き、串浜トンネルを抜けた先で北に入り、串浜坂を上って、大法寺題目塔の手前に出る道だろう。

Img_1388田吾作みたいな地蔵さん。(分岐を左に少し進んだ所)

分岐を右に進む。

Img_1389長い坂が始まる。《地図

Img_1394途中から勝浦湾の眺め

Img_1399トンネル① 《地図

似たようなトンネルを4つ抜ける。内陸の道でもトンネルはあった。

Img_1412大法寺題目塔(文化2年(1805)) 《地図

Img_1421荒川小学校入口交差点 《地図

ここを左に県道82号に入る。荒川小学校は2006年に廃校になっている。荒川テニスコートの所に校舎があったのだろうか?

Img_1425題目塔(龍蔵寺・寛政3年(1791)) 《地図

ここを右に900mほど入った龍蔵寺には、「鋳銅鰐口」(県指定文化財)がある。

Img_1430六ツ雁ノ滝 《地図》(バスは走ってなくバス停はない)

もとは「雨降滝」といったようだ。

Img_1433滝上から

高さはない。

Img_1437夷隅川(新川橋から)

複雑に蛇行をくり返して、いすみ市岬町の長者町駅の東方で太平洋に注いでいる。
十返舎一九は『房総道中記』で、このあたりの往還は「川多く大方は徒歩渡りなり」と記すそうだ。

Img_1441諏訪神社 《地図

Img_1446岩屋跡(鈴木家)

大岡氏が年貢米の貯蔵用に山腹に掘らせたもので、もとは広さが60坪ほどあったという。

Img_1452東光寺参道

Img_1465慈眼寺の大カヤ

Img_1469吉野酒造地図

天保年間(1830~43)の創業という「腰古井」醸造元で、店舗・酒蔵などは国登録有形文化財

Img_1475馬頭観音(左端)・地蔵(右に2体) 《地図

興津坂上の県道177号との交差点を渡った所に、忘れ去られたように立っている。

Img_1476妙久寺題目塔(宝暦13年(1763))

寺は右に800mほど入った所にある。

Img_1488寂光寺題目塔(明治13年)・「上野村の大椎」標柱 《地図

ここを左に入って寂光寺へ

Img_1492大椎

日蓮の在世の時から生えていたとも。

Img_1493空洞化している。

Img_1495説明板

旧道は寂光寺の南側から県道82号の東側を南下して、市ヶ坂を下って日蓮寺から小湊へ続いていたという。

Img_1500台宿地区 《地図

人家もなく宿という感じではないが、旧道沿いに集落があるようだが《地図》、その先の日蓮寺との間の道は途切れるようだ。

県道82号を進む。

Img_1506岩高(がんこう)山荘は廃墟だ。

上総から安房(鴨川市)に入り、急カーブの続く県道82号を下って行く。《地図

Img_1513車が少ないので助かる。

Img_1514気分のいい所もぐんぐんと下って行く。

Img_1518日蓮寺標識 《地図

左折して市ヶ坂道を日蓮寺へ向かう。

Img_1546市ヶ坂・題目塔(天明2年(1782)・中央後ろ)

左の背の高いのも題目塔(昭和6年)・前の新しい標石は「岩高山参道入口」で日蓮寺のこと。

Img_1524「是ヨリ市坂道」で、台宿から下って日蓮寺本堂前へ出て、ここへ通じていた。

Img_1536道標(明治29年)

「右がんこう山道」

Img_1533説明板

Img_1534疵洗い井戸

日蓮が小松原法難で受けた傷を洗った湧水。

Img_1540養疵窟

静かな寺で、ここまで誰にも会わなかった。「血止めの砂」を求める人も今は昔か。

Img_1541養疵窟内

お市婆さんは果物が好物なの?

Img_1538説明板

市ヶ坂を下り、県道へ戻って外房線をくぐって小湊の町中に入る。特急の時間もあり、誕生寺には寄らなかった。

Img_1557吾妻神社参道 《地図

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2015年2月26日 (木)

伊南房州通往還⑤

2015年2月11日

御宿駅(JR外房線)・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・御宿橋(清水川)・・・月夜見神社・・・御宿トンネル①・・鶴石トンネル②・・第2部原トンネル③・・東魚見トンネル④・・(勝浦市)・・部原海岸・・・滝口神社・・・勝浦市部原交差点・旧道・・・稲子橋(稲子川)・・・長秀寺・・・風早トンネル⑤・・・豊浜漁港・・・妙海寺・・・観音堂(慈眼寺)・・・蓮性寺・・・八幡神社・・・真浄寺・・・川津港・・・津慶寺・・・川津神社・・・向ケ坂・・・万名第二トンネル⑥・・・万名第一トンネル⑦・・・官軍塚・・・勝浦平和観音・・・勝浦灯台・・・鳴海神社・・・与謝野晶子詩碑(鳴海荘跡地)・・・猿山トンネル⑧・八幡岬公園(勝浦城跡・八幡神社)・・・虫浦トンネル⑨・・・本朝寺・・・遠見岬神社・・・朝市通り・・・高照寺・・・本行寺・・・延命地蔵堂・覚翁寺・・・猿田彦大神・・・岩切通り・・・観音堂(慈眼寺)・・・無情橋跡あたり・・・出水橋・・・墨名歩道トンネル⑩・・大岡氏陣屋跡あたり・・・勝浦駅(JR外房線)

  今日はモグラのようにトンネルを10も通り抜けたが、往還から離れ、川津港~官軍塚~勝浦灯台~八幡岬(勝浦城跡)と外房の太平洋の景観も楽しんだ一日だった。

  【ル-ト地図】(御宿駅(49km)から勝浦駅(68.2km)まで)

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Img_1360御宿トンネル① 《地図

ここで右に入って4つ目の東魚見トンネルの先に出るのが旧道だが、途中の外房線の新第2浜トンネルを越えるあたりが廃道になっているという。(未確認) 歩道が分離していないトンネルを抜けて行くことにする。

歩道がなくて危険だが、どれも短くて(御宿トンネルが一番長くて127m)出口が見えるのでさほど恐怖感はない。

Img_0959東魚見トンネル④を抜けて一安心だ。

Img_0962部原(へばら)海岸 《地図

今抜けて来た所を振り返る。晴れていて風がかなり強い。

Img_0963サーファーにはもって来いの波だろう。

海の中にいる方が寒さを感じないそうだ。

Img_0972勝浦市部原交差点 《地図

左に海岸沿いを進み沢倉から豊浜港、川津港へ向かう。

Img_0978長秀寺

このあたりの寺は小高い所にあり、津波の避難所になっている。

Img_0982風早トンネル⑤をくくる。《地図

Img_0994観音堂(慈眼寺) 《地図

寺というより普通の民家風の建物だった。ここも津波の避難所だ。

往還の道筋は観音堂(慈眼寺)から西に向かい、岩切通りを通って勝浦の町中に入るが、海岸沿いを南下し、川津港~勝浦灯台~八幡岬(勝浦城跡)~勝浦の町中へと大回りして行く。けっこう起伏のあるコースだ。

