« 伊南房州通往還④ | トップページ | 伊南房州通往還⑥ »

2015年2月26日 (木)

伊南房州通往還⑤

2015年2月11日

御宿駅(JR外房線)・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・御宿橋(清水川)・・・月夜見神社・・・御宿トンネル①・・鶴石トンネル②・・第2部原トンネル③・・東魚見トンネル④・・(勝浦市)・・部原海岸・・・滝口神社・・・勝浦市部原交差点・旧道・・・稲子橋(稲子川)・・・長秀寺・・・風早トンネル⑤・・・豊浜漁港・・・妙海寺・・・観音堂(慈眼寺)・・・蓮性寺・・・八幡神社・・・真浄寺・・・川津港・・・津慶寺・・・川津神社・・・向ケ坂・・・万名第二トンネル⑥・・・万名第一トンネル⑦・・・官軍塚・・・勝浦平和観音・・・勝浦灯台・・・鳴海神社・・・与謝野晶子詩碑(鳴海荘跡地)・・・猿山トンネル⑧・八幡岬公園(勝浦城跡・八幡神社)・・・虫浦トンネル⑨・・・本朝寺・・・遠見岬神社・・・朝市通り・・・高照寺・・・本行寺・・・延命地蔵堂・覚翁寺・・・猿田彦大神・・・岩切通り・・・観音堂(慈眼寺)・・・無情橋跡あたり・・・出水橋・・・墨名歩道トンネル⑩・・大岡氏陣屋跡あたり・・・勝浦駅(JR外房線)

  今日はモグラのようにトンネルを10も通り抜けたが、往還から離れ、川津港~官軍塚~勝浦灯台~八幡岬(勝浦城跡)と外房の太平洋の景観も楽しんだ一日だった。

  【ル-ト地図】(御宿駅(49km)から勝浦駅(68.2km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1360御宿トンネル① 《地図

ここで右に入って4つ目の東魚見トンネルの先に出るのが旧道だが、途中の外房線の新第2浜トンネルを越えるあたりが廃道になっているという。(未確認) 歩道が分離していないトンネルを抜けて行くことにする。

歩道がなくて危険だが、どれも短くて(御宿トンネルが一番長くて127m)出口が見えるのでさほど恐怖感はない。

Img_0959東魚見トンネル④を抜けて一安心だ。

Img_0962部原(へばら)海岸 《地図

今抜けて来た所を振り返る。晴れていて風がかなり強い。

Img_0963サーファーにはもって来いの波だろう。

海の中にいる方が寒さを感じないそうだ。

Img_0972勝浦市部原交差点 《地図

左に海岸沿いを進み沢倉から豊浜港、川津港へ向かう。

Img_0978長秀寺

このあたりの寺は小高い所にあり、津波の避難所になっている。

Img_0982風早トンネル⑤をくくる。《地図

Img_0994観音堂(慈眼寺) 《地図

寺というより普通の民家風の建物だった。ここも津波の避難所だ。

往還の道筋は観音堂(慈眼寺)から西に向かい、岩切通りを通って勝浦の町中に入るが、海岸沿いを南下し、川津港~勝浦灯台~八幡岬(勝浦城跡)~勝浦の町中へと大回りして行く。けっこう起伏のあるコースだ。

Img_1014川津港 《地図

「房州沿岸の漁業は関西漁民の進出を契機に発達したが、八手網を中心としたイワシ漁はこの川津から始まったものだという。元和2年(1616)、紀州加田浦の漁師大甫七重郎が川津村矢の浦に来て八手網漁を始め、翌年には岩和田(御宿町)、岩船(大原町)でも操業されるようになったと伝える。」(『千葉県歴史の道調査報告書』より)

Img_1018熊本藩兵瘞骸(えいがい)碑(津慶寺)

明治2年1月2日、函館の旧幕府軍討伐を命じられた弘前藩主津軽氏の援軍として、津軽承昭の実兄熊本藩主細川韶邦が米船のハーマン号をチャーターし熊本藩士ら345名が江戸を出港し、函館へ向かった。翌朝、暴風雨に見舞われ川津沖で座礁、大破し、熊本藩士、アメリカ人乗組員ら220名以上が犠牲となった。
この碑は熊本県出身の千葉県知事、藤島正健の撰文、元熊本藩士の土肥直康の書。
熊本市にも横手町の安国寺境内に「上総沖溺死者供養塔」があるそうだ。『ハーマン号沈没事件』(肥後細川藩拾遺)
昨日の「サン・フランシスコ号漂着事故」といい、このあたりの外房の太平洋は難所だったようだ。

