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2015年10月21日 (水)

鎌倉街道(上の道⑥)

2015年10月19日

所沢駅(西武池袋線)・・・鎌倉街道説明板・・実蔵院・・・東川・旧鎌倉街道標柱・新光寺・・・県道6号・・峰の坂・・所沢神明社・・・堀兼道分岐地点・・・西武新宿線踏切・・・北岩岡交差点・・(狭山市)・・・金剛院・・・入曽交差点・茶つみ通り・・・下水野の地蔵尊・・・県道50号・・・入間野神社・・・入曽橋(不老川)・常泉寺観音堂・七曲井戸・・・野々宮神社・・・富士見町一丁目交差点・・・東里橋(西武新宿線)・・・航空自衛隊入間基地・・狭山市役所・・・慈眼寺・・中之坂・・・狭山八幡神社・・・中央図書館・・・狭山市駅(西武新宿線)

  【ル-ト地図】(所沢駅(14km)→狭山市駅(27.8km))

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Img_4698鎌倉街道説明板(右) 《地図

この先の実蔵院、新光寺あたりが河原宿の中心だった。

Img_4700説明板

ここから峰の坂までは『所沢市の坂②』に記載。

Img_4713堀兼道分岐地点 《地図

Img_4715説明板

Img_4716旧鎌倉街道標柱

新所沢駅西入口交差点の手前

Img_4721一風変わったラーメン店「岩岡屋

この先で西武新宿線の踏切を渡り、北岩岡交差点の先で狭山市に入る。

Img_4729金剛院 《地図

御嶽神社(現入間野神社)の別当寺だった。

Img_4731説明板①

Img_4732説明板②

Img_4733石橋供養塔(天明3年(1783)・金剛院境内)

左側面に「此方江戸みち」とある。不老川沿いにあったものか?

入曽交差点を右折し、茶つみ通り(県道8号)を進み下水野の地蔵尊に寄る。思ったより離れていた。

Img_4742狭山茶

『色は静岡、香りは宇治と、味は狭山でとどめさす』で、日本三大茶の一つ。

Img_4738下水野の地蔵尊(貞享2年(1685)) 《地図

「夜泣き地蔵」・「化け地蔵」・「抜苦地蔵」・「子育て地蔵」などの名を持つ地蔵。
「化け地蔵」の由来話:「昔、ある夜にこのあたりを通りかかった旅人が、明りが見えたので近づいて見ると、目玉と口が光る化け物だった。驚いた旅人は近所の農家に駆け込みそのことを話した。翌朝に農家の人が調べてみると、村の若者がいたずらに掛けたスイカの提灯だった。しかし化け物が出た話は旅人から回りに広がり、化け地蔵と呼ばれるようになった。一説には、地蔵尊を縛って願を掛けるという風習があることから、これを見た人が勘違いしてそう呼ばれるようになったともいう」

Img_4737説明板

Img_4747入間野神社

入曽の獅子舞』が、毎年10月第3土曜日・日曜日に、金剛院と入間野神社に奉納される。昨日と一昨日だったのか。惜しいことをした。

Img_4745説明板

Img_4755不老川(としとらずがわ・入曽橋から上流方向)

Img_4758説明板

Img_4772常泉寺観音堂

Img_4760説明板

Img_4769七曲井戸(観音堂の裏)

Img_4767説明板

Img_4776おおたかの森

今でもオオタカはいるのか?