Img_1014川津港 《地図

「房州沿岸の漁業は関西漁民の進出を契機に発達したが、八手網を中心としたイワシ漁はこの川津から始まったものだという。元和2年(1616)、紀州加田浦の漁師大甫七重郎が川津村矢の浦に来て八手網漁を始め、翌年には岩和田(御宿町)、岩船(大原町)でも操業されるようになったと伝える。」(『千葉県歴史の道調査報告書』より)

Img_1018熊本藩兵瘞骸(えいがい)碑(津慶寺)

明治2年1月2日、函館の旧幕府軍討伐を命じられた弘前藩主津軽氏の援軍として、津軽承昭の実兄熊本藩主細川韶邦が米船のハーマン号をチャーターし熊本藩士ら345名が江戸を出港し、函館へ向かった。翌朝、暴風雨に見舞われ川津沖で座礁、大破し、熊本藩士、アメリカ人乗組員ら220名以上が犠牲となった。
この碑は熊本県出身の千葉県知事、藤島正健の撰文、元熊本藩士の土肥直康の書。
熊本市にも横手町の安国寺境内に「上総沖溺死者供養塔」があるそうだ。『ハーマン号沈没事件』(肥後細川藩拾遺)
昨日の「サン・フランシスコ号漂着事故」といい、このあたりの外房の太平洋は難所だったようだ。

Img_1020仏足石

千葉県で唯一という。後ろは天保2年(1831)の由来碑。

Img_1024向ケ坂(津波避難場所)を上って官軍塚に向かう。《地図

Img_1030通行困難となって引き返す。藪こぎすれば行かれるだろう。

ここまで来れば津波は到達しないと思うが、もう少し道を整備した方がいいのでは。余計なお世話か。

大きく迂回して上りながら官軍塚を目指す。

Img_1037トンネル万名第二トンネル⑥ 《地図

手掘りのようなトンネルだ。暗いし歩道はなく車も通るよ。

Img_1039万名第一トンネル⑦ 《地図

車をやり過ごしてから小走りで抜けた。

ここを抜けてぐるっと上って行く。

Img_1045官軍塚 《地図

「ハーマン号沈没事件」の犠牲者の供養塔。

Img_1044説明板

Img_1053官軍塚近くから

風が強く白波が立っているのはいつもことか。

Img_1057勝浦平和観音 《地図

日本海軍駆逐艦沖風殉難」とあるから、駆逐艦沖風は「サン・フランシスコ号」・「ハーマン号」と同様、暴風雨か何かで難破したと思いきや、米潜水艦「トリガー」の魚雷で撃沈されたんだと。

Img_1058殉難碑

Img_1070勝浦灯台地図

Img_1066説明板

Img_1067八幡岬方向

あそこまで行くのだ。海面に太陽の光が反射して鏡のようだ。

Img_1081鳴海(なるか)神社

勝浦城主植村泰忠が建立。

Img_1080由緒

Img_1087与謝野晶子詩碑 《地図

ここは国民宿鳴海(なるか)荘跡で海抜約40mで津波の避難場所になっている。

Img_1085上総の勝浦

「鳴海(なるみ)絞り」は、東海道の「有松・鳴海絞会館」で。

Img_1090猿山トンネル⑧をくぐって八幡岬公園(勝浦城跡)へ 《地図

Img_1095八幡神社

Img_1098説明板(勝浦城址

Img_1105お万の方(養珠院)像

勝浦城落城の際に、海から館山方面に逃れ、後に徳川家康の側室となった。水戸黄門(光圀)のおばあちゃんだ。

Img_1106説明板

Img_1099「お万の布さらし」伝説

Img_110014才のお万姫はこんな断崖から海に下りて逃れたのか。

Img_1104勝浦灯台方向

駆逐艦沖風は勝浦灯台の南方8海里(約15km)で撃沈されたそうだ。かなり沖合だ。

Img_1110勝浦湾

鳥居は遠見岬神社の鳥居。

Img_1111虫浦トンネル⑨ 《地図

暗くて歩道なし。向うから車がやって来た。車同士すれ違うのも怖いだろう。

Img_1113駆け抜けて撮ったらぼやけてしまった。

勝浦の町中を通って、観音堂(慈眼寺)前の往還まで戻る。

Img_1120酒店

Img_1122遠見岬(とみさき)神社地図

社殿はこの「冨咲(とみさき)の石段」(冨が咲き幸せになるとか)を上ってさらに上の小高い所にある。

Img_1127途中から勝浦港の眺め

右後方は国道128号の串浜大橋で、その下がJR外房線の線路だろう。

Img_1124社殿と神木

Img_1131朝市通り 《地図

天正19年(1591年)、勝浦城主植村泰忠が勝浦根古屋(町の中心地)でのみ農水産物の交換の場を開設したと伝える。今も毎朝市が立つ。(定休日は水曜と元旦)

Img_1133乳公孫樹(大イチョウ・高照寺)

100年ほど前の火災で主幹の上部は焼け、四方八方に伸びた枝が墓石にのしかかり、支柱に支えられ凄まじい姿になっている。

Img_1132説明板

Img_1153旅館松の家(国登録有形文化財)

一度泊まってみたいねえ。

Img_1152釈迦堂(本行寺)

Img_1150説明板

Img_1156延命地蔵堂(右)・覚翁寺 《地図

Img_1158右も地蔵なのか? 地蔵さんらしからぬ顔立ちと思うが。

Img_1165植村家宝篋印塔 (植村家五代の墓所)

Img_1164説明板

Img_1177猿田彦大神堂 《地図

Img_1167岩切通り 《地図

漁港の豊浜地区と勝浦の町を結ぶ道で、出水(いでみず)地区は、明治から大正にかけて幸前楼や山本楼といった三層楼の旅館をはじめ、多数の飲食店や劇場の並ぶ繁華街で、花街として知られた通りであったという。今はその面影は全くない。

Img_1168庚申塔祠

この先の観音堂(慈眼寺)の前まで行って引き返す。

Img_1180無情橋跡あたり? 《地図

このあたりに出水川が流れ橋が架かっていた。江戸後期、勝浦は岩槻藩大岡氏の支配(飛地)で、その頃刑場へ引かれる罪人がこの橋まで来ると家人と別れる風習があり、後ろを振り返りながら世の無情を恨んで渡ったとか。(『千葉県歴史の道調査報告書』より)

