紀州街道①
2016年4月24日
北浜駅(地下鉄堺筋線)・・・高麗橋(東横堀川)・紀州街道起点・・・少彦名神社・・堺筋・・・(阪神高速13号線)・・・(長堀通り)・・・安井道頓碑・・日本橋(道頓堀川)・・旧道・・・(千日前通り)・・・(阪神高速1号線)・・・戎神社前交差点・竜田越奈良街道分岐地点・・・(新今宮駅(JR関西本線))・・・萩之茶屋南公園・・厄除地蔵尊・・一念寺・・・(松虫通り)・・・天下茶屋公園・・・安養寺・・・天神森天満宮・・・(南海高野線)・南海電鉄玉出変電所・・・道標・・・壽光寺・・・(南港通り)・・・正覚寺・・・道安地蔵尊・・・親子地蔵①・・・万葉歌碑・・・親子地蔵②・・・住吉大社・・・御祓橋(細江川)・・・(長居公園通り)・・・寶林寺・・・長法寺・・・霰松原公園・・安立中央商店街・・・阿弥陀寺・・・手洗橋・・・大和橋(大和川)・・(堺市)・・(阪神高速15号線)・・・風間寺・・北之橋跡・・鉄砲鍛冶屋敷跡・・清学院・・榎並屋屋敷跡・・山口家住宅・・朱座之跡・・小西行長屋敷跡・・蓮花寺・・妙国寺・・宝珠院・・本珠寺・・堺奉行所跡あたり・・ザビエル公園・長尾街道起点・・・竹内街道起点・・開口神社・・与謝野晶子生家跡・・(国道26号)・・千利休屋敷跡・・善宗寺・・少林寺橋(南之橋・土居川)・・・船待神社・・・湊西ぼうさい公園・・・横寝地蔵尊・・・慈光寺・・・石津太神社・・・西法寺・・・太陽橋(石津川)・北畠顕家奮戦地・・川向延命地蔵・・・三光橋・・・(南海本線)・・・浜寺公園・・浜寺大橋(浜寺水路)・・・府道204号・・・(高石市)・・・羽衣駅(南海本線)
大阪と和歌山城下を結ぶ紀州街道を、大阪の街道の起点の高麗橋から、泉佐野市の熊野街道との合流地点まで行く。
紀州藩、岸和田藩の参勤交代の道、住吉大社、熊野への参詣の道でもあった。
【ル-ト地図】(羽衣駅(25.2km)まで)
江戸の街道の起点の日本橋と同様、上に高速道路が被さっている。
左から櫓屋敷を模した親柱、「里程元標跡」標柱、高麗橋の説明碑、慶長九年銘の擬宝珠が並ぶ。
ここが京街道、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道などの起点だ。
橋を渡って堺筋に出て、「薬の町」道修町(どしょうまち)を南下する。
旧小西儀助商店 (現コニシ)
「薬の神」として医薬関連の会社・関係者などの信仰を集めている。左は「くすりの道修町資料館」
参道入口に道修町を舞台にした小説「春琴抄」の碑が立つ。
生駒時計店(創業明治3年)
もとは川崎貯蓄銀行大阪支店で、昭和6年の建築。
阪神高速をくぐり、長堀通りを横切って行く。
道頓堀を開削した安井道頓と従弟の道卜(どうぼく)の功績を称える碑。
道頓堀(日本橋から)
このあたりは旅籠街だった。日本橋界隈は日曜で観光客で賑わっていた。
橋を渡って高札場跡あたりから右に旧道に入る。
これが紀州街道? 《地図》
日本橋の電気街(でんでんタウン)
戎神社前交差点で竜田越奈良街道が左(東)に分岐する。《地図》
まだ高麗橋から5km足らずだ。
萩之茶屋地区、天下茶屋地区を南下する。道沿いには旅館・宿泊施設が多く、高齢者の姿が目立った。
狂歌師「佐藤魚丸」の墓・浄瑠璃『心中天網島』の主人公の紙屋治兵衛の妻「おさん」の墓・大坂相撲の名力士「猪名川弥右衛門」の墓、だそうだ。
3つの別名を持っている。正面のクスノキの下に秀吉が淀君の安産を祈願したという「子安石」がある。
南海高野線をくぐると阪堺線沿いとなる。
この先で左に入った所に道標「すぐ 帝塚山」が斜めに立っている。
