鎌倉街道(上の道⑧)
2016年3月22日
西大家駅(東武越生線)・・・森戸神社・・・馬頭観音・・・森戸橋(高麗川)・・・馬頭観音・・・旧道・・・(毛呂山町)・・・市場神社・・・県道・・・地蔵・(葛川)・・・旧道・・・鎌倉街道遺跡標柱・・・育心会・・・(県道39号)・・・川角古墳群・・・崇徳寺跡・・・延慶の板碑・・・大薬寺跡・・・大類グラウンド・堂山下遺跡・・・(越辺川)・・・(鳩山町)・・・今宿交差点・(内川)・県道171号・・・旧道・・・赤沼供養塔・・・馬頭観音・聖徳皇太子碑・・・稲荷社・・・池ノ島沼・・・鳩山中学校・鎌倉街道説明板・・・東海道橋(鳩川)・・・大橋(泉井川)・・・新橋(大橋川)・・・鎌倉街道説明板・・・笛吹通り・・・羽黒堂・・・海道端沼・・・笛吹峠・(嵐山町)・・・(『笛吹峠・物見山・岩殿観音』に記載)・・・川越児玉往還合流地点・・・武蔵嵐山駅(東武東上線)
【ル-ト地図】
ここは大屋城跡というが詳細は不明。室町地代の城とか、小田原北条氏の築城ともいわれているようだ。
東京国際大学グラウンド沿いを進み、森戸橋(高麗川)を渡る。
左の旧道を進む。《地図》
坂戸市から毛呂山町に入る。
県道を進み、土手に地蔵が立つ葛川を渡る。
右に斜めに入る。《地図》
「右折 40 ゆず香る歴史の道元気ルート」の標識、向う側には、「鎌倉街道 歴史民俗資料館」の標識。
南方向を見ている。もとの街道は先ほどの二又の旧道からここにつながっていたのだろう。
直径10mから15mほどの38基の円墳群
『苦林野(にがばやしの)合戦』で焼失したという伝承がある。ここも川角古墳群内だ。
もとは崇徳寺(跡)に立っていたもの。高さ3m、種子、蓮台の彫りも深くくっきりしている。覆い屋もないが、700年以上経っているとは思えない逸品だ。
大類グラウンドあたりが堂山下遺跡で、中世の苦林宿があった所ともいう。 《地図》
越辺川(おっぺがわ)を渡る。
北上して鳩山町に入り、今宿交差点に出る。今宿は昔の苦林宿に対して新しい宿という意味で、江戸時代になってから開けたという。今は宿場だった面影は見られなかった。
赤沼供養塔 《地図》
日本廻国四国七遍供養塔(安永8年(1779))は、道標になっていて、右側面下部に「北ハ ひきの岩殿道」・「中ハ すがや野はらみち」(鎌倉街道)・「西ハ 小が者ちち婦道」と刻まれている。
それにしても江戸時代の中頃に四国八十八ヶ所を7回も廻ったとはすごいね。
馬頭観音・聖徳皇太子碑など 《地図》
左端は道標で、「川越 小川・・・・方面」と刻まれている。
左側に稲荷社
鳩山中学校の校庭南側のフェンス
東海道橋(鳩川)~大橋(泉井川)~新橋(大橋川)と渡って行く。
左に笛吹通りに入る。《地図》
この先、平坦な道が続き笛吹峠へ上る道かちょっと不安になる。
昔、お歯黒をつけた大将の首を埋めたとか、また家来とはぐれて矢で射られた大将の首を埋めたとか伝えられているそうだ。
海道は鎌倉街道のこと
笛吹峠 《地図》
ここから武蔵嵐山駅までは、『笛吹峠・物見山・岩殿観音』に記載。(逆方向に歩いている)
歩道はないが車はあまり通っていない、緩やかな道を軽快に下って行く。
都幾川の堤下 《地図》
右の堤の桜が咲けば、菜の花との競演となるだろう。武蔵嵐山駅(東)交差点の手前で川越児玉往還と合流して行く。
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