Img_1183墨名(とな)歩道トンネル⑩ 《地図

歩行者専用で、途中でいくつかに分岐して地上に出られる。

Img_1188大岡氏陣屋跡あたり

通称ガケ下で、勝浦市商工会館あたりにかけて陣屋が置かれた。崖の上は庚申山と呼ばれていて、窪地に処刑場があり、北側には六畳ほどの岩屋牢があったという。

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2015年2月19日 (木)

伊南房州通往還④

2015年2月10日

長者町駅(JR外房線)・・・県道152号・・・宇佐美水生誕地碑・・・長者地蔵堂・・・日在寺・・・江場土交差点(国道128号)・・・江場土橋(江場土川)・・・六所神社・・・本寿院・・・三門駅入口交差点(国道128号)・・北向地蔵堂・・・日在踏切(外房線)・・・大山堰・三階松の碑・・日在城跡碑・・・馬頭観音祠・・・寒念仏講結衆地蔵尊・・・三省学校跡碑・・・道録神社・・・円通寺入口標柱・・・宮元橋(新田川)・・・滝口神社・・・房総街道踏切(いすみ鉄道)・・・地蔵祠・・・新田橋(新田川)・・・正福寺・・・木戸泉酒造・・・大原寺・大原八幡神社・・・第一房総街道踏切(外房線)・・・追分道標・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・瀧泉寺・・・道標・「大舟谷・矢指戸入口」バス停・・旧道・・・新橋(塩田川)・・・(浪花駅)・・・国道128号・・旧道・・・大宮神社・・・国道128号・・・小池交差点・旧道・・・第二房総街道踏切・・・地蔵石祠・・・(御宿町)・・・(外房線跨線橋)・・・国道128号・・・月の沙漠記念像・・・御宿駅入口交差点・ロペス通り・清水橋(清水川)・・御宿駅(JR外房線)

  伊南房州通往還のメインルートの国道128号は「房総横断道路」、「外房黒潮ライン」と呼ばれている。往還を歩いて4日目にして大宮神社でやっと「伊南」という文字に出会えてほっとした。御宿海岸の「月の沙漠」のらくだ像も異国情緒たっぷりで満足した。

  【ル-ト地図】(長者町駅(30km)から御宿駅(49km)まで)

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Img_1194宇佐美(しんすい)生誕地

長者町生まれの江戸時代中期の儒学者。

Img_1201長者地蔵堂 《地図

子育地蔵の祠・左は回国供養塔(正徳元年(1711))・祠の右は地蔵庚申塔(享保7年(1722))でその前は小さな地蔵(天保5年(1834))。
祠内の地蔵は天明2年(1782)に名主の宇佐美金七が、紫胡原(長者町は紫胡(さいこ)という草が茂っていた秣場だった)で雨露にさらされていた石の地蔵を安置したことに始まるという。それが子育地蔵になったのだろう。

Img_1207日在寺金毘羅堂 《地図

神仏習合か

Img_1213六所神社

三門駅入口交差点で国道128号を横切る。

Img_1220北向地蔵堂 《地図

Img_1222これは新しい地蔵で、トラックにぶつけられ首を折られたもとの北向地蔵は背後に安置されている。

Img_1221説明板

日在(ひあり)踏切(外房線)を渡って行く。

Img_1228大山堰 《地図

「三階松の碑」には、手まり唄の歌詞、「二葉の松は色ようて ~ 三階松は上総山 ~」、と刻まれている。

Img_1232日在城跡碑(右) 《地図

二葉の松はこの山の中腹にあった」と刻まれている。三階松もここにあったのか?

平安末期から戦国時代まで、使用されていた山城で、上総介広常の姪の居館跡、戦国期には土岐氏の家臣横山将監の居城とも伝えるようだ。

Img_1235馬頭観音祠(日在城跡碑のすぐ先)

二体の馬頭観音がひっそりと立っている。

Img_1243寒念仏講結衆地蔵尊(享保5年(1720))

Img_1245三省学校跡碑

明治初期に安藤識が創立。普通部・英語部があり明治33年まで続いた。

Img_1249道録神社

鳥居の奥に小堂がある。村や地域の境界の守り神、道祖神・塞の神で、道六神・道陸神などとも表記する。

Img_1255滝口神社 《地図

大原十八社」の一つ。今は社殿はなく造営中だ。
右に「深堀氏碑」・「地引絵馬」と「木造神将立像」の説明板が立つ。
ここは深堀という地名で、佐賀藩の深堀鍋島家の始祖は鎌倉時代に承久の乱の恩功により上総国深堀(千葉県大原町)から地頭として下向した深堀(三浦)能忠。『長崎市の坂-11

房総街道踏切(いすみ鉄道)を渡って大原の町中に入って行く。

Img_1266いすみ鉄道

はでな1輛の電車がコトコトと、新田橋を渡って行った。

Img_1270大原地区

3と8の日に市が立ち、大原宿・大原町と称された町並みだが、いまいちぱっとしない。今でも「港の朝市」は開かれている。

Img_1273木戸泉酒造地図

創業明治12年(1879)、銘酒「木戸泉」の醸造元。杉玉が吊り下がり、「三月八日 酒蔵開き」の看板が立っていた。

Img_1275ギャラリー泉

古そうな建物だ。ここにも「酒蔵開き」のポスターが貼ってある。

Img_1283出口商店

Img_1288大原八幡神社 《地図

「大原の朝市」が立ち、「大原はだか祭り」で有名。
境内に大原神社が同居している。

Img_1287説明板

第一房総街道踏切(外房線)を渡って行く。

Img_1292追分回国供養塔道標(天保9年(1838)) 《地図

南面に、「此方かつうら ぼうしふなこ こみなと」・東面に、「こはまみち」・西面に、「一の宮 江戸 きよみづ」で、勝浦・房州那古村(館山市)・安房小湊・小浜村・清水寺か。