Img_1020仏足石

千葉県で唯一という。後ろは天保2年(1831)の由来碑。

Img_1024向ケ坂(津波避難場所)を上って官軍塚に向かう。《地図

Img_1030通行困難となって引き返す。藪こぎすれば行かれるだろう。

ここまで来れば津波は到達しないと思うが、もう少し道を整備した方がいいのでは。余計なお世話か。

大きく迂回して上りながら官軍塚を目指す。

Img_1037トンネル万名第二トンネル⑥ 《地図

手掘りのようなトンネルだ。暗いし歩道はなく車も通るよ。

Img_1039万名第一トンネル⑦ 《地図

車をやり過ごしてから小走りで抜けた。

ここを抜けてぐるっと上って行く。

Img_1045官軍塚 《地図

「ハーマン号沈没事件」の犠牲者の供養塔。

Img_1044説明板

Img_1053官軍塚近くから

風が強く白波が立っているのはいつもことか。

Img_1057勝浦平和観音 《地図

日本海軍駆逐艦沖風殉難」とあるから、駆逐艦沖風は「サン・フランシスコ号」・「ハーマン号」と同様、暴風雨か何かで難破したと思いきや、米潜水艦「トリガー」の魚雷で撃沈されたんだと。

Img_1058殉難碑

Img_1070勝浦灯台地図

Img_1066説明板

Img_1067八幡岬方向

あそこまで行くのだ。海面に太陽の光が反射して鏡のようだ。

Img_1081鳴海(なるか)神社

勝浦城主植村泰忠が建立。

Img_1080由緒

Img_1087与謝野晶子詩碑 《地図

ここは国民宿鳴海(なるか)荘跡で海抜約40mで津波の避難場所になっている。

Img_1085上総の勝浦

「鳴海(なるみ)絞り」は、東海道の「有松・鳴海絞会館」で。

Img_1090猿山トンネル⑧をくぐって八幡岬公園(勝浦城跡)へ 《地図

Img_1095八幡神社

Img_1098説明板(勝浦城址

Img_1105お万の方(養珠院)像

勝浦城落城の際に、海から館山方面に逃れ、後に徳川家康の側室となった。水戸黄門(光圀)のおばあちゃんだ。

Img_1106説明板

Img_1099「お万の布さらし」伝説

Img_110014才のお万姫はこんな断崖から海に下りて逃れたのか。

Img_1104勝浦灯台方向

駆逐艦沖風は勝浦灯台の南方8海里(約15km)で撃沈されたそうだ。かなり沖合だ。

Img_1110勝浦湾

鳥居は遠見岬神社の鳥居。

Img_1111虫浦トンネル⑨ 《地図

暗くて歩道なし。向うから車がやって来た。車同士すれ違うのも怖いだろう。

Img_1113駆け抜けて撮ったらぼやけてしまった。

勝浦の町中を通って、観音堂(慈眼寺)前の往還まで戻る。

Img_1120酒店

Img_1122遠見岬(とみさき)神社地図

社殿はこの「冨咲(とみさき)の石段」(冨が咲き幸せになるとか)を上ってさらに上の小高い所にある。

Img_1127途中から勝浦港の眺め

右後方は国道128号の串浜大橋で、その下がJR外房線の線路だろう。

Img_1124社殿と神木

Img_1131朝市通り 《地図

天正19年(1591年)、勝浦城主植村泰忠が勝浦根古屋(町の中心地)でのみ農水産物の交換の場を開設したと伝える。今も毎朝市が立つ。(定休日は水曜と元旦)

Img_1133乳公孫樹(大イチョウ・高照寺)

100年ほど前の火災で主幹の上部は焼け、四方八方に伸びた枝が墓石にのしかかり、支柱に支えられ凄まじい姿になっている。

Img_1132説明板

Img_1153旅館松の家(国登録有形文化財)

一度泊まってみたいねえ。

Img_1152釈迦堂(本行寺)

Img_1150説明板

Img_1156延命地蔵堂(右)・覚翁寺 《地図

Img_1158右も地蔵なのか? 地蔵さんらしからぬ顔立ちと思うが。

Img_1165植村家宝篋印塔 (植村家五代の墓所)

Img_1164説明板

Img_1177猿田彦大神堂 《地図

Img_1167岩切通り 《地図

漁港の豊浜地区と勝浦の町を結ぶ道で、出水(いでみず)地区は、明治から大正にかけて幸前楼や山本楼といった三層楼の旅館をはじめ、多数の飲食店や劇場の並ぶ繁華街で、花街として知られた通りであったという。今はその面影は全くない。

Img_1168庚申塔祠

この先の観音堂(慈眼寺)の前まで行って引き返す。

Img_1180無情橋跡あたり? 《地図

このあたりに出水川が流れ橋が架かっていた。江戸後期、勝浦は岩槻藩大岡氏の支配(飛地)で、その頃刑場へ引かれる罪人がこの橋まで来ると家人と別れる風習があり、後ろを振り返りながら世の無情を恨んで渡ったとか。(『千葉県歴史の道調査報告書』より)

Img_1183墨名(とな)歩道トンネル⑩ 《地図

歩行者専用で、途中でいくつかに分岐して地上に出られる。

Img_1188大岡氏陣屋跡あたり

通称ガケ下で、勝浦市商工会館あたりにかけて陣屋が置かれた。崖の上は庚申山と呼ばれていて、窪地に処刑場があり、北側には六畳ほどの岩屋牢があったという。

|

« 伊南房州通往還④ | トップページ | 伊南房州通往還⑥ »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伊南房州通往還⑤:

« 伊南房州通往還④ | トップページ | 伊南房州通往還⑥ »