佐原・香取街道①
2016年10月7日
成田駅(JR成田線)・・成田街道・・・成田山新勝寺・・寺台宿・・大日如来堂・永興寺・・保目神社・・寺台城址・・・吾妻橋(根木名川)・・寺台交差点・国道51号・・・円融寺・・・東金山橋(取香川)・・・(成田スカイアクセス線)・・・旧道・・・東陽寺跡・・神光寺廃寺・・鎮守皇神社・・・国道51号・・・野毛平工業団地・・・小社・・・野馬土手跡?・・・十余三第1橋(東関道)・・・稲荷社・・・道標・・・香取神社・・東雲の丘・・十余三トンネル(成田空港B滑走路)・・・十余三第2大橋(東関道)・・・小社・・・(圏央道)・・・稲荷神社・・・吉岡十字路・・・大栄町歴史の森公園標識・・旧道・・庚申塔・・・浅間神社・・・大慈恩寺・・・国道51号・吉岡宿並交差点・・八坂神社・・・長屋門①~④・・・大栄支所バス停→京成成田駅
成田街道の続きとして、舟運で栄えて「江戸まさり」とも称され、古い町並みが残り、伊能忠敬ゆかりの地でもある佐原宿から香取神宮へ向かう。
【ル-ト地図】
大日如来・庚申堂(左)・延命地蔵堂(永興寺門前) 《地図》
享保15年の銘があるのは大日如来か庚申塔か?
永興寺(ようこうじ)
天正18年(1590)の秀吉の小田原征伐の際の寺台合戦(土屋合戦)で徳川軍に敗れ討ち死にしたという寺台城主の馬場勝政が葬られたという。小野派一刀流開祖の小野忠明の墓もあるそうだ。
成田街道の終点、佐原街道の起点で成田方から下宿・中宿・上宿から成っていた。北側の高台には千葉氏の家臣・馬場氏の寺台城があり、当初は城下町として形づくられたようだ。上宿の東側を流れる根木名川に寺台河岸があり、銚子・江戸方面との舟運で発展した。今は城下町、宿場の面影は全くなく、成田山の東参道だが人通りは少ない。
寺台城址 《地図》
千葉氏の族臣・馬場氏累代の居城跡。天正18年、馬場伊勢守勝正の時に亡び、海保甲斐守三吉が徳川家康からこの城を賜ったという。右後ろが「海保甲斐守三吉之遺址碑」(標柱の説明文による)
もともと海保氏が城主だったという説もある。
その右は地蔵?の小祠か。
3つあった寺台河岸の「黒川河岸」あたりで、下流に「山小河(やまこが)河岸」、「山六河岸」があったそうだ。
利根川への水運・舟運で栄えた頃は、川幅も広く、水深もあったのだろう。
成田山への舟で参拝者たちはここで舟を降り、寺台宿の東参道を通り新勝寺へと向かった。
寺台交差点で国道51号に出る。
成田スカイアクセス線をくぐる。
左の旧道に上る。《地図》(乃どりの先)
ここから鎮守皇神社の先で国道51号に出るまでの道筋は、墓地・廃墟のようなラブホテル・荒れた廃寺・時の流れが止まり忘れ去られた感じの神社などが並ぶ一風変わった空間になっている。
営業しているのだろうか? どうでもいいが。
題目塔の左側面に「明照山東陽寺」とある。ここが東陽寺跡で、この先の神光寺と同様に廃寺となってしまったのか? 堂らしい建物(跡)はなかったように思うが。
このあたりは、『成田に吹く風』の「東陽寺」・「神光寺」・「鎮守皇神社」に詳しい。
もとは鎮守皇神社の別当寺だったそうだ。右の地蔵(元文3年(1736))は欠けた頭を後から継ぎ足している。台座には「十五夜念佛開眼 八月吉日 施主二十一人」と刻まれている。280年前の8月15日の十五夜には、このあたりは賑わったのだろう。今では荒れて寂しい空間になっている。
両側の大木は根元から朽ち果ててきている。
国道51号に出ると現実の世界に戻った感じだ。
交差点に「小泉館址2km 脇鷹(そばたか)神社2km」の標識が立つ。
左の樹林の中に小社がある。
小社 《地図》
ここで小休止
十余三(とよみ)地区は、江戸幕府直轄の馬牧跡で、明治になって旧下級武士の失業・窮民対策の開墾事業が行われた。開墾された新しい土地には数字のつく縁起のいい名がつけられた。「初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三」と9市にもまたがるのだから、その広さが分かる。
十余三第1橋(東関道)を渡る。
稲荷社 《地図》
左には?
東小学校交差点 《地図》
右の電柱の所に道標
「西 野毛平成田道」・「東 長田堀之内道」・北に向かうのだが「北・・・・」が読めない。「北 吉岡 佐原道」と勝手な想像。
成田空港の建設で当地に遷座した。
東小学校の生徒が考えた名称。
東雲の丘からJAL機がB滑走路へ着陸
わずか15分位の間に、気づいただけで5~6機の飛行機が着陸した。JR山手線・京浜東北線以上だ。
十余三トンネルを抜ける。
十余三第2大橋(東関道)を渡る。
稲荷神社 《地図》
吉岡十字路を過ぎる。
この先を左に入って行く。《地図》
案内板の向かい側の道沿い。
今日は休工日で浅間神社から大慈恩寺への道は通れた。
参道は雑草に覆われている。上に社殿はあるのだろうか?
大慈恩寺勅使門、山門(右)
鑑真の開基で、鎌倉時代以降は、千葉氏一族の大須賀氏の保護を受け繁栄した。明徳2年(1391)に後小松天皇から「大」の字を賜り、大慈恩寺と号するようになったという。
『大慈恩寺宝物類』
『吉岡の神楽舞い』
吉岡の昭栄郵便局あたりには、吉岡宿を感じさせる長屋門が並んでいる。
成田市役所大栄支所あたりが馬洗城址で、旧道は城の縁を回っていたようだ。そこからは次回とし大栄支所バス停から京成成田駅に戻った。
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