国道128号(外房黒潮ライン)に出る。

Img_1304瀧泉寺 《地図

平広常が自ら植えたと伝えるのイチョウがそびえている。

Img_1302由来碑

Img_1306道標(左) 《地図

中央あたりから折れて立て掛けてある。
「矢差戸 大船谷道」で、矢指戸(やさしど)・大舟谷(おおぶなや)。

すぐ先のバス停「大舟谷・矢指戸入口」を過ぎて国道から分かれ右に旧道に入る。

Img_1311旧道(右)に進む。《地図

浪花駅前を通り国道に出る。

Img_1320再び右に旧道に入る。

Img_1323大宮神社(小池神社) 《地図

石段の途中に2基の石灯籠(享和4年(1804))。

Img_1328「夷隅郡伊南庄小池村」

伊南房州通往還を歩いて4日目にしてやっと「伊南」という文字を目にした。

国道128号に出て、小池交差点で右に旧道に入り、第二房総街道踏切を渡って行く。

Img_1335外房線沿いを進む。《地図

このあたりは人家もなく、人も車も通らない静かな所だ。

Img_1337地蔵さんが寂しげにぽつんと石祠に佇んでいる。

花とペットボトルが供えられているから、お参りに来る信心深い、世話をする人がいるのだろう。寂しくはないか。

Img_1340切通しを越えて行く。

Img_1341切通しの窪みにも小石仏が鎮座

御宿町に入る。

Img_1347御宿町火葬場(跡)

今は廃墟だろう。こんな寂しげな所で焼かれたくはないが、死んでしまえばどこで焼かれようが同じか。

外房線を跨線橋で越え、御宿の町並みに入り、御宿駅を過ぎ、御宿海岸の月の沙漠公園まで行く。

Img_1373月の沙漠記念像 《地図

ずっと「月の砂漠」と思っていた。♪『月の沙漠』♪(作詞:加藤まさを)

Img_1375月の沙漠記念館

今日はここまでとし、御宿駅に戻った。

Img_1380ロペス通り碑 《地図

村人が総出で救助した、「サン・フランシスコ号漂着事故」にちなんだ碑。御宿海岸の東方が「ドン・ロドリコ上陸地」で、近くに「メキシコ記念塔」(日・西・墨 三国交通発祥記念碑)が立つ。《地図
ドン・ロドリコの幸運

Img_1382御宿駅

屋根に月の沙漠のらくだ。

Img_0951海女像(御宿駅)

サン・フランシスコ号漂着事故の際、若い海女たちは素肌で遭難者を温め、蘇生させたという。

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2015年2月15日 (日)

伊南房州通往還③

2015年2月7日

上総一ノ宮駅(JR外房線)・・・実本寺・・・東福寺・・・玉蔵寺・・・東漸寺・・・洞庭湖・・・軍荼利山・東浪見寺・・・遍照寺・・(外房線)・・・正満寺・・・浪切地蔵・国道128号・・八坂神社・・熊野権現社・・・県道152号・・・浅間神社・・・綱田跨線橋(JR外房線)・・・(いすみ市)・・・馬頭観音・・・玉前神社・・・椎木地区・・椎木三叉路・・・福原橋(夷隅川・福原の渡し跡)・・・(外房線)・・・東中滝神社・・・法泉寺・・・岬ふれあい会館・・・玉崩橋(弓取川)・・・長者交差点・・天神社・・・長者町駅(JR外房線)

  今日は往還から離れ、東漸寺から洞庭湖を経て東浪見寺に出て往還に戻るコースを行った。

 【ル-ト地図】(上総一ノ宮駅(13.5km)から長者町駅(30km)まで)

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Img_0757ここを右折して房総横断道路(国道128号)と分かれて東漸寺に向かう。 《地図

塀の後ろに道標のような石柱があるが読めず。

Img_0766東漸寺地図

皇女和宮の駕籠」(一宮町指定文化財)

外房七福神」の布袋尊

Img_0765説明板

Img_0773梨畑沿いを進む。

Img_0775洞庭湖(左)・高藤山(たかとうざん・直進)分岐点 《地図

高藤城は標高約80mの山城で、別名柳沢城とも呼ばれていた。平広常の居城とも伝えられ、一宮藩主・加納久徴が広常の功績を讃えて立てた「古蹟の碑」と呼ばれる石碑がある。『史蹟 高藤山と「古蹟の碑」』・『高藤山古蹟の碑と平廣常
昨日訪れた上総一宮の玉前神社にも「平広常顕彰碑」があった。

Img_0783洞庭湖(どうていこ)

享保11年(1726)、八田藩主加納久通が築いた灌漑用の人造湖だが水がない。涸れてしまったのか? ちょっと拍子抜けの気分だ。湖岸に「ため池整備工事」の看板が立っていたので、それで水を抜いたのかと思ったら、近くにいた地元の人の話では今の時期はいつもこんな状態で、桜の頃には水を貯めているという。

Img_0788説明板(古碑

碑には、大多喜・東金・勝浦・茂原・長者町・長南からの里程が刻まれている。

Img_0792尾根道を軍荼利山(ぐんだりさん・73m)・東浪見寺(とらみじ)へ向かう。《地図

ここは「関東ふれあいの道」のコースになっている。

Img_0800道標か?

右に入って見たが、下ってすぐに送電線の鉄柱で行止りになる。

伊勢化学工場の先で道標にしたがい左に進む。

Img_0809左側は軍荼利山植物群落(千葉県指定天然記念物)の自然林が広がる。

Img_0807右下は一の宮カントリー倶楽部だ。

海は見えなかった。

Img_0817東浪見寺前の池

Img_0842東浪見寺 《地図

長く急な石段を上る。

Img_0828石段沿いには巨木が生い茂っている。

前方は海だが見えにくい。

Img_0829仁王門

Img_0833本堂

Img_0834説明板

Img_0832説明板

木造軍荼利明王立像

Img_0847遍照寺 《地図

民衆派詩人「白鳥省吾旧居跡」の標柱が立つ。
東浪見に住んだ白鳥省吾

「外房七福神」の恵比寿天

Img_0849参道は外房線の線路で分断されて、「立入禁止」だが突っ切って行く。

Img_0855中国料理東浪見

どう見ても普通の民家だが、「本格上海料理」の店なのだ。

Img_0859浪切地蔵 《地図

ここで伊南房州通往還(房総横断道路・国道128号)に戻った。

Img_0862熊野大権現 《地図

通称「権現様」で、ここ権現前地区の名前の由来で、守護神でもある。

Img_0868シーサーが門番をする洋館

Img_0872右の国道152号に入る。《地図

200mほど進んだ地点に、清水寺飯縄寺への道標地蔵があるはずだが、道路工事中で撤去されたか、移設されたのか見当たらなかった。

Img_0881浅間神社 《地図

社殿はここからかなり上って行く。

Img_0887社殿前の神木

Img_0885外房九十九里の海(境内から)

