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2016年5月24日 (火)

紀州街道②

2016年4月25日

羽衣駅(南海本線)・・府道304号・・・新羽衣橋・・・(南海高師浜線)・・・高石神社・・・大師堂・貝殻地蔵・・・小高石橋(王子川)・・・(堺泉北道路)・(泉大津市)・・・中和泉街道分岐地点・道標①・・・田中家住宅・・・助松村境石造物群・・・大津神社・・・中央商店街・・・長生寺・・・慈眼寺・・・庚申堂・・・楯並橋(大津川)・(忠岡町)・・・忠岡神社・・常然寺・・・萬福寺・・・(岸和田市)・・・上大芝橋(新天の川)・・・八幡山公園・・弥栄神社・・・西福寺・・・勘太夫橋(鯔川)・・・永守橋(春木川)・・・道標②・・・旧和泉銀行本店・・岸和田中央会館・・・欄干橋(古城川)・・旧四十三銀行岸和田支店・・きしわだ自然資料館・・岸和田市道路元標・・こなから坂・・岸城神社・・岸和田城跡・・光明寺・・梅渓寺・・天性寺(蛸地蔵)・・・(貝塚市)・・・地蔵堂・岸見橋(津田川)・・・道標③・・・利斎坂・・寺内町・・・道脇地蔵・・・道標④・粉河街道分岐地点・・・(府道40号)・・籠池・・・永久橋(近木川)・・・沢薬師堂・・・見出橋(見出川)・(泉佐野市)・・・諦徳地蔵・・・道標⑤・孝子越街道分岐地点・・・(府道204号)・・・鶴原2号踏切(南海本線)・・・府道64号・・・熊野街道合流地点・・・井原里駅(南海本線)

  【ル-ト地図】(羽衣駅(25.2km)から)

Img_5127高石神社 《地図

Img_5126説明板

高石神社前交差地点から左に旧道に入る。

Img_5138貝殻地蔵 《地図》(大師堂の境内)

海中から引き揚げられた貝殻の付着したただの石でも、前掛けを掛けられ、祠に祀られると地蔵らしく見えてくる。「鰯の頭」も何とかか。

Img_5135説明板

Img_5140長屋門(高石地区)

Img_5142紀州街道(高石市)

Img_5151道標①(大正?年)「中和泉街道」

「北助松駅から東に伸びる道筋は、昔は「布引の道」呼ばれ、助松より聖神社に至る幅八尺の大道で、「信太大明神が助松浜に上陸の際に信太郷まで布を引いたためこの名がある」といい、江戸期には「上代道」、大正期には「中和泉街道」と呼ばれ紀州街道角に道標が建っている」(散策泉大津

Img_5158田中家住宅(助松本陣) 《地図

Img_5160説明板

Img_5163助松村境石造物群(ホウケント)

村境のサイノカミ(道祖神)などと同様の境神信仰の場。

Img_5172説明板

Img_5174紀州街道(泉大津市)

Img_5183大津神社 《地図

拝殿の左前は、「厄除け桃方位盤

中央商店街を抜けて行く。

Img_5189魚新?商店

ネギ焼・焼そばもやっているようだ。

Img_5200楯並橋で大津川を渡ると日本一小さな町忠岡町だ。

楯並・忠岡は源平合戦の故事に由来するそうだ。(忠岡神社の地名由来)

Img_5204忠岡神社・常然寺

すぐに岸和田市となる。

Img_5216弥栄神社 《地図

八幡山と呼ばれる洪積地先端部を覆う砂丘上にある。創建年代・由緒は不詳だが、室町後期の天文年間(1532~1554)には、神社の形態を整えていたともいう。毎年9月の岸和田だんじり祭では春木地区のだんじりが宮入りする。

Img_5220春木地区の旧家

Img_5221街道松の名残か?

左の松は西福寺の参道にある。

春木川を渡る。

Img_5230並松町の家並み

Img_5231鯔川(いながわ)

Img_5232勘太夫橋(かんだゆう・がんたいふ)橋

勘太夫さんとはどんな人物か?

Img_5237道標②のようだがすり減っていて読めない。(並松町13)

「ひち」は質屋さん

Img_5240旧和泉銀行本店

Img_5241説明板

Img_5247岸和田中央会館 《地図

Img_5250説明板

Img_5255旧家

Img_5256欄干橋(古城川) 《地図

正面は旧四十三銀行岸和田支店

Img_5261説明板(欄干橋)

Img_5258古城川

このあたりは暗渠化された流れを復活させて親水公園風になっている。

Img_5267説明板(旧四十三銀行岸和田支店)

Img_5274城下町の桝形が残っている。堺口門があった所か?

