中高野街道②
2016年5月6日
布施駅(近鉄奈良線)・・・足代安産地蔵尊・・布施戎神社・・・(国道479号(内環状線))・・・偏増寺・・・清見原神社・・・薬泉寺・・・道標・・・加美巽川(下足代橋)・・・旧巽村役場跡・・・念仏堂・・・(内環状線)・・・巽神社・・光西寺・・・市町踏切(JR関西本線)・・・(平野川)・・・河骨池口地蔵・・・竜田越奈良街道交差地点(宮前東交差点)・・・樋ノ尻口地蔵・・・赤留比売女神社・・櫻井寺・・・政所筋・・・流口地蔵・・・(南港通り)・・・喜連地区・北口地蔵・・楯原神社・・屋敷小路・・馬倉地蔵・・道標地蔵・・・かっつらかい跡(長居公園通り)・・・瓜破天神社・・・阪和貨物線跡・・・道標地蔵・・高野大橋(大和川)・・・光南地蔵・・・(松原市)・・・(阪神高速14号線)・・・屯倉神社・酒屋神社・・梅松院地蔵・・・一里塚跡あたり・・・海泉池・・阿保神社・・・長尾街道交差地点・阿保茶屋跡・・・河内松原駅(南海高野線)
【ル-ト地図】(布施駅(10.1km)→河内松原駅(25km))
足代(あじろ)安産地蔵(永禄5年(1562)) 《地図》
もとは聖源寺(明治5年廃寺・前回記載)に祀られていたこともあるそうだ。
もとは都留弥神社の地
布施本町商店街を抜け、右折して西に向かい、国道479号を横切って行く。
天武天皇の飛鳥浄御原(きよみはら)宮からの社名と伝える。
「左信貴山」・「右大坂」
巽村役場跡 《地図》
巽村→巽町→大阪市生野区巽中
巽南3交差点の先で左折し、内環状線を渡り巽神社前を右折し南下する。
JR関西本線、平野川を渡り環濠自治都市の平野地区に入る。『平野郷を歩こう』
河骨池口(こおのいけぐち)地蔵 《地図》
平野郷十三口の一つで、平野川を運航していた柏原船の船入(発着場)だった河骨池跡という。このあたりを市の浜といい、問屋・宿屋などが立ち並び、船会所もあってたいそう賑わっいたそうだ。
地蔵堂は岩村食堂の一画にある。地蔵さんもひもじい思いはすまい。柏原駅近くには、柏原舟の舟だまり跡がある。『竜田越奈良街道②』に記載
交差点を渡った角に道標(弘化2年(1845))
「すぐ 道明寺 左 志ぎ山」・ 「右 ふじいでら 大峯山上」・「すぐ 玉つくり 左 天王寺」
大坂夏の陣での真田幸村と徳川家康の逸話が載る。
赤留比売女神社(三十歩神社) 《地図》
環濠跡
南港通りを横切って南下し、ここも環濠集落だった喜連(きれ)地区に入る。
北口地蔵 《地図》
喜連の環濠集落の七口の一つ。軒下は中高野街道を往来する人々の雨宿りの場にもなっていたという。
右に中高野街道道標(天保4年(1833)建立の復元):「すぐ こう野 左 ふぢゐ寺」・「すぐ ひらの 大坂 左 住吉」
江戸時代の住宅街の姿を残している。
馬倉は中世の喜連城の大手前という。如願寺が本丸の推定地という。
正面に、「? すみよし さかひ」・
裏面に、「すぐ 大念仏寺 十八丁 天王寺 一里半」
「かっつらかい」跡(河内と摂津の国境の堤防跡)の長居公園通りを横切って瓜破(うりわり)地区へ進む。
道昭がこの地で修行中に、天神の霊像が現れた。そこで瓜を割って供えたのが、「瓜破」という地名の起源の一つという。
線路も撤去されている。
このあたりに旧高野(こうや)大橋が架かっていた。左に地蔵の祠
「右 かうや ・・・ 左 ひらの・・・」?
少し下流で高野大橋を渡る。
大和川を渡って、少し進むと松原市に入り、三宅地区から阿保親王ゆかりの阿保地区へと進む。雨脚が強くなってきた。 『中高野街道と6商店会』
梅松院地蔵(宝永3年(1706)4月)
三宅と阿保との境界付近で、摂津の平野から一里の場所。「一里山」の小字名が残るそうだ。
阿保(あぼ)親王が掘った灌漑池の一つと伝えられ、親王池ともいう。
海泉池の堰高を決める石で、文化5年(1808)6月に西阿保村と三宅村が立ち会い、堰高7寸5分と決めたそうだ。
菅原道真は大宰府へ流される途中で、ここでも休憩したようだ。新家天満宮(竜田越奈良街道②)・諏訪神社(中高野街道①)・船待神社(紀州街道①)でも休憩している。
本殿横の大クスは阿保親王のお手植えとか。芦屋市の山陽道沿い近くには、親王の別邸跡に建てられた菩提寺の親王寺がある。
交差点付近は阿保(あおん)茶屋跡で、多くの茶屋が並んでいたという。
降りしきる雨の中、この先の河内松原駅までとした。
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