岡崎街道②
2016年2月6日
原駅(地下鉄鶴舞線)・・・平針西口交差点・地蔵道標・旧道・・(名古屋第二環状道)・・御嶽神社・・平針宿本陣跡(平針公民館)・・秀傳寺・・飯田街道分岐地点・・・慈眼寺・・・針名神社・・・荒池・・・モチロ橋(繁盛川)・(日進市)・・・東海健康センター・・・(東郷町)・・・山神神社・・玉松山大師堂・・・(涼松緑道(愛知用水))・・・一里塚バス停・祐福寺一里塚跡・・・真菰池・・・大悟寺・・法性寺・・祐福寺・・・境川橋(境川)・(みよし市)・・・大池・・・洗心滝不動・御嶽大神社・大師堂・・・八幡川(茶屋川)・・・松葉池・・(豊田市)・・・八幡社・・・逢妻女川橋(逢妻女川)・・・若林阿弥陀堂・・・浄照寺・・八幡宮・・宮前橋(逢妻男川)・・・(名鉄三河線)・・・(伊勢湾岸自動車道)・・・(明治用水緑道)・・川井田橋(猿渡川)・・・馬頭観音祠・・・神明社・・・豊田安城自転車道(明治用水)・・・常夜灯・・不動明王堂(大師堂)・・・宇頭町交差点・東海道合流地点・・・宇頭駅(名鉄名古屋本線)
【ル-ト地図】(原駅(15km)→宇頭駅(42km))
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平針西口交差点から旧道に入り、平針宿へと進む。《地図》
宿場の名残りの風情はない。左は御嶽神社、「四国西国秩父坂東霊場順拝供養塔」も立っている。
平針公民館の所が本陣跡というが、何の標示もない。 《地図》
脇本陣、問屋もあったというが今では場所も不明らしい。
飯田街道分岐地点 《地図》
飯田街道は左折、岡崎街道は直進。昭和の初め頃までは一里塚跡が残っていたという。
慶長17年(1612)に徳川家康の命により再建されたという。
小高い秋葉山の慈眼寺と針名神社に寄る。
織田信長が桶狭間の戦いの勝利を祈願した寺という。
もとは約800m北、天白川左岸の元郷に祀られていたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在地に遷社したという。
天白区(名古屋市)と日進市の境あたりの県道56号を進む。
「モチロ」という地名だが、由来は分からず。モチ口(ぐち)ではないのは、モチロン。
西白土交差点から東郷町に入る。
山神神社 《地図》
「磨砂採掘地跡」の標柱が立つ。ここ「白土」地区は地名の由来の磨砂の産出と共に発展してきたそうだ。
愛知用水の上の緑道公園。街道沿いには黒松が繁茂し、旅人の休息所になっていたという。
平針街道=岡崎街道
祐福寺一里塚(南塚)(一里塚バス停そば) 《地図》
今はエノキだが、もとは松が植えられていた。
勅使門と山門(鐘楼・仁王門)
祐福寺交差点の南角に太子寺があるはずだが見当たらない。もう少し南側だったようだ。
境川橋(境川)を渡って、みよし市に入る。徳島県に三好市があるため、「みよし」市になったそうだ。
遮断機のように傾いた松と幟の道を上って洗心滝不動明王、大師堂へ向かう。
期待ハズレ?、いや思った通りで水も流れていない。でも石像の不動明王は立っている。
大師堂 《地図》
ここは御嶽教明知教会の敷地内
松葉池の先で豊田市に入る。
八幡社 《地図》
《地図》に「御茶屋」という地名がある。ここには堤宿があったのだが、平針宿と同様に宿場の面影はなかった。
逢妻女川(逢妻女川橋から) 《地図》
下流で逢妻男川と合流して逢妻川となる。川名の由来は、「からころもきつつなれにし妻」の在原業平伝説からだろうか?
在原業平の「八橋伝説地」は、『東海道(藤川宿→岡崎宿→知立宿)』に記載。
地蔵の前掛けをめくって写真を撮ったのだが、ぼやけてしまって「右・・・・」、「左・・・・」しか分からず。
若林阿弥陀堂 《地図》
2005年に本堂・庫裡・書院が国の有形文化財に登録された。
宮前橋(逢妻男川)を渡り、名鉄三河線を過ぎ、南下して伊勢湾岸自動車道をくぐる。
明治用水緑道西井筋線 《地図》
矢作川から水を引いている明治用水の上の遊歩道。
土曜日で父娘でサイクリング。今日はどこまで行ったやら。下を流れる明治用水の水音が心地よい。
岡崎街道は豊田市と安城市の境を南下して行く。
軒下に「不動明王」の扁額を掲げるが、堂内は弘法大師堂になっている。
縄手道をひたすら南下して、宇頭町交差点の手前で岡崎市に入る。
東海道(国道1号)を左(東)に行けば矢作橋(矢作川)を渡って、岡崎城へ出る。
ここを岡崎街道歩きの終点とし、直進して宇頭駅に向かった。
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