Img_5278紀州街道(岸和田市)

Img_5275こなから坂の標柱・岸和田市道路元標(左の市役所別館の角) 《地図

左折して「こなから坂」に向かう。

Img_5282こなから坂 《地図

だんじりが駆け上る坂だからこんなものだろうと予想はしていが、いささかがっかり。秩父夜祭の団子坂も似たようなものだ。
東京の千代田区にある二合半坂は別名を「こなから坂」ともいう。

Img_5295岸城(きしき)神社

Img_5294説明板

Img_5291岸和田城

月曜は休日で登城できず。

Img_5299五風荘

Img_5298説明板

Img_5306城下の家並み

Img_5305説明板

Img_5315紀州街道に戻る。

Img_5319川崎邸

Img_5317説明板

Img_5325光明寺

現在地に元亀2年(1571)に寺堂を中興した。かつては岸和田城伝馬口門と西大手門を固める要衝を占めていた。

Img_5324説明板

Img_5335蛸地蔵の天性寺地図

数千の蛸と一人の法師(地蔵菩薩の化身)が岸和田城を救ったという伝承。標石の「たこちそう」の字は、池大雅の書と伝える。
蛸地蔵は毎年8月23・24日の地蔵盆の「千日大法会」で開帳されるそうだ。南海本線の「蛸地蔵駅」もある。

Img_5328説明板

貝塚市に入る。

Img_5342地蔵堂(津田川の岸見橋の袂)

道内には地蔵・恵観音、外に光玉院碑・大己貴河松大明神碑・姫松大明神碑、岸見橋の親柱などが並んでいる。

Img_5353道標③(明治4年・岸見橋を渡った先の左側)

忠臣捕鳥部萬墓併犬塚是ヨリ三十丁」

物部守屋大連の警固や雑役などを務め、蘇我馬子・厩戸皇子らの朝廷軍と戦った捕鳥部萬の墓と、その飼い犬の義犬塚。《地図
物部守屋の墓は竜田越奈良街道の大聖勝軍寺の東側にある。

Img_5361旧家

Img_5365寺内町に向かう道筋の家並み

Img_5367利斎坂(正面) 《地図

右に「正面 利斎坂 右 御下筋」の標石。左側が利斎家住宅で、薬種問屋で北之町の町年寄りを務めていた。

Img_5370坂下方向

Img_5373貝塚寺内町と紀州街道

環濠城塞宗教自治都市で、紀州街道沿いの交通の要衝地で商業都市としても栄えた。願泉寺(右)・尊光寺(左) 《地図

Img_5380説明板

Img_5372説明板

Img_5376願泉寺梵鐘

Img_5375説明板

Img_5388道脇地蔵

寺内町の地蔵盆

Img_5392銘菓「村雨」の「塩五」 《地図

Img_5401粉河(こかわ)街道分岐地点 《地図

道標④(明治29年) 「左 粉川街道 犬鳴山不動 粉川道」・ 「右 国道第廿九号路線佐野加太和歌山道」で、右へ進む。

府道40号を横切る。

Img_5405籠池沿いを進む。

近木川を渡る。上流の南方には近木王子跡がある。熊野街道との合流地点も近づいて来た。

Img_5412沢薬師堂 《地図

Img_5413説明板

見出川を渡ると泉佐野市だ。それにしても大阪府は市が多い。今日だけでも高石市→泉大津市→忠岡町→岸和田市→貝塚市→泉佐野市と5市1町もあった。

Img_5425諦徳地蔵(右)

正面で孝子越(きょうしごえ)街道が右に分岐する所に、
道標⑤(徳本名号塔) 《地図

 

Img_5426道標⑤

「南無阿弥陀仏 左 紀州わか山」・「右 大川あはしま」で、左に進む。

 

Img_5433孝子越街道を少し進んだ所の子安踏地蔵尊

紀州街道に戻る。

Img_5440南海電車の踏切を渡る。

Img_5450左から来る熊野街道と合流する。《地図

Img_5451振り返る。

左が紀州街道、右が熊野街道で、紀ノ川の川辺橋を渡った所まで同じルートをたどる。
ここを今回の紀州街道歩きの終点として井原里駅に向かった。

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