稲置街道(犬山街道)①
2016年2月7日
鵜沼宿駅(名鉄各務ヶ原駅)・・・鵜沼宿(中山道)・・大安寺橋(大安寺川)・稲置街道起点・・・(国道21号)・・・鵜沼道踏切(JR高山線・名鉄各務ヶ原線)・・・八坂神社・・・ライン大橋(木曽川)・・(愛知県)・・犬山城下(犬山神社・三光稲荷神社・針綱稲荷神社・犬山城・公園坂・有楽苑・瓦坂・余坂天神社・奥村家住宅・余坂口木戸跡・愛宕神社(木ノ下城跡)・薬師寺・薬師口木戸跡・堀部家住宅)・・稲置街道・・祥雲禅寺・・先聖寺・・徳授禅寺・・秋葉大社・・岩倉街道合流地点・・・(名鉄犬山線踏切)・・・津島神社・・・万願寺交差点・県道27号・・・(国道41号)・・・八龍宮道標・・・史蹟五郎丸初生地・・・(合瀬川)・・・大橋(半ノ木川)・・・磨墨塚史跡公園・・・羽黒城址・・興禅寺・・・(羽黒駅)・・・堀田弘法堂・・・堀田橋(五条川)・・・野呂塚・・(名鉄小牧線)・・八幡林古戦場跡・羽黒八幡神社・・・県道27号・・・旧道・・・御嶽神社・・・御日塚神社・・・チャペル犬山・楽田の追分(木曽街道(上街道)合流地点)・・・(県道27号)・・・楽田城北之門旧跡・・・小西寺・・・馬頭山観音寺・・・島社天神社・県道27号・・・(小牧市)・・・田縣神社・・・(尾張広域緑道)・・・観音堂橋(新木津川用水・原川)・年貢橋跡・・・観音寺・熊野社・岩崎山砦跡・・・味岡駅(名鉄小牧線)
名古屋城下と犬山城下を結んだ稲置街道(犬山街道)を行く。「稲置」の由来は、犬山を「稲置(木)村」といったことによる。名古屋から楽田の追分までは、木曽街道(上街道)と重なって行く。
犬山城下からは北へ木曽川を渡り、中山道鵜沼宿へと通じていた。今回は鵜沼宿を起点とし南に向かい、名古屋城下の札の辻を終点として2日で歩く。好天で見所も多く楽しい街道歩きになるだろう。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
鵜沼宿駅から案内図のとおり中山道鵜沼宿に向かう。
以前訪れた時以上によく整備されている。
大安寺橋から中山道から分かれ、右(南)へ大安寺川沿いを行く。
左は、一服茶屋花の木の「宇留摩庵」 《地図》
昔の宿場風情の残るここを稲置街道歩きの起点とした。
国道21号(現中山道)をくぐり、JR高山線・名鉄各務ヶ原線の踏切を渡る。
木曽川は少し上流の内田の渡し(鵜沼の渡し)で渡っていた。(後述)
ライン大橋を渡って愛知県に入り、犬山城下に向かう。
濃尾平野を潤す宮田・木津(左岸)及び羽島(右岸)の三用水を合口した犬山頭首工の施設だ。
晴天の日曜で観光客も多い犬山城下に入る。
犬山神社 《地図》
急で滑りやすい木の階段を上り天守に出る。風が強く写真を撮るのに苦労した。
正面は伊木山(いぎやま・「夕暮れ富士」・173m)で、山頂付近に伊木山城跡がある。
ツインブリッジ犬山橋・雪を被った御嶽山(左後方・3067m)
犬山橋の所が「内田の渡し跡」(鵜沼の渡し)で、犬山側に常夜灯が立っている。
小牧山城跡方向
正面遠方の少し高くなっている所?
中央の山並みのさらに左方が金華山の岐阜城だが、写真には写らず。
公園坂を公園橋(郷瀬川)へ下り、有楽苑に向かう。 《地図》
有楽苑(うらくえん)
苑内に織田信長の実弟の織田有楽斎の建てた茶室の如庵(じょあん・国宝)がある。元は京都にあったものを当地に移築した。
入苑料千円で、千円分散策する時間の余裕も、数寄者でもないので、隙間から写真を取っただけで立ち去った。
瓦坂橋から瓦坂を上る。《地図》
坂上のカフェの名は何故か「さくら坂」だ。
余坂天神社 《地図》
ここは余坂口木戸の外側になる。
右が奥村家住宅で、天保13年(1842)の「犬山の大火」後ほどなくの再建と伝える。天正10年(1582)、武田勝頼討伐に向かう織田信長が、ここに立ち寄り水を飲んだという「銀明水の井戸」がある。
鵜沼宿から一里ということか? 『稲置街道散策まっぷ』は、「(奥村)邸の前の通りは旧中山道」としているが。邸内では「フレンチ創作料理」をやっているが、むろんここもパスした。
余坂口木戸跡あたり 《地図》
ここから内側(西側)が城下町
社殿左の大クスノキの根元に城の井戸という「金明水」がある。
「神社の西南方約100mの、大榎の下にある銀明水」と記すが、銀明水は2つあるのか?