鎌倉街道は富士見町一丁目交差点を直進し、狭山市駅を横切って行くようだが、交差点を左折し、西武新宿線を越え、慈眼寺から中之坂を下り、八幡神社に寄って狭山市駅に向かった。

Img_4788慈眼寺武蔵野三十三観音霊場の第十六番)

「黒こげ地蔵」を見逃した。

Img_4790中之坂を下る。《地図

坂上と坂下に古ぼけた木製の坂標が立っている。それには「小高い丘を切り開いて作られた坂道」とある。

Img_4796八幡神社

Img_4817本殿の彫刻

Img_4806説明板

Img_4804説明板

Img_4802新田義貞駒繋ぎの松(本殿脇)

同社に残る『八幡神社縁起』によると、元弘3年(1333)5月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるため当地へ兵を進めた際、戦勝祈願に参拝したとあるそうだ。今は切り株が残るだけ。

中央図書館前から狭山市駅に出た。

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2015年10月18日 (日)

鎌倉街道(上の道⑤)

2015年10月15日

西国分寺駅(JR武蔵野線)・・・阿弥陀坂・・阿弥陀堂跡(阿弥陀堂霊園)・・・姿見の池・・・東福寺・・・恋ヶ窪閻魔堂霊園・・熊野神社・・恋ヶ窪村用水・・・(西武国分寺線)・・・府中街道・・・恋ヶ窪交差点・厳島弁財天・・・(小平市)・・上水本町交差点・五日市街道・・・(JR武蔵野線)・・鎌倉街道・・・上鈴木稲荷神社・・砂川用水(二つ塚緑道)・・・鎌倉橋(玉川上水)・(新堀用水)・・・(武蔵野線)・・・(たかの街道)・・・鎌倉街道交差点(青梅街道)・・・六小通り・・・BS中央通り・・・府中街道・・・(西武拝島線)・・・迷いの桜・九道の辻(八坂交差点)・野火止用水・(東村山市)・・(西武多摩湖線)・・八坂延命地蔵尊・・・八坂神社・・・野口橋(空堀川)・・・(新青梅街道)・・・平和塔公園・境塚・・(西武新宿線)・・・東村山駅(西武新宿線)・・・旧道・・旧蹟鎌倉古道跡標柱・・・久米川少年野球場・鎌倉古街道説明板・・・白山神社・・・立川家長屋門・・・(西武新宿線)・・・徳蔵寺(元弘の板碑)・・・公事道北バス停・・・二瀬橋(柳瀬川)・(所沢市)・・・庚申塔・・・勢揃橋北交差点・・・豊川稲荷神社・・長久寺・・天王坂・・・西武池袋線踏切・・・南小学校・・・駒形交差点・・・所沢駅(西武池袋線)

  *『鎌倉街道上の道④)』の続きです。

  【ル-ト地図】(西国分寺駅→所沢駅(14km))

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Img_4535阿弥陀堂跡(左の阿弥陀堂霊園) 《地図

畠山重忠が遊女夙妻(あさづま)の菩提を弔った木造の阿弥陀如来像を本尊とする寺跡という。石段右は「阿弥陀堂霊園改造記念碑」。
このあたりの地名の恋ヶ窪や、傾城の墓・阿弥陀堂・一葉の松(傾城の松)などは、畠山重忠と夙妻の悲恋物語伝承に由来する。
江戸名所図会』(左下端に阿弥陀堂、あみだ坂、その右方に、恋ヶ窪、姿見の池、その上方に東福寺、一番上が道興准后の歌) 『解説文

Img_4525姿見の池

恋ヶ窪の宿場の遊女たちが姿を映したという池。畠山重忠との仲を横恋慕した男の偽言で、重忠が討ち死したと思い込んだ遊女夙妻が身を投げた池という伝承もある。

Img_4526説明板(伝承)

Img_4546東福寺

石段下右に「傾城の墓由来碑」・「傾城の墓」(遊女夙妻の墓)・「一葉の松」(何代目?)が並ぶ。
「一葉松」は、夙妻の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松。 夙妻の一途な思いの現れともいう不思議な一本葉の松で、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになった。言い伝えの一葉松はすでに枯れてしまったが、、枝を植え継いだ松が数本植えられており、わずかではあるが一葉を見ることができるという。「江戸名所図会」の「傾城の松」のこと。

