深大寺道
2016年7月25日・26日
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深大寺道は前回歩いた牟礼道に対するもので、河越上杉氏の河越城-難波田城-柏城-滝城-深大寺城を結ぶ軍道という。『武蔵古道ロマンの旅』(芳賀善次郎)
滝城から南に深大寺城跡まで行き、御塔坂下から佐須街道を東に、甲州街道との合流地点まで歩く。
【ル-ト地図】
滝の城本丸跡(滝の城址公園)
戦国時代に武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した山内上杉氏の家臣大石氏が築城。天文15年(1546)の「河越夜戦」で上杉方が敗れたため、北条氏照の滝山城の支城となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した。平山城式で、別名を本郷城という。
この城は、『所沢市の坂③』に記載
円通寺・上宮稲荷神社は『清瀬市の坂』に記載
ここは歩道がついていて歩きやすい。
水道通り・野火止用水と交差する。《地図》
庚申塔と馬頭観音の祠がある。
野猿坂を神宝大橋の方へ下る。《地図》
このあたりは昔は猿も出たのだろう。
左から落合川が黒目川に合流する。
西東京市に入り、ひばりヶ丘駅(西武池袋線)を横切って行く。
「保谷四軒寺」の一つ
水子地蔵(明和8年(1771))
榎の木の庚申様(左) 《地図》
青面金剛庚申塔(正徳4年(1714))
「一文銭向い目絵馬」
六角地蔵尊(六角地蔵石憧)(寛政7年(1795)) 《地図》
「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために建立。ここは富士街道と深大寺道との交差点で、脚部は道標になっている。
西武新宿線の踏切を渡り、青梅街道との交差地点で六郷田無道と合流して南下し、三鷹市塚交差点で分かれて行く。その間は『六郷田無道』に記載。
ここから26日
地元では「お西棟」と呼ばれ、社名碑の揮毫は武者小路実篤によるそうだ。
六郷田無道は左折、深大寺道は直進。
庚申塚 《地図》
後ろは庚申株式会社・庚申マンション
上連雀浄水場 《地図》
大地震の時などの応急給水所
盆踊りの準備だろう。右奥に薬師堂がある。毎年10月8日薬師の縁日の夜には、地元の人達によって「団子まき」の供養が行われ賑わうそうだ。
東八通りを横切り、調布市に入り三鷹通りに通じる道を進む。
庚申塔(寛延元年(1748))と後ろは地蔵か 《地図》
すぐ先で三鷹通りに出て、「あおなみさんの坂」を南下する。
『江戸名所図会』などにも記された巨木だが、今は鉄柱に支えられている。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから「青波天神社」とも称されていた。
深大寺とその周辺は、『調布市の坂③』・『調布市の坂①』に記載。
深大寺城跡空堀跡
第一郭跡(本丸跡) 《地図》
築城年は不明だが、武蔵七党の狛江氏の築城とも伝承される。16世紀には扇谷上杉氏が北条氏に対する南武蔵の防衛拠点としていた。天文6年(1537)には上杉朝定が難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築させたが、北条氏綱が深大寺城を迂回して扇谷上杉氏の本拠の河越城を攻略したことにより、戦略的価値が失われ廃城となった。
ここを深大寺道の終点とし、御塔(おとう)坂下の佐須(さず)街道に向かう。
御塔(おとう)坂交差点 《地図》
ここを左折するのが佐須(さず)街道。
「佐須」の地名由来は、①佐須村名主の温井三郎左衛門の先祖の佐須豊後の姓にちなむ。②佐須は滞水地域の中の砂州であるといったり、枝から新しい芽が出るのをサスということから、親村に対する分村の意味。③古代に渡来の高麗(狛)人が開拓した焼畑を意味する、「サス」・「サシ」に由来する。などがある。
このあたりを「柏の里」というのは、深大寺縁起に柏江という所が出てくることからとも、柏は狛の誤りで狛江市とともに古代の狛江郷のことであろうともいわれている。
稲荷神社 《地図》
創建年代等は不詳。又住地区の鎮守。
角の2基の庚申塔の右側のは宝暦7年(1757)に、佐須村講中15名が建立。
狛江郷(現在の狛江市と調布市あたり)に住居を定めた渡来人の集落神として祀られたものという。
ただの車道で面白味のある道ではない。
中西悟玄(中西悟堂の養父)が住職となり、明治41年に自由民権運動家の慰霊祭を当寺で行った。境内に板垣退助が植えた2本の「自由の松」がある。右の唐様石人像(向かい側にもある)は、池貝鉄工所社長の別荘にあったものを戦後移したものだそうだ。
長屋門とは別の家
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