道安地蔵尊 《地図》
ここを右に入った。
住吉大社の反橋(太鼓橋)
石の橋脚は淀君が奉納したものとか。
阪堺電気軌道阪堺線(チン電)とやっと出会った。
御祓橋(細江川) 《地図》
川はコンクリ壁の間の細い流れで、何の風情もない。江戸時代にはこのあたりに難波屋という茶屋があり、2本の老松が地を這うように四方に枝を広げていた。その姿が笠に似ていて「笠松」と呼ばれていて、紀州街道を往来する人が必ず見物に立ち寄ったという。戦時中の管理が悪く昭和23年に枯死してしまった。『郷土資料展「堺と住吉」』に「諸国名所百景」に描かれた笠松が載っている。
霰松原(あられまつばら)公園 《地図》
奈良、平安の頃はこのあたりは海岸線で、堺まで松原が続いていて、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。万葉歌碑・豊浦命神社旧跡碑・安立町役場跡碑・安立町の由来碑・霰松原神社・日露戦役従軍者紀念碑など様々なものがある。
古い商店(跡)が何軒か残っている。
大和川を渡る阪堺線 《地図》
大和橋から
堺市に入る。
風間寺 《地図》
堺の地割奉行、風間六右衛門尉の自刃の地という。
環濠都市の堺を散策する。『堺観光マップ』
北之橋跡 《地図》
朱座之阯
漆器・朱肉の塗料として珍重された朱の製造所は堺に初めて設置された。慶長14年(1609)、幕府は全国6ヶ所に設置し、堺の小田助四郎を朱座仲間年寄とした。
小西行長屋敷跡
小咄『妙国寺の蘇鉄』
宝珠院 《地図》
堺事件の「土佐十一烈士の墓」がある。
西ルイスの墓とキリシタン灯籠がある。
「左 妙国寺 右住よし大さか」
泉陽高校のあたりが堺奉行所跡というが何の標示も見つからなかった。後日調べると殿馬場中学校の角あたりに石碑と案内板が立っているようだ。
泉南第一の名水として、江戸時代には豆腐製造、茶の湯に使われたという。
現在の紀州街道の車道部分が、生家の駿河屋跡地。
「海こひし 潮の遠鳴り かぞへつつ 少女と なりし父母の家」
堺の環濠の「南之橋」。大安寺、南宗寺は『熊野古道(紀伊道②)』で訪れた。
環濠の北之橋からここまで2時間半を費やした。
ここから紀州街道は右に入って行く。
竜田越奈良街道沿いの新家天満宮同様、大宰府に向かう菅原道真ゆかりの社で「菅公腰掛石」もある。
正面に「紀州街道」の標石
本来は如来像として作られたものらしい。「こけ」は「こける」の意か。
毎年12月14日には「泉州の奇祭」の火祭「ヤッサイホッサイ祭り」が行われる。
石津川をトコトコ渡る阪堺電車 《地図》
太陽橋から
「北 太陽橋」・「西 明治五年・・・・通行人之橋銭以落成」・「南 取扱・・・・」で、取扱は橋銭(通行料)を徴収して太陽橋を架けた世話人たちのことか?
北畠顕家奮戦地碑・供養塔(太陽橋の南詰)
明治6年に公園として指定された大阪で最も古い公園の一つ。古来の白砂青松の景勝地の歌枕の地、「音に聞く高師の浜」も近い。浜寺水路の浜寺大橋まで行って見たが、対岸の三井化学の鉄塔が並ぶ興ざめな光景だけで、すごすごと引き返した。
『和泉高師の浜』(六十余州名所図会)
日曜で家族連れで賑わった公園も、帰り時間となった頃だ。こちらは疲れた体を引きずって高石市に入り、羽衣駅まで行った。それほど急ぐ道中ではあるまいに。
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コメント
テーマで写真を撮ってみたいと思い高齢でも行けそうな
ルートなので参考にさせて頂きたいです。
おばあちゃん📷
投稿: | 2023年5月13日 (土) 07:34