綱田跨線橋でJR外房線を越えて行く。

Img_0895いすみ市に入る。

Img_0907玉前神社地図

Img_0909椎木(しいき)商店街だが・・・

Img_0914地方の商店街は、”いずこも同じ秋の夕暮”で、寂しい。

昔は2・7の日に六斎市が立ち、旅籠も2軒(天保14年(1843))あった宿場町だった。今も字名に「椎木宿」、バス停「下宿」にその名残りがある。

Img_0915昔風の商店

営業していないようだ。

Img_0916小安商店 《地図

ここは現役だ。

Img_0918旧家

椎木三叉路で左折して行く。

Img_0923福原橋から夷隅川 《地図

往時は「福原の渡し」で渡っていた。福原村(現岬町東中滝)は公認の馬継場だった。椎木村と荷継を巡る争論を繰り返していたという。
夷隅川はこの先の長者町駅の東方で太平洋に注いでいる。

外房線をくぐって行く。

Img_0928東中滝神社 《地図

中根六社祭り」の一社

Img_0930法泉寺

Img_0931半鐘(延享2年(1745))

Img_0946長者交差点 《地図

長者町は上宿・中宿・下宿から成り、4と9の日に市が立っていた。ここも近隣の村々と荷継を巡って争論を繰り返していたという。

Img_0949天神社

文政5年(1822)に伊勢八店忠兵衛によって奉納された「板絵馬伊勢八店の絵」がある。江戸の呉服問屋伊勢屋の店頭風景を描いたもので、作者は葛飾北斎の高弟、魚屋北渓という。見たいものだが公開していないようだ。

Img_0950長者町駅

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2015年2月11日 (水)

伊南房州通往還②

2015年2月6日

茂原駅(JR外房線)・・・国道128号・・・野巻戸交差点・・・落合橋(阿久川)・・・磯崎神社・・・玉前神社①・・・真福寺・・・七井戸交差点・大多喜街道分岐地点・道標・・・馬頭観音・・・鵜沼堰・・・東円寺・・・面足神社・・・八積駅入口交差点・・・八積村道路元標・・・浅間神社・・・御成街道分岐地点・庚申塔・・・金蔵寺・・・(一宮町)・・・地蔵祠・・・善光寺・・・南宮神社・・・一宮橋(一宮川・宮川の渡し跡)・・・玉前神社②(上総国一の宮)・・・観明寺・・・城山公園(一宮城址)・・崇文門・・一宮小学校・・・上総一ノ宮駅(JR外房線)

  久しぶりに房総半島を歩く。

  【ル-ト地図】(上総一ノ宮駅(13.5km)まで)

  伊南房州通往還①』からの続きです。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0583野巻戸交差点 《地図

このあたりは馬の秣場(まぐさば・共同の牧草地)の野間木戸だった。

阿久川(一宮川の支流)を落合橋で渡って行く。

Img_0588磯崎神社

疱瘡神と伝えられ、明治、大正の頃までは湿疹・麻疹(はしか)・眼病の神として信仰を集め多くの参詣者があったという。

Img_0590玉前(たまさき)神社① 《地図

旧大芝村の鎮守

Img_0592大芝地区

文政11年(1828)には2軒の居酒屋があったそうだ。今は国道沿いのスーパーとコンビニくらいか。

Img_0600七井戸交差点で右に大多喜街道(県道85号)が分岐する。

大多喜街道に入った左側に馬頭観音の追分道標がある。

Img_0602追分道標

正面に、「西ハ茂原 馬頭観世音 □者江戸」、右側面に、「右 かつみ かりや」、左側面に、「左 一の宮 てう者丁」。(旧夷隅郡刈谷村、長者町)で、もとは分岐地点にあったものだろう。左の一の宮、長者町へと進む。

Img_0606馬頭観音祠

Img_0607馬頭観音

もとは南側の山林内の斃馬(へいば)捨て場にあったものという。

Img_0612鵜沼堰地図

昔は面積約2万坪、周囲900間余の広さで、付近の数十町歩の田を潤したという。
「へら鮒以外の釣はご遠慮下さい」の看板が立っている。

Img_0616東円寺

Img_0619面足神社

Img_0617行事案内

今でも地元の信仰が篤いようだ。

Img_0625八積村道路元標 《地図

村はなくなったが、八積駅、八積小学校にその名が残る。

Img_0634浅間神社

宮造りの匠、「猫鉄」の作の一間社流造りの社殿。「猫鉄」は調べても分からず。

Img_0632説明板

Img_0638御成街道分岐地点 《地図

佐倉から大網、本納などを経て、ほぼ一直線に南下してくる道で、年貢米の輸送道、成田山参詣道としても利用されたという。

すぐ先の左側に庚申塔の祠がある。

Img_0642庚申塔(享保元年(1716))

丸彫りの青面金剛像は珍しい。踏まれて苦しそうな邪鬼の表情も面白い。

Img_0647金蔵寺

国道沿いの山門は閉ざされていたが、景気のいい寺名なので大きく迂回して寄ってみた。

一宮町に入る。

Img_0651地蔵祠

右の標柱は道標だろうか? 文字が刻まれているが読めなかった。

Img_0656善光寺 《地図

銅造阿弥陀如来立像」(一宮町指定文化財)

Img_0659説明板

Img_0663南宮神社 《地図

Img_0671神木の南宮大杉

枯れてきているようだ。昔は境内に名木の「皮部の松」をはじめ、老松が鬱蒼と生い茂っていたそうだ。

Img_0678北沢楽天の絵馬だろう。

Img_0665説明板(絵馬)

Img_0685一宮橋から一宮川(宮川の渡し跡)

Img_0725玉前神社②(上総国一宮)

社殿は修理中だった。

梅樹双雀鏡」(国指定重要文化財)

Img_0722玉垣

江戸日本橋、江戸本銀町、江戸神田豊嶋町などの商人が名を連ねている。神田豊島町は私の本籍の旧町名だ。

Img_0697芭蕉句碑

Img_0693説明板

Img_0699平広常顕彰碑

Img_0698説明板

Img_0728観明寺四脚門 《地図

この寺には文化財が多い。
十一面観音菩薩立像」(県指定文化財)
地獄極楽欄間」(町指定文化財)
金毘羅堂」(  〃  )
釈迦涅槃図」(  〃  )
不動明王坐像」(  〃  )

外房七福神」の寿老人の寺でもある。

Img_0735説明板

Img_0733銅造地蔵菩薩座像

Img_0732説明板

Img_0742一の宮城址(城山公園)大手門 《地図

江戸時代には一宮藩主、加納氏の陣屋跡。

Img_0740説明板

Img_0744振武館

Img_0752振武館前から

外房の海が望める。

Img_0753崇文門へのトンネル

一宮小学校校庭から振武館の下を通る避難トンネルになっている。トンネルの名前をつけたらどうか。

Img_0755_2祟文門を抜けた一の宮小学校の校庭

祟文門の上が振武館。校庭で授業中のようでもあったが、端を通って校外へ出て上総一ノ宮駅に向かった。

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2015年2月10日 (火)