Img_4548熊野神社

Img_4551由緒

Img_4550道興准后の歌碑

この地を訪れた文明18年(1486)には、恋ヶ窪の宿も荒れ果てて往時の面影はなかったようだ。
廻国雑記』に、「此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、”朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪 今はたとふも 契りならずや”」とある。「此の関」は霞ノ関のこと。

Img_4549説明板

Img_4557恋ヶ窪村用水(右)沿いを北上する。《地図

北方の玉川上水から分水し、姿見の池にも流れ込んでいた。

Img_4552説明板

この先の西武国分寺線の線路で道は遮断される。

Img_4562恋ヶ窪交差点

分岐地帯に厳島弁財天の新しい祠が立っている。ここは右の府中街道を進んだ。

国分寺市から小平市に入る。

Img_4568上水本町交差地点

右折して五日市街道を少し進む。上鈴木稲荷神社・砂川用水(二つ塚緑道)などは『五日市街道②』に記載。

Img_4576鎌倉橋(玉川上水)を渡る。

往時の街道は恋ヶ窪村用水から直線的に北上し、このあたりに通じていたのだろう。

Img_4580玉川上水はしっかり流れている。

Img_4581すぐ北側を沿って流れる新堀用水

Img_4584鎌倉街道の標識

Img_4585青梅街道との鎌倉街道交差点手前 《地図

右に鎌倉街道の説明板

Img_4587説明板

この先のブリジストンの敷地で鎌倉街道の道筋は途切れる。府中街道を進むことになる。

Img_4592西武拝島線をくぐって行く。

Img_4596迷いの桜(何代目かは不明。九道の辻の交番裏) 《地図

9本もの道の交差地で、鎌倉攻めの新田義貞が道を間違えないようにと植えた桜という。ブリジストンの敷地内に消えた鎌倉街道はここへ通じていたのだろう。

Img_4598説明板

Img_4605九道の辻標柱(八坂交差点の野火止用水の上)

この辻は鎌倉へ18里、前橋へ18里の鎌倉街道の中間点。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の9本の道が分岐していた。(裏面の説明文)

『鎌倉街道Ⅲ実地調査 史跡編』(蜂矢敬啓著)によると、南北に鎌倉道←→奥州道、東西に江戸道←→秩父道、野火止用水に沿って中神へ向う大山道←→清戸・引股道、西北の宮寺・飯能へ向う道。東南・西南へ向う野道を御窪道(字窪への道)と呼んだそうだ。東西が現在の江戸街道、大山道、清戸道・引股道が野火止通りだろう。

Img_4606野火止用水

Img_4601説明板

東村山市に入り、西武多摩湖線をくぐる。

Img_4612八坂延命地蔵尊 《地図

昭和32年9月に西武多摩湖線のガード下で車にはねられ命を落とした小学2年生の男の子の菩提を弔う地蔵尊。

Img_4619八坂神社

Img_4617由緒

Img_4622野口橋から空堀川上流方向

正面は西武国分寺線

Img_4628境塚(平和塔公園内) 《地図

このあたりは広い秣場(まぐさば)だったが、江戸幕府は武蔵野原の新田開発を進めた。延宝・元禄年間(1673~1703)には、入会地の開墾をめぐって幕藩領主と自立農民との対立も起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られたり、その後村々にはこのような境塚が造られたといわれる。

Img_4625説明板

浅間塚 「あちら側・・・」とはどっちなのか分からず。

Img_4627平和の女神塔(昭和26年・境塚の上)

西武新宿線の踏切を渡り、東村山駅を過ぎて行く。

Img_4629左に旧道に入る。《地図

Img_4632旧家の前に「旧蹟鎌倉古道跡」標柱

Img_4636久米川少年野球場に「鎌倉古街道」説明板

Img_4637説明板

Img_4638白山神社

Img_4641立川家長屋門 《地図

ここを左折して西武新宿線の踏切を渡る。

Img_4644徳蔵院

右が板碑保存館

Img_4647_2元弘の板碑(元弘3年(1333))

