鎌倉街道(上の道⑤)
2015年10月15日
西国分寺駅(JR武蔵野線)・・・阿弥陀坂・・阿弥陀堂跡(阿弥陀堂霊園)・・・姿見の池・・・東福寺・・・恋ヶ窪閻魔堂霊園・・熊野神社・・恋ヶ窪村用水・・・(西武国分寺線)・・・府中街道・・・恋ヶ窪交差点・厳島弁財天・・・(小平市)・・上水本町交差点・五日市街道・・・(JR武蔵野線)・・鎌倉街道・・・上鈴木稲荷神社・・砂川用水(二つ塚緑道)・・・鎌倉橋(玉川上水)・(新堀用水)・・・(武蔵野線)・・・(たかの街道)・・・鎌倉街道交差点(青梅街道)・・・六小通り・・・BS中央通り・・・府中街道・・・(西武拝島線)・・・迷いの桜・九道の辻(八坂交差点)・野火止用水・(東村山市)・・(西武多摩湖線)・・八坂延命地蔵尊・・・八坂神社・・・野口橋(空堀川)・・・(新青梅街道)・・・平和塔公園・境塚・・(西武新宿線)・・・東村山駅(西武新宿線)・・・旧道・・旧蹟鎌倉古道跡標柱・・・久米川少年野球場・鎌倉古街道説明板・・・白山神社・・・立川家長屋門・・・(西武新宿線)・・・徳蔵寺(元弘の板碑)・・・公事道北バス停・・・二瀬橋(柳瀬川)・(所沢市)・・・庚申塔・・・勢揃橋北交差点・・・豊川稲荷神社・・長久寺・・天王坂・・・西武池袋線踏切・・・南小学校・・・駒形交差点・・・所沢駅(西武池袋線)
【ル-ト地図】
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阿弥陀堂跡(左の阿弥陀堂霊園) 《地図》
畠山重忠が遊女夙妻(あさづま)の菩提を弔った木造の阿弥陀如来像を本尊とする寺跡という。石段右は「阿弥陀堂霊園改造記念碑」。
このあたりの地名の恋ヶ窪や、傾城の墓・阿弥陀堂・一葉の松(傾城の松)などは、畠山重忠と夙妻の悲恋物語伝承に由来する。
『江戸名所図会』(左下端に阿弥陀堂、あみだ坂、その右方に、恋ヶ窪、姿見の池、その上方に東福寺、一番上が道興准后の歌) 『解説文』
恋ヶ窪の宿場の遊女たちが姿を映したという池。畠山重忠との仲を横恋慕した男の偽言で、重忠が討ち死したと思い込んだ遊女夙妻が身を投げた池という伝承もある。
石段下右に「傾城の墓由来碑」・「傾城の墓」(遊女夙妻の墓)・「一葉の松」(何代目?)が並ぶ。
「一葉松」は、夙妻の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松。 夙妻の一途な思いの現れともいう不思議な一本葉の松で、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになった。言い伝えの一葉松はすでに枯れてしまったが、、枝を植え継いだ松が数本植えられており、わずかではあるが一葉を見ることができるという。「江戸名所図会」の「傾城の松」のこと。
道興准后の歌碑
この地を訪れた文明18年(1486)には、恋ヶ窪の宿も荒れ果てて往時の面影はなかったようだ。
『廻国雑記』に、「此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、”朽ちはてぬ名のみ残れる恋か窪 今はたとふも 契りならずや”」とある。「此の関」は霞ノ関のこと。
恋ヶ窪村用水(右)沿いを北上する。《地図》
北方の玉川上水から分水し、姿見の池にも流れ込んでいた。
この先の西武国分寺線の線路で道は遮断される。
分岐地帯に厳島弁財天の新しい祠が立っている。ここは右の府中街道を進んだ。
国分寺市から小平市に入る。
右折して五日市街道を少し東へ進む。上鈴木稲荷神社・砂川用水(二つ塚緑道)などは『五日市街道②』に記載。
鎌倉橋(玉川上水)を渡る。
往時の街道は恋ヶ窪村用水から直線的に北上し、このあたりに通じていたのだろう。
すぐ北側を沿って流れる新堀用水
青梅街道との鎌倉街道交差点手前 【ル-ト地図】の14
右に鎌倉街道の説明板
この先のブリジストンの敷地で鎌倉街道の道筋は途切れる。府中街道を進むことになる。
迷いの桜(何代目かは不明。九道の辻の交番裏) 《地図》
9本もの道の交差地で、鎌倉攻めの新田義貞が道を間違えないようにと植えた桜という。ブリジストンの敷地内に消えた鎌倉街道はここへ通じていたのだろう。
九道の辻標柱(八坂交差点の野火止用水の上) 【ル-ト地図】の15
この辻は鎌倉へ18里、前橋へ18里の鎌倉街道の中間点。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の9本の道が分岐していた。(裏面の説明文)
『鎌倉街道Ⅲ実地調査 史跡編』(蜂矢敬啓著)によると、南北に鎌倉道←→奥州道、東西に江戸道←→秩父道、野火止用水に沿って中神へ向う大山道←→清戸・引股道、西北の宮寺・飯能へ向う道。東南・西南へ向う野道を御窪道(字窪への道)と呼んだそうだ。東西が現在の江戸街道、大山道、清戸道・引股道が野火止通りだろう。
東村山市に入り、西武多摩湖線をくぐる。
八坂延命地蔵尊 《地図》
昭和32年9月に西武多摩湖線のガード下で車にはねられ命を落とした小学2年生の男の子の菩提を弔う地蔵尊。
野口橋から空堀川上流方向
正面は西武国分寺線
境塚(平和塔公園内) 《地図》
このあたりは広い秣場(まぐさば)だったが、江戸幕府は武蔵野原の新田開発を進めた。延宝・元禄年間(1673~1703)には、入会地の開墾をめぐって幕藩領主と自立農民との対立も起こり、延宝8年(1680)には「境目絵図」が作られたり、その後村々にはこのような境塚が造られたといわれる。
浅間塚 「あちら側・・・」とはどっちなのか分からず。
西武新宿線の踏切を渡り、東村山駅を過ぎて志木街道と合流し、すぐに分かれて行く。
立川家長屋門 《地図》
ここを左折して西武新宿線の踏切を渡る。
徳蔵寺 【ル-ト地図】の18
右が板碑保存館
元弘の板碑の立っていた八国山緑地の将軍塚・久米川古戦場跡・勢揃橋・悲田処跡公園・長久寺・天王坂などは、『所沢市の坂②』に記載。
公事道(くうじみち)北バス停 《地図》
久米川の公事所(税務署や裁判所を兼ねた役所)に通じていた道だそうだ。鎌倉街道(上の道③)のつきみ野駅(大和市)近くにも「公所」(ぐぞ)という地名が残っている。
このあたりが久米川宿跡のようだが、むろん宿場風情の名残りなどない。
二瀬橋で北川(左)が柳瀬川に合流する。
国際航空専門学校の手前で旧道は左へ入る。《地図》
「武州入間郡久米邑 講中四十八人」の建立。道標を兼ねていると思ったが、そうではなかった。
勢揃橋北交差点を過ぎて行く。
隣の長久寺沿いの天王坂を上って西武池袋線の踏切を渡って行く。
右に入って南小学校沿いを通り、駒形交差点までとし右に所沢駅に向かった。《地図》
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