新六阿弥陀を巡る
2015年9月21日
武里駅(東武伊勢崎線)・・・稲荷神社・・・武里橋(会之堀川)・・・備後第一公園・・・備後交差点(日光街道)・・・称名寺・・・会の川・天草病院・・・林西寺(四番)・・・武里駅入口交差点・・・県道86号・・・安国寺(五番)・・・大泊香取神社・・・大泊観音堂・・・大泊交差点(国道4号)・・・船渡香取神社・・・無量院・・・香取神社・・・清浄院(六番)・・・新方小学校・・・墓守堂・・・古利根川右岸沿い・・・大吉香取大神宮・・・古利根堰公園・・・新方橋(葛西用水・逆川)・・・新方橋南交差点・・・林泉寺(二番)・・・鷹匠橋(新方川)・・・花田苑・こしがや能楽堂・・・天嶽寺(一番)・・宮前橋(元荒川)・・・新橋(葛西用水)・・・観音堂・・・旧日光街道・・・昭蓮院・・・(JR武蔵野線)・・・十九夜塔道標・・・報土院(三番)・・・蒲生駅(東武伊勢崎線)
春秋の彼岸に盛んに行われた「江戸六阿弥陀詣」をまねて、船渡村(現越谷市)の受道によって天明8年(1788)に始められた新六阿弥陀を巡る。
昨年、江戸六阿弥陀を回ったのは7月下旬と8月半ばの夏の盛りで2日間かかったが、今回は江戸時代と同じ秋の彼岸の日に巡る。暑さもだいぶ和らいで来たので、1日で6寺を巡拝する。
*参考:『越谷・六阿弥陀めぐり』
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
稲荷神社 《地図》
武里橋から会之堀川上流方向 《地図》
東武伊勢崎線が渡って行く。下流は「せんげん台駅」の北東の戸井橋で新方川に合流する。
四番林西寺 《地図》
「白龍山月照院と号し、成阿等海和尚(覚蓮社成和上人)による嘉暦年間(1326~29)の開山と伝えられています。当初は大善寺と称していました。寺伝によると、当寺は浄土宗鎮西流六派の随一をほこり、藤田持阿の嫡流とされていました。
その後、増上寺第12世源譽存応の弟子であった大善寺第9世然譽呑竜上人の代に、藤田派から白旗派に転じ、寺号も大善寺から林西寺と改められました」(『越谷市内の寺院』より)
山門を入った左側の石造物が並ぶ真ん中あたりにある。「新六阿彌陀四番」、右下に「林西寺」、左下に「願主船渡村受道」だが見えない。
中興の祖といわれる呑龍上人の墓もある。
林西寺を出て、旧日光街道の東側の道を南下する。
庚申塔(中・正徳?年)・石橋建立供養塔(左)・地蔵(右・延宝元年(1673))
武里駅入口交差点の手前の辻あたり。
五番安国寺 《地図》
「熊谷次郎直実は蓮生坊を称し、故郷熊谷の地に草庵を結んで念仏につとめましたが、越谷市大泊の安國寺の寺伝にも、かつて熊谷蓮生坊がこの地で草庵を結び布教につとめたことが伝えられています。安國寺がこの草庵であったといわれ、本尊の阿弥陀如来は恵心僧都の作であり、蓮生坊が法然上人より譲られたもので、京都から笈に負って当地に安置されたものと伝えられています。
その後、紀州国熊野大泊村安國寺の住職誓譽専故人が諸国行脚のときに当地を訪れ、当地が蓮生坊の故郷と知り、寺の荒廃をなげき、康安元年(1361)寺院を建立し、故郷大泊と同地名のもとに当寺を安國寺と称したといわれ、浄土宗大龍山東光院安國寺と称しています」(『越谷市内の寺院』より)
本堂手前の左側
大泊観音堂 《地図》
新六阿弥陀詣りを始めた受道の出身地だ。
船渡香取神社もある。『葛西用水⑤』に記載
六番清浄院 《地図》
「栄広山浄土寺と号し、嘉暦元年(1326)7月に還化した賢真上人の開山と伝えられています。
古利根川の左岸は、中世末期までは下総国葛飾郡下川辺庄下方に属していました。この下川辺庄の勢力を持っていた大河戸氏の一族が、大河戸より分枝して左岸の大川戸より右岸へ移住し、この土地を開発して「新方」と呼び、新方氏を名乗るようになったと伝えられています。
この頃に(新方氏がこの地へ移住して間もない頃、1320年代頃)草庵が草創され、観応年代(1350~53)に寺院が建立され、新方氏一族の僧侶賢眞上人が開山となり清浄院が創建されたものと伝えられています」(『越谷市内の寺院』より)
賢真上人=賢眞上人=開山か? 時代にズレがあるが。観応年代も1350~51まで。
本堂の右側の寺事務所?の前にあり、見つけるのに苦労した。