六郷田無道③

2015年2月3日

石川台駅(東急池上線)・・・永久橋(池上線)・・・宮前坂上・・・雪見坂上・・・(新雪見坂上)・・・花抜坂…庚申塔道標・洗足流れ跡・・長慶寺・平間道交差地点・・・(東海道新幹線)・・・八幡坂下・子安八幡神社・・・林昌寺・・・六郎坂・・・大尽坂下・・・題目塔道標・・・洗足流れ跡・・・第二京浜国道・・・池上梅園・・実相寺・・真性寺・・大坊本行寺・・車坂下・本町稲荷神社・・中道院・・霊山橋(呑川)・・鎌倉街道下の道合流地点・・分岐地点・道標・・六郷用水(北堀)跡・・・蓮花寺・熊野神社・・・(蓮沼駅)・・・御園神社・・・池上線踏切・・・東急多摩川線踏切・・・(環八通り)・・・六郷用水(南堀)跡・・・蒲田操車場・・・薬王寺・白山神社・・・安養寺(古川薬師)・・・諏訪神社・・・宝幢院・・・八幡踏切(東海道本線)・・・(京浜急行線ガード)・・・東海道合流地点(第一京浜国道)・・・六郷神社・・・旧東海道跡・・・北野天神社・・六郷の渡し跡・・・六郷土手駅(京浜急行線)

  【ル-ト地図】(石川台駅(30.8km)から)

  坂は『東京23区の坂』の大田区で。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0399雪見坂 《地図

今では富士山の雪は見えない。

Img_0406新雪見坂 《地図

右遠方に雪の富士山がはっきりと見える。勝手に新富士見坂と名づけた。

Img_0413花抜坂を下る。

池上本門寺本堂の屋根と五重塔が望める。この方向へ進んで行く。

Img_0420庚申塔(享保7年(1722))・洗足流れ跡 《地図

右側の庚申塔は道標を兼ねていて、「右瀬田ヶ谷村道」・「左九品仏道」で、瀬田ヶ谷村道が歩いて来た道。
右の細い道が洗足流れの跡で、ここは暗渠になっていて呑川に合流する。

Img_0423長慶寺

Img_0424説明板

長慶寺の前で平間道と交差し、東海道新幹線をくぐって行く。

Img_0437大尽坂下 《地図

右の小祠内の題目塔(享保3年(1718))は道標になっていて、「池上めぐろ江道」・「せんそくほりの内江道」と刻むというが、確認できず。

Img_0443洗足流れの分水路跡の桜並木の歩道を進む。(大森十中前)

この先で第二京浜国道を渡る。

Img_0446池上梅園地図

「現在1分咲きです」の標示だった。梅は大田区の花で、白梅は150本、紅梅220本、シダレなど約30種類もの梅が咲き誇るそうだ。

Img_0452大坊(本行寺) 《地図

池上宗仲屋敷跡で日蓮上人入滅の地。

Img_0454説明板

Img_0455説明板

Img_0473中道院 《地図

ここの梅はけっこう咲いている。

Img_0480鎌倉街道下の道(南回りルート)に合流し、すぐに左に分れて行く。《地図

葛餅の相模屋の角に題目塔道標がある。『鎌倉街道下の道』に記載。

Img_0482六郷用水北堀跡

Img_0486徳持小学校 《地図

このあたりは明治39年から43年までの池上競馬場跡で、その後目黒競馬場に移った。

Img_0491池上線沿いを進む。

Img_0492蓮花寺地図

本尊は火除観音と称する十一面観音菩薩像。玉川八十八ヶ所霊場の70番、東海三十三観音霊場の10番。隣に熊野神社がある。

Img_0499御園神社地図

池上線踏切、東急多摩川線踏切を渡って、環八通りを横切る。

Img_0504六郷用水南堀跡 《地図

この先で蒲田操車場を横切っていた。

Img_0507蒲田操車場

松本清張の『砂の器』の殺害死体発見現場。

Img_0513薬王寺地図

玉川八十八ヶ所霊場の68番、東海三十三観音霊場の22番です。隣の白山神社の別当寺。

Img_0515白山神社

梅の花で暖かく感じる。

Img_0519安養寺(古川薬師) 《地図

右に道標(延宝2年(1674))で、正面に薬師如来を表わす梵字と「古川 薬師如来江之道 六郷之内古川村 別当安養寺』、右側面に『是よりふる川屋くし江のみち』、左側面に『これよりふるかわやくしへ之ミち』で、東海道の六郷の渡しから多摩川道(筏道)に入る分岐点に立っていた道標で、ここに移設された。

Img_0520説明板

Img_0534イチョウと「銀杏折取禁制碑」(元禄3年(1690))

ご利益があると聞けば、何でもする身勝手さは昔も今も変わらずだろう。2代目のイチョウも枯れてきているようだ。

Img_0525説明板

Img_0537 宝幢院梵鐘(延宝9年(1681)) 《地図

Img_0536説明板

Img_0540水船(手水石・寛永20年(1643))

在銘の手水石では大田区内最古という。

Img_0538説明板

八幡踏切(東海道本線)を渡り、京浜急行線ガードをくぐる。

Img_0550東海道合流地点(東六郷3丁目交差点) 《地図

Img_0564六郷神社

Img_0557狛犬(貞享2年(1685))

区内最古の狛犬というが、狛豚という感じだ。

Img_0556説明板

Img_0562伝源頼朝寄進の手水石

紀年銘があればこれが区内最古の手水石だろう。

Img_0561_2六郷橋親柱

Img_0560説明板

Img_0569梶原景時寄進の太鼓橋

南に真っ直ぐの道が慶長6年(1601)に幕府が定めた当初の東海道の道筋。《地図

Img_0571旧東海道跡碑

この道筋が元和9年(1623)に西方に付け替えられた道筋。《地図

Img_0578北野天神社(落馬止め天神) 《地図

受験生の姿はなかった。

Img_0581由来

Img_0579六郷の渡し標柱

「日本橋へ四里半」と書かれているというが、消えかかっていて読めない。

Img_0577六郷の渡し跡説明板

Img_0580六郷の渡し跡あたりの多摩川

流れは見えず、並んでゴルフ球をひっぱたく殺風景な河川敷が広がっている。渡し場は六郷橋の150mほど下流にあったという。
歌川広重の『川崎 六郷渡舟

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2015年2月 7日 (土)

