山口街道
2016年9月13日
東大手駅(名鉄瀬戸線)・・・清水橋・・・稲置街道分岐地点・・・清水口交差点・・・心海寺・・善光寺街道交差地点・赤塚交差点・神明社・・・山口町交差点・・・徳源寺・・・徳川園・・・新出来町交差点…出来町橋(JR中央線)・・・東界寺・・・須佐之男神社・・・古出来町交差点・ごまたまご歩道橋・・・塩付街道交差地点・・・愛宕神社・・・清明山交差点・・・晴明神社・・・永弘院・・・弘法大師堂・・・長養寺・・・上野天満宮・・・弘法堂・・・金森明神・・・(出来町通り)・・・四観音道合流地点・旧茶屋ヶ坂・・三十番神社・・・茶屋が坂交差点・・・ちょろちょろ弘法・・・東海病院・・四観音道分岐地点・・・横堤・・・長福寺・・・香流橋(香流川)・馬頭観音・・・竹越バス停
名古屋城下と瀬戸、長久手方面を結ぶ道で、巡見使の巡見道にも使われたという山口街道を、香流橋まで行く。
【ル-ト地図】
名古屋城の外堀(空濠)に架かる橋で、東の大手門だった清水口。かつてこの堀の中を名鉄瀬戸線が走っていた。現在は地下を通っている。
ここを山口街道歩きの起点として東へ向かう。
清水口交差点の手前で、稲置街道が北に分かれて行く。赤塚交差点あたりで善光寺街道(下街道)と交差する。
名古屋市電が走っていた道路の真ん中にバス停がある。
出来町橋でJR中央線を越える。
名古屋二十一大師第7番札所
名古屋市の「歩道橋ネーミングライツパートナー事業」による命名で、「ごまたまご」の宣伝効果も大いにあるようだ。
上野城主下方貞清が弘治2年(1556)に創建。尾張藩の塩硝蔵がこの付近に建てられ、その守護神としての役目という説もある。
清明山交差点から北に晴明神社に向かう。
陰陽師の安倍晴明が、一時この上野に住んでいたといわれる跡に建てられた神社。
熊野街道沿いの安倍晴明神社は『熊野古道(紀伊路①)』、信太森葛葉稲荷神社(大阪府和泉市)は『熊野古道(紀伊路②)』に記載。
天文7年(1538)、上野城主下方貞清が建立した寺で、戦での勝利をもたらすとされる、勝軍地蔵を安置する。
上野城址碑
「名古屋 八十八ヶ所」の標石が立ち、21番札所らしいが境内は荒れている。
名古屋城築城の折に城の安全を祈願して四方に置かれた石の一つの「青竜石」があるというが、境内はあまり整備されてなく、どれか分からず。「天満幼稚園」の看板がかかり、「願書配布」の貼り紙がしてある。
上野天満宮(名古屋天神)
『山口街道と民俗史跡めぐり』・『説明詳細』
弘法堂 《地図》
廿日弘法ともいわれ、毎月20、21日に地域の人が集まり、「お待夜(おたいや)」を行う。堂内には四体の石仏があり、その内一番大きい地蔵像は道標仏で、「右 みなみかさでら道 左 坂を下って左へりゅうせんじ道」、だそうだが扉は閉まっていて見えず。「笠寺」・「龍泉寺」で、四観音道沿いにあった道標だろう。
金森明神 《地図》
別名「景清さま」と呼ばれ、眼病に霊験があるという。 落語『景清』
出来町通りを横切り鍋屋上野浄水場そばの墓地にある吉見幸和の墓を探したが、吉見家の墓は多かったがどれか分からず。四観音道と合流して旧茶屋ヶ坂を下る。
傾斜はゆるい。
三十番神社 《地図》
陰暦の1日から30日までの毎日を交替して、法華経を守る神を三十番神といい、その神々を祀った社だという。30もの神を祀るにしては小さな社で見過ごしそうになった。
茶屋ヶ坂と赤坂(正面)の坂下。このあたりは『名古屋の坂①』で歩いている。
ちょろちょろ弘法 《地図》
堂の脇からちょろちょろと清水(弘法清水)がわき出ていたことから、こう呼ばれている。
「第八番弘法大師」の標石が立っている。
東海病院の先で四観音道は北に分かれて行く。
横堤 《地図》
香流川の治水対策として、あふれた水をくい止め、矢田川に導くために幕末に築かれた土堤。今は下に猫ヶ洞池からの排水路が通っている。
丸窓の中国風の造りの黄檗宗の寺
小牧・長久手の戦いの戦死者を葬っ た時に使われた石で、もとは畑の真ん中にあった。この石をいじったりすると祟りがあると、村人は恐れていた。
山口街道は長久手街道ともいう。
前方は香流橋
馬頭観音(香流橋のたもと) 《地図》
右が安永9年(1780)の建立で、戦時中に行方不明になったが、昭和44年の区画整理中に発見された。左は平成10年の建立。
竹越バス停から大津橋に出た。
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