Img_4651説明板①

Img_4652説明板②

元弘の板碑の立っていた八国山緑地の将軍塚・久米川古戦場跡・勢揃橋・悲田処跡公園・長久寺・天王坂などは、『所沢市の坂②』に記載。

Img_4662公事道(くうじみち)北バス停 《地図

久米川の公事所(税務署や裁判所を兼ねた役所)に通じていた道だそうだ。鎌倉街道(上の道③)のつきみ野駅(大和市)近くにも「公所」(ぐぞ)という地名が残っている。
このあたりが久米川宿跡のようだが、むろん宿場風情の名残りなどない。

Img_4670二瀬橋で北川(左)が柳瀬川に合流する。

Img_4674国際航空専門学校の手前で旧道は左へ入る。《地図

Img_4675庚申塔(文政元年(1818))

「武州入間郡久米邑 講中四十八人」の建立。道標を兼ねていると思ったが、そうではなかった。

勢揃橋北交差点を過ぎて行く。

Img_4683豊川稲荷神社

隣の長久寺沿いの天王坂を上って西武池袋線の踏切を渡って行く。

Img_4691右に入って南小学校沿いを通り、駒形交差点までとし右に所沢駅に向かった。《地図

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2015年10月 1日 (木)

新六阿弥陀を巡る

2015年9月21日

武里駅(東武伊勢崎線)・・・稲荷神社・・・武里橋(会之堀川)・・・備後第一公園・・・備後交差点(日光街道)・・・称名寺・・・会の川・天草病院・・・林西寺(四番)・・・武里駅入口交差点・・・県道86号・・・安国寺(五番)・・・大泊香取神社・・・大泊観音堂・・・大泊交差点(国道4号)・・・船渡香取神社・・・無量院・・・香取神社・・・清浄院(六番)・・・新方小学校・・・墓守堂・・・古利根川右岸沿い・・・大吉香取大神宮・・・古利根堰公園・・・新方橋(葛西用水・逆川)・・・新方橋南交差点・・・林泉寺(二番)・・・鷹匠橋(新方川)・・・花田苑・こしがや能楽堂・・・天嶽寺(一番)・・宮前橋(元荒川)・・・新橋(葛西用水)・・・観音堂・・・旧日光街道・・・昭蓮院・・・(JR武蔵野線)・・・十九夜塔道標・・・報土院(三番)・・・蒲生駅(東武伊勢崎線)

 春秋の彼岸に盛んに行われた「江戸六阿弥陀詣」をまねて、船渡村(現越谷市)の受道によって天明8年(1788)に始められた新六阿弥陀を巡る。
 昨年、江戸六阿弥陀を回ったのは7月下旬と8月半ばの夏の盛りで2日間かかったが、今回は江戸時代と同じ秋の彼岸の日に巡る。暑さもだいぶ和らいで来たので、1日で6寺を巡拝する。

  参考:『越谷・六阿弥陀めぐり

  【ル-ト地図

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Img_3804稲荷神社 《地図

Img_3809武里橋から会之堀川上流方向 《地図

東武伊勢崎線が渡って行く。下流は「せんげん台駅」の北東の戸井橋で新方川に合流する。

備後交差点で日光街道を横切る。《地図

Img_3816彼岸花に囲まれた地蔵などの石造物(天草病院前)

Img_3821四番林西寺 《地図

「白龍山月照院と号し、成阿等海和尚(覚蓮社成和上人)による嘉暦年間(1326~29)の開山と伝えられています。当初は大善寺と称していました。寺伝によると、当寺は浄土宗鎮西流六派の随一をほこり、藤田持阿の嫡流とされていました。
 その後、増上寺第12世源譽存応の弟子であった大善寺第9世然譽呑竜上人の代に、藤田派から白旗派に転じ、寺号も大善寺から林西寺と改められました」(『越谷市内の寺院』より)

