中国街道
2016年4月26日・27日
北浜駅・・・高麗橋(東横堀川)・・・紀州街道分岐地点・・・鴻池家本宅跡・・・難波橋(土佐堀川・堂島川)・・・(京阪国道)・・・太融寺・・・綱敷天神社・・・(JR大阪環状線)・・(JR東海道線)・・・鶴乃茶屋跡碑・・・能勢街道分岐地点・元萩之橋碑・・・(JR梅田貨物線)・・永照寺・・・(阪急電鉄線)・・・常夜灯道標・十三大橋(淀川)・十三の渡し跡・・・焼餅屋今里屋九兵衛跡・・・十三戎神社(神津神社)・・・(阪急電鉄線)・・・十三公園・・・北向地蔵・・・長楽寺標石・・・出世地蔵・・・三津屋中国街道踏切(東海道線)・・・壽光寺・・・(阪神高速11号線)・・・香具波志神社・加島鋳銭所跡・・・富光寺・・・(山陽新幹線)・・・神崎橋(神崎川)・神崎の渡し跡・・(尼崎市)・・・瑛光寺・・須佐男神社・・道標地蔵・・・一心地蔵・・・西川八幡神社・尼崎藩領界碑・・・(東海道本線)・・・浄光寺・・皇大神社・・・道標・・・称佛寺・・・稲川公園・・(国道2号)・・大物公園・・・(大物駅(阪神電鉄))・・大物くずれの戦跡碑・・・大物主神社・・・大物橋跡(大物川緑地)・・・尼崎城址碑・・・桜井神社・・・尼崎城址公園・・契沖生誕比定地・・・庄下川橋(庄下川)・・・寺町・・・貴布禰神社・・・(阪神電鉄)・・・道標・・・蓬川橋(蓬川)・崇徳院地区・・琴浦神社・・・大庄村道路元標・・・雉が坂・・・武庫川橋(武庫川)・・・武庫川駅(阪神本線)
(4/27日) 武庫川駅・・・武庫川橋(武庫川)・小松の渡し跡・・(西宮市)・・・岡太神社・・・四軒茶屋公園・・枝川跡・六石の渡し跡・・・新川橋・浜田橋(新川)・・・上野神社・・・(阪神高速3号線)・・・浄願寺・・桜翁稲荷大明神・・・(今津駅)・・・(阪神電鉄)・・・津門川橋(津門川)・・・本町橋(東川・六湛寺川)・・西国街道合流地点・山陽道起点・・・西宮北口駅(阪急神戸線)
大阪の街道の起点の高麗橋から西宮市の西国街道との合流地点、山陽道の起点までの中国街道を行く。
【ル-ト地図】
難波橋(土佐堀川、堂島川)
以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていた。親柱の上には4体の阿吽(あうん)のライオン像が座っていて、愛称は「ライオン橋」。
天神祭の宵宮の「鉾流しの神事」が橋のたもとで行われる。
直線的には天満宮には行かれない。
このあたりは太融寺町
御堂筋・新御堂筋・JR大阪環状線・東海道線など入り組んだ所を抜けて行く。秋葉原か神田界隈を歩いているのと錯覚する感じだ。
現代風な店が並び、茶屋町にその名を残すのみか。
能勢街道分岐地点 《地図》
中国街道は左折、能勢街道は直進。右のコンビニ前に「元 萩之橋碑」が立つ。
JR梅田貨物線、阪急電鉄線をくぐり淀川の十三大橋に出る。
「南 十三橋南詰町 親友會 右 長柄二十町 左 傳法壱里」・ 「東 往来安全 → 池田四里 伊丹二里半」 台座に「← 高麗橋一里」
傳法は下流の此花区伝法で、「伝法大橋」・「伝法駅」(阪神西大阪線)もある。
十三大橋から淀川
十三(じゅうそう)の地名由来の有力説:「淀川の渡しの上流から13番目の渡しであることによる」
橋を渡った左側の「十三焼餅」の「今里屋九兵衛」を探したが見当たらず。2009年に十三駅前に移転したそうだ。十三駅近くのビジネスホテルに泊まっているのに全く気づかなかった。
十三戎神社(神津神社) 《地図》
境内に道標が集められている。
①右の道標(嘉永4年(1851))は、「往来安全」・「堤上 南十三渡 東○○○ 大坂」・「はっとり天満宮 三国渡 池田」で、神社の南側の淀川の土手近くに立っていたようだ。
②中の道標は、「小島村宮稲荷社是より左へ すぐハみのを多田のせ」で、能勢街道沿いにあったようだ。《地図》?
③左の道標(寛政2年(1790))は、「右小島村宮稲荷社 すぐハ十三 左りハ 本庄道」で、②の先の能勢街道沿いにあったものか。《地図》?