本尊の木造薬師如来坐像は国の重文。
薬師口木戸跡あたり 《地図》
ここも枡形が残っている。
堀部家住宅(木之下城伝承館) 《地図》
冬季休業中
稲置街道に戻る。
稲置街道の家並み 《地図》
本堂の赤屋根が目立つ。普茶料理(精進料理の一種)が食べられるようだ。
犬山城下南端の火防の神だろう。ライン大橋を渡ってここまで城下散策に2時間半以上を費やした。
右から岩倉街道が合流する。
右は料理・仕出しの羽黒屋
岩倉方向 《地図》
名鉄犬山線踏切を渡って行く。
津島神社 《地図》
万願寺交差点で県道27号に出る。
このあたりは五郎丸という地名だ。由来については、人名、船の名など諸説あるようだ。丸は曲輪で五郎という豪族の屋敷があったという説にひかれるが。NHK大河ドラマ「真田丸」も進行中だ。
「こどもの神様 八龍宮 是ヨリ西二丁」とあるから、ここから近いのだろうが地図には見当たらない。
初生地だから「五郎丸」という人名か?それとも初生とは人とは限らないか?
ちなみに今を時めく五郎丸は福岡市の出身。
名馬磨墨は馬込村(東京都大田区)の産で、後に馬込村に戻って来て死んだという伝承もあり、大田区には磨墨ゆかりの「鐙坂」・「磨墨塚」もある。『大田区の坂①』に記載。
宇治川の合戦で磨墨と先陣争いをした「名馬池月」の碑と馬頭観音観音堂は横須賀市にある。『横須賀市の坂⑨』に記載。
「名馬磨墨塚」碑(中)・「隅之方の墓」(左)・名馬磨墨像?(右)
隅之方は梶原景高(景時の次男)の一子、豊丸の乳母で磨墨を伴って豊丸を守り、この地に落ち延びて来たという。
豊丸(後の梶原景親)が築いた城。興禅寺の北側に土塁跡が残る。
ここも梶原氏ゆかりの寺。「興禅寺のヨノキ(ムク)」と椿桜か?
「入鹿切れ」で「羽黒桜海道」(地名・ここから南東1.5kmほど)まで流されて来た大岩
入鹿池は香川県の満農池と一二を争う規模の溜め池 《地図》
名鉄小牧線の東側に出る。
堀田弘法堂 《地図》
野呂塚 《地図》
小牧・長久手の戦の緒戦の羽黒八幡林の戦で討ち死にした秀吉方の森長可(森蘭丸の兄)の家臣の野呂助左衛門・助三父子の供養塔。
八幡林古戦場跡
県道に戻り、蝉屋交差点の手前で左に旧道に入る。
右は覚明行者石像
慶長3年(1598)の創建で、祭神は保食神(うけもちのかみ)
楽田(がくでん)の追分 《地図》
木曽街道(上街道)との合流・分岐地点。ここからは「上街道」か「木曽街道」と表示されている所が多い。
右の木曽街道を少し進んだ所にも石造物が並んでいる一画がある。
「追分交番所址」・「右 きそみち 左 犬山みち」のほか、「右善光寺道 左三光神社」・「尾張富士道 従是二十丁」・「黒平山秋葉道」などがあるらしいが、邪魔そうで窮屈に押し込まれている。
東方の楽田小学校が楽田城跡という。左は覚明行者像だろう。道路の向い側には神明社や津島社の祠がある。
馬頭山観音寺 《地図》
元禄年間(1688~1703)の創建で、平手政秀の護持仏と伝う馬頭観音が本尊。
県道沿いで車で来る参拝者が多い。
尾張広域緑道を横切る。
年貢橋(清正橋)跡 《地図》
川沿いの北の本田公園に組み立てられて保存されているがフェンスに囲まれ近づけない。
市道拡幅工事の際に発掘された名古屋城築城の残石の石垣。
マリア像は分からなかった。
小牧十観音の第二番札所
正面遠方は小牧山城跡の小牧山だろうか。
岩崎山山頂(54.9m)の境内が小牧・長久手の戦での秀吉方の岩崎山砦跡。南方の小牧山城と対峙した。右は五枚岩で、古来、弘法大師修法の護摩岩と呼ばれ、それが転じて五枚岩となったとも伝える。
だいぶ陽も傾いてきた中を味岡駅に向かった。
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