Img_3825新六阿弥陀標石(天明8年(1788))

山門を入った左側の石造物が並ぶ真ん中あたりにある。「新六阿彌陀四番」、右下に「林西寺」、左下に「願主船渡村受道」だが見えない。

Img_3820説明板

中興の祖といわれる呑龍上人の墓もある。

林西寺を出て、旧日光街道の東側の道を南下する。

Img_3828庚申塔(中・正徳?年)・石橋建立供養塔(左)・地蔵(右・延宝元年(1673))

武里駅入口交差点の手前の辻あたり。

Img_3842五番安国寺 《地図

熊谷次郎直実は蓮生坊を称し、故郷熊谷の地に草庵を結んで念仏につとめましたが、越谷市大泊の安國寺の寺伝にも、かつて熊谷蓮生坊がこの地で草庵を結び布教につとめたことが伝えられています。安國寺がこの草庵であったといわれ、本尊の阿弥陀如来は恵心僧都の作であり、蓮生坊が法然上人より譲られたもので、京都から笈に負って当地に安置されたものと伝えられています。
 その後、紀州国熊野大泊村安國寺の住職誓譽専故人が諸国行脚のときに当地を訪れ、当地が蓮生坊の故郷と知り、寺の荒廃をなげき、康安元年(1361)寺院を建立し、故郷大泊と同地名のもとに当寺を安國寺と称したといわれ、浄土宗大龍山東光院安國寺と称しています」(『越谷市内の寺院』より)

Img_3838新六阿弥陀五番標石(天明8年(1788))

本堂手前の左側

Img_3834説明板①

Img_3835説明板②

Img_3836説明板③

Img_3843大泊観音堂 《地図

Img_3848説明板

Img_3850縁日風景絵馬だろう。

Img_3852船渡地区を進む。

新六阿弥陀詣りを始めた受道の出身地だ。
船渡香取神社もある。『葛西用水⑤』に記載

Img_3863六番清浄院 《地図

「栄広山浄土寺と号し、嘉暦元年(1326)7月に還化した賢真上人の開山と伝えられています。
 古利根川の左岸は、中世末期までは下総国葛飾郡下川辺庄下方に属していました。この下川辺庄の勢力を持っていた大河戸氏の一族が、大河戸より分枝して左岸の大川戸より右岸へ移住し、この土地を開発して「新方」と呼び、新方氏を名乗るようになったと伝えられています。
 この頃に(新方氏がこの地へ移住して間もない頃、1320年代頃)草庵が草創され、観応年代(1350~53)に寺院が建立され、新方氏一族の僧侶賢眞上人が開山となり清浄院が創建されたものと伝えられています」(『越谷市内の寺院』より)
 賢真上人賢眞上人=開山か? 時代にズレがあるが。観応年代も1350~51まで。

Img_3859新六阿弥陀六番標石(天明8年(1788))

本堂の右側の寺事務所?の前にあり、見つけるのに苦労した。

Img_3858説明板①

Img_3860開山塚

Img_3861説明板

開山は賢真上人で前掲の『越谷市内の寺院』と同じだが、ここも時代が食い違っている。

新方小学校の前を通り、南に古利根川の方へ向かう。

Img_3868墓守堂前の分岐の青面金剛庚申塔(文化2年(1805))・普門品読経供養塔(文久元年(1861))など。 《地図

左に古利根川沿いを行く。

Img_3870古利根川(葛西用水)