六郷田無道②

2015年2月1日

千歳船橋駅(小田急線)・・・庚申塔・地蔵尊・・・満桜稲荷神社・・・勝光院・・・大山街道・鎌倉街道合流地点・・・鎌倉街道分岐地点・・世田谷代官屋敷跡・・天祖神社・・大山街道分岐地点(世田谷中央病院交差点)・駒沢公園通り・・・いぼとり地蔵・常在寺・・・向天神橋交差点・・・旧道・・・馬頭観音・・・上馬交差点・・宗円寺・玉川通り・・旧道・・・庚申塔・野沢稲荷神社・・・龍雲寺・・・環七通り・・・野沢交差点・・・水車橋バス停・・・駒沢陸橋交差点・環七通り・・・(目黒区)・・鎌倉街道交差地点(柿の木坂1丁目交差点)・・・日丘橋(東急東横線)・・・柿の木坂陸橋・・・大岡山小前交差点・旧道・・・鉄飛坂上・帝釈堂・・・清水窪弁財天・・・大岡山駅(東急目黒線・大井町線)・(大田区)・・大岡山南口商店街・・東工大・・・赤松稲荷神社・・・百番巡礼供養塔道標・・出穂山地蔵堂・・・出穂山稲荷神社(東工大構内)・・・中原街道・・・石川台駅

  【ル-ト地図】(千歳船橋駅(17.4km)→石川台駅(30.8km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0244庚申塔祠(右)・地蔵(左) 《地図

ここを曲がって満桜稲荷神社へ。

Img_0245満桜稲荷神社

昭和39年に仲在家稲荷と木稲荷を合祀。満仲は「源満仲」か?

Img_0256勝光院

せたがや百景』の竹林、区内で2番目に古い梵鐘(元禄11年(1698))

Img_0248説明板

Img_0252説明板(梵鐘)

Img_0260大山街道と合流 《地図

桜門標柱には「世田谷代官お膝元」とある。

すぐ先で鎌倉街道中の道(西回りルート)が左に分岐する。その先に世田谷代官屋敷跡がある。

世田谷中央病院交差点で駒沢通りに突き当たり、大山街道は北へ、六郷田無道は南方向へ分かれる。
Img_0268常在寺・いぼとり地蔵堂 《地図

ここに移設されたようだ。

Img_0267いぼとり地蔵

いぼとり用の小石が台座の上と下に沢山ある。今でも信仰があるのか?

Img_0265由来

Img_0269向天神橋交差点へ下って上る。

坂下に蛇崩川が流れ向天神橋が架っていて、近くに向天神社があったという。今は交差点の南側に向天神橋公園がある。

弦巻二丁目交差点の手前で左に入って行く。

Img_0282馬頭観音祠 《地図

Img_0285馬頭観音(文化13年(1816))

保存状態がよく、年代を感じさせない。

上馬交差点に出る。

Img_0290宗円寺地図

山門をくぐった左側に「しょうづかの婆様」の小堂があり、綿で埋れそうな婆さんが座っている。

Img_0289説明板

Img_0291庚申塔(明暦4年(1658)・宗円寺境内)

世田谷区内最古という。青面金剛像は風化したのかはっきりしない。

Img_0296野沢稲荷神社地図

北角に庚申塔の祠

Img_0302庚申塔(元禄8年(1695))

右に「元禄八亥年」・左に「野澤村」と刻まれている。

Img_0300説明板

庚申塔のことも書かれている。

Img_0314龍雲寺

Img_0310二本松地蔵(寛政9年(1797))

台座は道標で、正面に「北 世田ヶ谷道 堀之内道」、左側面に「東目黒道」、背面に「西大山道」。もとは2本の松が生えていた野沢交差点に立っていたものだそうだ。

野沢交差点で水車橋跡に寄る。

Img_0319水車橋バス停 《地図

ここを流れていた品川用水を利用した野沢水車があった。

Img_0324周辺図

水車、品川用水、水車橋が見える。

駒沢陸橋交差点で環七通りに入り南下する。

Img_0331目黒区に入る。

この先の柿の木坂1丁目交差点で、鎌倉街道中の道(東回りルート)と交差する。

Img_0340大岡山小前交差点で斜め右に旧道に入る。《地図

Img_0341鉄飛坂上 《地図

右に帝釈堂

Img_0342説明板

Img_0343庚申供養塔道標(文化7年(1810))

正面に「右ハ目くろミち 左ハ二子の渡し」、
右側面に「左ハ池上 右ハほりの内 ミち」。今歩いてきた東の六郷田無道との辻に立っていたものか。

Img_0347帝釈堂内の庚申塔(3基)、題目塔(右から2番目か)

帝釈天像が浮彫されている庚申塔は左から2番目か?

Img_0356清水窪弁財天地図

洗足池の水源池に祀られた弁財天堂。左側の滝は池の水を電動ポンプで汲み上げて流している。

Img_0352説明板

目黒区と大田区の境を進み、大岡山駅を過ぎて大田区に入る。

Img_0364赤松稲荷神社

赤松の大木があったという。

Img_0372百番供養塔道標(天明2年(1782)) 《地図

右側面に「右いけかみミち 左めくろみち」、左側面に「くほんふつみち 志な加わミち」で、池上、目黒、九品仏、品川への道標。

Img_0380出穂山地蔵堂 《地図

地蔵・馬頭観音・庚申塔・如意輪観音か?

Img_0382出穂山(でぼやま)稲荷神社(東工大構内) 《地図

鳥居の右側下に庚申塔がある。

Img_0386庚申塔道標(享保10年(1725))

「これより・・・」、下は埋まっているか、欠けている。

Img_0388中原街道にぶつかる。《地図

今日はここまでとする。

Img_0390石川台駅(東急池上線)

子どものころは2つ先の御嶽山駅の近くに住んでいて、この駅も懐かしい。

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2015年2月 3日 (火)