開山は賢真上人で前掲の『越谷市内の寺院』と同じだが、ここも時代が食い違っている。
新方小学校の前を通り、南に古利根川の方へ向かう。
墓守堂前の分岐の青面金剛庚申塔(文化2年(1805))・普門品読経供養塔(文久元年(1861))など。 《地図》
左に古利根川沿いを行く。
『葛西用水⑤』では対岸(左岸)を歩き、古利根堰の先で寿橋を渡った。
もとは下流の古利根堰公園のあたりにあったようだ。
古利根堰を見ながら新方橋(葛西用水・逆川)を渡り、新方橋南交差点を左折して行く。
二番林泉寺 《地図》
「浄土宗正林山徳泉院林泉寺は、当寺に伝わる性誉上人が書かれた明和2年(1765)の「日牌帳」によると、林泉寺の開基は貞和2年(1346)と記載されています。永仁5年(1297)に開創され、開山僧は誓蓮社本譽上人(1487年寂)と伝えられています。本堂は昭和45年3月に取壊新築されています。
林泉寺の付近に、徳川家康が設営した「御茶屋御殿」があったことから、境内には家康にまつわる遺跡があります」(『越谷市内の寺院』より)
右下の「林泉寺」、左下の「願主船渡村受道」がはっきり見える。
「新六阿弥陀」札所の御詠歌が刻まれた扁額が残るそうだ。参照:『越谷・六阿弥陀めぐり』の10頁
徳川家康が馬の手綱を結んだという木。
これも家康ゆかりの井戸跡。
正面の塔は新方川沿いのREUSE(東埼玉資源環境組合工場)
左前方がREUSE(東埼玉資源環境組合工場)
今日は「敬老の日」で入場無料だった。(普段は100円) てっきり秋分の日と思っていた。日本国中、年寄だらけになる日も近い。いずれ「敬老」の日もなくなるだろう。
江戸時代に名主を務めた宇田家長屋門(復元)
元荒川に出て右に、天嶽寺に参る。
新六阿弥陀標石は見当たらず。山門をくぐった左側の石造物が集められた中にでも混じっているかも。
この寺と周辺は、『日光街道(越谷宿→粕壁宿)』に記載。
当山四代住職が正親町天皇の第三皇子であったところから、門の屋根に菊の紋章の鉄鋲が施されているそうだ。
家康より寺領高15石が寄進された時に許されて建立されたと伝えられてる。
宮前橋(元荒川)、新橋(葛西用水)を渡り、観音堂前から旧日光街道に出る。
黒板塀の有瀧家「タブの木の家」 《地図》
旧日光街道を渡った所。この道は赤山街道の越谷道の道筋だ。
旧日光街道をひたすら南下する。
新六阿弥陀標石は見当たらず。
「東京西ヶ原寫」とは、江戸六阿弥陀の第三番無量寺のこと。
*この扁額については『越谷・六阿弥陀めぐり』の11頁を参照。
以上で新六阿弥陀巡りを終えた。距離的には江戸六阿弥陀よりも短いだろう。
*明治41年から始まったという「(中川)両岸六阿弥陀」(中川の右岸と左岸に各6ヶ寺、計12寺)もあるのだが、左岸(東岸)の宗眼寺(?番・吉川市)、観音寺(?番・吉川市)、西善院(?番・東岸木おさめ霊場・三郷市)と、右岸(西岸)の常然寺(五番・八潮市)しか分かっていない。ご存じの方、情報をお持ちの方は教えてください。
*m様から、右岸の六阿弥陀についての情報をいただきました。(下記のコメント)
近いうちに巡ってみたいと思います。
『中川両岸新六阿弥陀(右岸)』・『中川両岸新六阿弥陀(左岸)』(吉川道)で巡りました。
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コメント
貴重な情報をありがとうございます。
早速「八潮市史」を調べて、近いうちに巡ってみたいと思います。その時はブログで報告しますので、今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: m様へ(坂道散歩) | 2015年10月23日 (金) 09:11
「街道を歩く」を参考に日帰り歩きを楽しませていただいています。 中川両岸六阿弥陀の件ですが右岸について「八潮市史・民族編」P763に掲載されています。
春彼岸→八潮市内(入谷 阿弥陀堂)→(和耕 大経寺)→(鶴ケ曽根 宝幢寺)→(下二丁目 西連寺)→(南川崎 專称寺)→(垳 常念(然)寺)←秋彼岸 先導 三郷(香岩寺(大経寺末寺)) 他のページに写真が掲載されています。
投稿: m | 2015年10月22日 (木) 20:36