長楽寺標石 《地図》
「本尊薬師如来 長楽寺」
上は山陽新幹線
阪神高速11号線をくぐる。
境内の「加島鋳銭所 上田秋成寓居跡」碑
山陽新幹線をくぐり、神崎川の土手に出る。
今は神崎橋で渡って兵庫県尼崎市に入る。橋を渡った北150mくらいに、「金比羅さんの石灯籠」が立っているのだが見逃した。
道標地蔵(正面の石祠) 《地図》
「右 伊丹中○ 左 尼崎西○」・ 右側面「左 大坂」で、左へ尼崎・西宮方向へ進む。
一心地蔵 《地図》
一心をこめただけで戦に勝てれば苦労はないが。
右側面には「従是北佗領」と刻まれている。
南下して東海道線をくぐる。
道標(文化5年(1808)) 《地図》
「左 尼崎 西宮」・「右 尼崎 大坂」・「右 大坂 京道 左 伊丹 有馬道」で、左に進む。
大物公園の東側にある「残念さんの墓」も、残念ながら見落とした。
大物(だいもつ)くずれの戦跡碑(大物駅の西側)
「おおもの」とばかり思っていた。
ここはさすがに「だいもつ」ではない。
大物橋跡 《地図》
大物川緑地になっている。
尼崎城跡公園(復興石垣)
尼崎城西側の寺町を散策した。
三光堂(左) 《地図》
本興寺境内
佐々木成政の墓(法園寺)
中国街道に戻る。
本殿右奥にあるのが白波稲荷神社。
この先を右折し、阪神電鉄をくぐり北上する。
道標④(弘化3年(1846)) 《地図》
「左 西ノ宮兵庫」・ 「右 大坂道」で、ここを左折し西宮へ向かう。
蓬川を渡った北側は「崇徳院」という地名で、崇徳上皇にゆかりのある地名だ。①崇徳上皇が讃岐国に流される途中で、この地で休息した。②上皇の怨念を鎮めるための廟所の粟田宮に寄進された荘園の一つの浜田荘があった。『図説 尼崎の歴史』の「浜田荘と地名(崇徳院)」による。
北側の浜田町の松原神社は崇徳上皇を祀っている。配流された讃岐での上皇ゆかりの地は『四国遍路道(香川県⑧)』に記載。
落語『崇徳院』もある。
南側は尼崎競艇場だが、今日は非開催日のようだ。
大庄小学校の校門を入った所だが、門は閉まっていて近づけない。中国街道は校庭を横切っていたのだろう。
西に進んで雉が坂跡の武庫川の土手に突き当たり、武庫川駅に向かった。(雉が坂→武庫川橋(小松の渡し跡)→岡太神社までは、『尼崎市の坂』に記載)
ここからは4/27日に歩いた。武庫川橋を渡り西宮市に入り、西国街道との合流地点を目指す。
六石(ろっこく)の渡し跡・枝川跡(現在の甲子園筋) 《地図》
弘治3年(1557)、武庫川が氾濫して枝分かれするように新しい川ができて枝川と呼ばれた。橋はなく旅人たちは水量が少ないときは徒歩渡り、増水すると人足を雇って担いでもらい、さらに増水すると舟で渡った。舟渡しも無理な時は川止めとなって待機した。そんな時のために手前には四軒茶屋ができ、夏場は武庫川の伏流水の井戸水で冷やした鳴尾西瓜を出して喜ばれた。現在は四軒茶屋公園にその名が残っている。枝川は大正から昭和にかけての改修で廃川となり、その跡地に甲子園球場が作られた。枝川の西にも茶屋があり、名物の餅は1日に六石も売れるので「六石の餅」といわれ、枝川の渡しも「六石の渡し」と呼ばれた。(『関西あそ歩』による)
ここがてっきり「北郷開樋殉難者之碑」(鳴尾の義民)がある寺と思っていたら。甲子園駅の東の浄願寺だった。
桜翁稲荷大明神 《地図》
毎夜、翁に化けた酒好きの狐がこの町の酒蔵にやって来て、旦那衆と酒を飲み碁を打って、夜明け前に帰って行った。ある時、ある酒蔵から帰ろうとした翁は、土間の隅に一枚の油揚げを見つけて手を伸ばした途端にねずみ取りに挟まって正体を現してしまい、あわてて逃げようとして酒壺にはまってしまった。朝になって酒壺の中の死んだ狐を見つけた酒蔵の旦那は祠を建ててねんごろに弔い、祀ったとか。
左に「一本松碑」・「大岩大神碑」・「白波明神碑」が並ぶ。
ここから山陽道を進み西宮神社に参詣し、西宮駅(阪神電鉄)へ向かうのが筋?だろうが、次に能勢街道を歩くのでかなり離れているが、雨が降る中を西宮北口駅(阪急神戸線)に向かった。
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