六郷田無道①

2015年1月31日

田無駅(西武新宿線)・・・青梅街道・・・田無1丁目交差点・・・富士街道分岐地点・・西武新宿線ガード・・・六郷田無道分岐地点(深大寺道合流地点)・深大寺通り・・・境橋(石神井川)・・・ほうろく地蔵堂・・・馬頭観音道標・・・武蔵野大学前交差点・五日市街道合流地点・千川上水・(武蔵野市)・・・御門訴事件記念碑・五日市街道分岐地点・大師通り・・・市民の森公園・・・境浄水場迂回・・・大橋(玉川上水)・・・(JR中央線)・・・深大寺道分岐地点(三鷹市塚交差点)・(三鷹市)・連雀通り・・・神明社・・井口院・・・八幡大神社・・禅林寺・・庚申塔石祠・・・狐久保交差点・吉祥寺通り・・・新川交差点・人見街道合流地点・・・新川宿公会堂・八幡社・・・三鷹一小前交差点・人見街道分岐地点・下本宿通り・・・新川宿バス停・・(東八通り)・・島屋敷通り・・・新川3丁目交差点・吉祥寺通り・・・新川2丁目交差点・・庚申塔道標・・・旧道・・・北野庚申堂・・・吉祥寺通り・・・(中央自動車道)・・・北野地区公会堂・八幡神社・・・(世田谷区)・旧道・・・吉祥寺通り・・・給田交差点(甲州街道・国道20号)・・・給田町交差点(旧甲州街道)・・・京王線踏切・・・長太稲荷社・・・榎交差点・滝坂道交差地点・・・塚戸公園・・・塚戸十字路・庚申塔道標・・・環八船橋交差点(稗殻橋跡・稗殻坂跡)・・・(荒玉水道道路)・・・浄立寺・・・小田急線ガード・・・稲荷森稲荷神社・庚申塔道標・・・千歳船橋駅(小田急線)

  東海道の六郷から青梅街道の田無に通じる道で、大田区→目黒区→世田谷区→三鷹市→武蔵野市→西東京市(旧田無市)へと続く。六郷田無道は主に世田谷区で呼ばれている通称名という。寒中のことでもあり、田無から南方向に六郷を目指す。

  【ル-ト地図】(田無駅→千歳船橋駅(17.4km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0087青梅街道との分岐地点 《地図

この交差点右折して、北から来る深大寺道と合流して南下して行く。田無駅からここまでは『青梅街道②』に記載。

Img_0092ほうろく地蔵堂 《地図

右の新しい祠内

Img_0095ほうろく地蔵

光背が焙烙の形に似ていることからの名。文京区の大円寺、日光街道の栗橋宿の手前にもある。『文京区の坂⑨』・『日光街道(栗橋宿→野木宿)』に記載。

Img_0099馬頭観音道標(安永7(1778)・正面の右角) 《地図

左側面に「西 府中 東 戸 道」・右側面に「南 大寺 北 □□ 道」。は「神」か「深」か?

Img_0105五日市街道合流地点(武蔵野大学前交差点)

左折して千川上水を渡り、すぐ先の左の御門訴事件記念碑で右折し、大師通りに入る。

Img_0116市民の森公園 《地図

昨日の雪が残っている。

Img_0118大師通りは境浄水場に突き当たり左に迂回する。《地図

深大寺の元三大師堂への道で、開港後は横浜街道とも呼ばれていた。

Img_0126大橋(玉川上水)を渡る。《地図

大師通りの続きの道で、武蔵野市と三鷹市の境となっている。

Img_0125説明板

Img_0127工事中の広い車道に合流し、三鷹市との境を南下する。

JR中央線をくぐり、三鷹市塚交差点で左折し、南下する深大寺道と分かれ三鷹市の連雀通りに入る。

Img_0133神明社地図

連雀を開発した練馬区関町の井口家より分家した井口権三郎が、村の鎮守として寛文12年(1672)に創祀。隣が井口院。

Img_0135井口院

Img_0134説明板

Img_0139雨乞弥勒(文政11年(1828))

Img_0137説明板

Img_0142不動明王

Img_0149八幡大神社 《地図

江戸の明暦の大火(振袖火事)後に、神田連雀町から入植した人々の鎮守として、寛文4年(1664)に創建された。左は神木のスダジイ(三鷹市天然記念物)。

Img_0151由緒碑

江戸の「神田連雀町」からの地名の由来も書かれている。

Img_0153禅林寺

Img_0158太宰治墓

入水心中したのは三鷹の玉川上水

向かい合って、

Img_0156森鴎外墓

Img_0160庚申塔(禅林寺前のスーパー「コープみらい」の角

がっしりとした石祠に守られている。これなら自動車や自転車にぶつかられても大丈夫だ。

狐久保交差点で右折し、吉祥寺通りに入る。

Img_0166新川交差点で人見街道に合流して左折する。

Img_0172八幡社 《地図

新川宿の鎮守。奥に品川用水の跡がある。

Img_0177三鷹一小前交差点で、人見街道は左に離れて行く。

新川宿バス停で右折し、東八通りを渡り、島屋敷通りを南下する。

Img_0181島屋敷通り 《地図

南方の新川団地あたりに柴田勝家の孫の柴田勝重の屋敷があったという。『日本の城巡り紀行』・『島屋敷遺跡

新川3丁目交差点で左折し、吉祥寺通りに入る。

Img_0186庚申塔道標(宝暦7年(1757)) 《地図

分岐の金網フェンス内

Img_0189左側面

左側面に「左 神代寺みち」、右側面に「右 天神みち」。深大寺と、少し北の新川天神社への道標。

Img_0190新川二丁目交差点の先で右に旧道が少し残る。《地図

Img_0196北野庚申堂(右)

前方は中央自動車道

Img_0191庚申塔

右から2番目は享保?年の銘。この他に馬頭観音と?神塔がある。

中央自動車道をくぐる。

Img_0199北野地区公会堂の敷地内の八幡神社の小祠 《地図

他所から移設されたものか?

Img_0202世田谷区に入ると左に旧道が残る。《地図

すぐに吉祥寺通りに戻るのだが、かなり進み過ぎてしまって引き返した。

Img_0207甲州街道を横切る。《地図

この先で京王線の踏切を渡る。

Img_0211長太稲荷社(吉実園の敷地内)

Img_0214滝坂道交差地点(榎交差点) 《地図

この先の塚戸公園に「せたがや百景」の48.「上祖師谷の六郷田無道」の案内板があるというが、工事中で撤去されたのか見当たらず。

Img_0217塚戸十字路 《地図

向い側に庚申堂

Img_0219庚申塔(享和2年(1802))

正面下方に「東 世田ヶ谷道」、右側面に「南 二子道」、左側面に「北 高井土道」、裏面は「西 府中道」か?

Img_0223説明板

Img_0227稗殻坂跡(環八船橋交差点)

ここに品川用水が流れていた。

環八通りを渡り、荒玉水道道路を横切り、浄立寺の先で小田急線ガードをくぐる。

Img_0231稲荷森神社 《地図

「いなりもり」・「とうかもり」とも呼ぶようだ。

Img_0234庚申塔道標(文政9年(1826)・稲荷森神社境内)

正面下部に「南二子道」、左側面に「西登戸道」、右側面に「東青山道」、裏面に「北高井戸道」。

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