葛西用水⑤』では対岸(左岸)を歩き、古利根堰の先で寿橋を渡った。

Img_3872大吉香取神社 《地図

もとは下流の古利根堰公園のあたりにあったようだ。

Img_3873古利根堰を見ながら新方橋(葛西用水・逆川)を渡り、新方橋南交差点を左折して行く。

Img_3878二番林泉寺 《地図

「浄土宗正林山徳泉院林泉寺は、当寺に伝わる性誉上人が書かれた明和2年(1765)の「日牌帳」によると、林泉寺の開基は貞和2年(1346)と記載されています。永仁5年(1297)に開創され、開山僧は誓蓮社本譽上人(1487年寂)と伝えられています。本堂は昭和45年3月に取壊新築されています。
 林泉寺の付近に、徳川家康が設営した「御茶屋御殿」があったことから、境内には家康にまつわる遺跡があります」(『越谷市内の寺院』より)

Img_3879新六阿弥陀二番標石(天明8年(1788)・山門前の左側)

右下の「林泉寺」、左下の「願主船渡村受道」がはっきり見える。
「新六阿弥陀」札所の御詠歌が刻まれた扁額が残るそうだ。参照:『越谷・六阿弥陀めぐり』の10頁

Img_3889説明板

Img_3891駒止めのマキ(右)

徳川家康が馬の手綱を結んだという木。

Img_3887説明板

Img_3893井戸跡

これも家康ゆかりの井戸跡。

Img_3895田んぼ間の道を天嶽寺へ向かう。

正面の塔は新方川沿いのREUSE(東埼玉資源環境組合工場)

Img_3898新方川下流方向(鷹匠橋から) 《地図

左前方がREUSE(東埼玉資源環境組合工場)

Img_3911花田苑の「こしがや能楽堂」 《地図

Img_3906廻遊式池泉の日本庭園

今日は「敬老の日」で入場無料だった。(普段は100円) てっきり秋分の日と思っていた。日本国中、年寄だらけになる日も近い。いずれ「敬老」の日もなくなるだろう。

Img_3912長屋門(花田苑の出入口)

江戸時代に名主を務めた宇田家長屋門(復元)

元荒川に出て右に、天嶽寺に参る。

Img_3915一番天嶽寺山門(黒門) 《地図

新六阿弥陀標石は見当たらず。山門をくぐった左側の石造物が集められた中にでも混じっているかも。
この寺と周辺は、『日光街道(越谷宿→粕壁宿)』に記載。
当山四代住職が正親町天皇の第三皇子であったところから、門の屋根に菊の紋章の鉄鋲が施されているそうだ。

Img_3917楼門(赤門)

家康より寺領高15石が寄進された時に許されて建立されたと伝えられてる。

宮前橋(元荒川)、新橋(葛西用水)を渡り、観音堂前から旧日光街道に出る。

Img_3937黒板塀の有瀧家「タブの木の家」 《地図

旧日光街道を渡った所。この道は赤山街道の越谷道の道筋だ。

旧日光街道をひたすら南下する。

Img_3944JR武蔵野線をくぐって行く。

Img_3945三番報土院 《地図

新六阿弥陀標石は見当たらず。

Img_3949本堂

Img_3947扁額(本堂の屋根下)

「東京西ヶ原寫」とは、江戸六阿弥陀の第三番無量寺のこと。
この扁額については『越谷・六阿弥陀めぐり』の11頁を参照。

以上で新六阿弥陀巡りを終えた。距離的には江戸六阿弥陀よりも短いだろう。

明治41年から始まったという「(中川)両岸六阿弥陀」(中川の右岸と左岸に各6ヶ寺、計12寺)もあるのだが、左岸(東岸)の宗眼寺(?番・吉川市)、観音寺(?番・吉川市)、西善院(?番・東岸木おさめ霊場・三郷市)と、右岸(西岸)の常然寺(五番・八潮市)しか分かっていない。ご存じの方、情報をお持ちの方は教えてください。

m様から、右岸の六阿弥陀についての情報をいただきました。(下記のコメント)
近いうちに巡ってみたいと思います。 

中川両岸新六阿弥陀(右岸)』・『中川両岸新六阿弥陀(左岸)』(吉川道)で巡りました。

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