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2017年4月13日 (木)

大山街道(青山道・矢倉沢往還ルート)

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  【ル-ト地図

 坂を中心にしてダイジェスト版にした。

Img_0169  赤坂御門跡 《地図

ここが大山街道(青山道)の起点

 

Img_0165 説明板

 

Img_0166

 

Img_0176 牛鳴坂を上る。《地図

赤坂から青山へ抜ける厚木通り(大山道)で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため。さいかち坂ともいう。

 

Img_0208 宮益坂(右)を下る。《地図

古くは富士見坂といい、矢倉沢往還(大山街道)の最初の坂。正徳3年(1716)に坂の途中にある千代田稲荷(現在の御嶽神社)にあやかって、町名を渋谷宮益町に変えたためこの坂名になった

 

Img_0216 道玄坂を上る途中の古そうな建物。《地図

①江戸時代、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、渋谷氏滅亡後にこの坂に出没し、山賊野盗の振舞いをしたところから命名された。②「天正日記」によると、道玄庵という寺の庵主が、徳川家康に由緒書を出していることからこの名がついたという説もある。道玄庵は松見坂(目黒区)の近くにあったらしく、世田谷街道に入って松見坂までを道玄坂と呼んでいたらしい。『渋谷の坂』・『道玄坂の歴史

 

Img_0222 大坂①を下る。《地図



 

Img_0221 説明板

 

Img_0230 大山道道標(天保13年(1842)・上目黒氷川神社前)

正面に「大山道 せたがや通 玉川通」
右側面に「ひろう めぐろ 池がみ 品川 みち」
左側面に「青山 あざぶみち」

 

  Img_0253 大山道道標(三軒茶屋交差点)

旧道は右へ新道は左へ、分岐に不動尊道標が立つ。昭和44年までは玉川電車もここで分岐し、左路線は二子玉川駅まで通じていた。ここに田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋の3軒の茶屋があり、大山参りの旅人の休憩所となっていた。

 
Img_0254 説明板

 

Img_255 大山道道標(延享3年(1746))

弦巻の追分(弦巻5-16)に立っていたが、世田谷区立郷土資料館に移設・展示

 

Img_256 説明板

Img_0285 大山旅人像《地図

 

ここは蛇崩川の洗い場跡。

 

Img_0296 用賀追分(旧道・新道合流地点)《地図

古い道標(文政10年(1827))は、「右 江戸道 左 世田谷 四谷道」は郷土資料館に移設保存。

 

Img_0315 延命地蔵堂(新道・旧道追分)《地図

 

安永6年(1777)に用賀村の女念仏講中が建立。直進は新道で、この先で左に入り行善寺坂を下って多摩川堤へ出る。

Img_0324慈眼寺坂を下る。《地図

 

Img_0342 二子渡し跡標柱 《地図

寛文9年(1669)、大山街道の継立村となった対岸の二子村が請け負っていたが、天明7年(1787)、瀬田村にも渡し船の許可が下りた。ここは瀬田村にあった2ヶ所の発着所の一つ。大正14年(1925)二子橋が完成し、その役目を終えた。

 

Img_343 ありし日の渡し船

 

Img_350二子の渡し跡あたりの多摩川

東急田園都市線の下あたり。

 

Img_0356二子の渡し入口標柱(川崎側)《地図

 

Image490 大山街道ふるさと館(高津区溝口3-13)

 

Image498庚申塔道標

「西大山道 東江戸道 南加奈川道」

 

Image503ねもじり坂を上る。《地図

「ねもじり」の由来は不明とするが、『かながわ 坂のある風景』には、「武蔵風土記稿は根もちり坂、字松安寺より笹原へ出る山丘の根通りを上がるさなり、・・・・」とあって、ねもじり坂の名が丘の根通りを登るところからついたとする。」とあります。明治の中頃まではもっと狭く急坂で、牛車や荷車は後押しがなければ登れないほどだったので、別名「はらへり坂」ともいう。
江戸時代、相模原のアユを運ぶ鮎かつぎは溝口の亀屋を人足の中継所としていました。大山道を夜中に走ってきた鮎かつぎ人夫は、朝方ねもじり坂にさしかかると歌を歌って亀屋に合図を送り、近所の人たちはこの歌が聞こえると朝のしたくをはじめたそうです。『大山道歴史ウオッチングガイド』(大山街道ふるさと館発行) この歌は、「鮎は瀬に棲む 蝉や木に止まる 人は情けの下に住む・・・」『かながわ 坂のある風景』
Image502 説明板

 

Img_584 庚申坂を下る。《地図

 

Img_585説明板

 

Img_593 八幡坂①を下る。《地図

 

Image602 小台坂を上る。《地図

 

Image616 八幡坂②を下る。《地図

 

Image623 馬頭観音道標(有馬9丁目の国道246号の鷺沼2交差点の南側そば)

文化2年(1805)11月の銘。かつては上有馬と牛久保の境近くにあった。左側面に「大山道」・右側面に「王禅寺道」と刻字があった。大山道から分岐して保木の薬師堂を経て王禅寺に至たる道標として貴重。(現在は移設されてここにはないそうだ。)

 

Image628 うとう坂を下る。《地図

坂下は字牢場谷戸といい、昔は牢屋があったという。ここを通ったある藩主が籠の中から処刑を見て「うといものを見てしまった・・・」といったのが坂名の起こりだと伝える。『かながわ 坂のある風景』とあるが、どうもこじつけの感じがある。うとう坂は各地にあり、いろんな字を当てている。「うとう」は「烏頭」で、善知鳥(うとう)の「くちばし」に似たような地形、すなわち、山や海浜の出崎を言ったのであろう。『江戸の坂東京の坂』の説の方がいいのでは。「うとう坂」については『白河市(福島県)の坂』の善知鳥坂の所を参照。『うとう坂表

 

Img_0409 荏田宿庚申塔「説明板

荏田宿は江戸から7里、長津田宿へ2里で、下宿・中宿・上宿に分かれていた。街道沿いに3軒の旅籠と商店の27軒が軒を連ねていた。天保2年(1831)渡辺崋山は枡屋に泊まった。(『游相日記』)明治27年の大火で壊滅的な打撃を受け、今は宿場の面影はなく住宅街になっている。

 

荏田交差点(国道246号)を渡った先の辻が高札場跡。国道246号と東名高速の間あたりが荏田城址地図

 

Image256 市ヶ尾地蔵堂(青葉区市ヶ尾町の地蔵堂下交差点そば。市が尾駅の北側の旧大山街道沿い)

江戸中期頃の建立。地蔵堂前の一番左は道標庚申塔で、両足の外側に「大山みち」・「江戸みち」と彫ってある。もとは猿田坂にあったものだろう。

 

Image266 猿田坂を下る。《地図

現在、市ヶ尾地蔵堂にある庚申塔などがあったため名づけられた。猿は去るに通じるとして、嫁入り行列はこの坂を避けたとされる。坂下には旅籠綿屋、石橋屋、小石橋屋があった。

 

Image280 さいかち坂を下って上る。《地図

「さいかち」は皀(さいかち)の木のことだろうか?それとも「再勝」でこのあたりに戦の伝承でもあるのか?  バス停は「再勝坂」だ。

 

Image360

長津田宿常夜灯(長津田5-9の旧大山街道沿い) 

大山講中が文化14年(1817)に建立。長津田十景の「下宿晴嵐」
長津田宿は江戸から9里、荏田宿から2里、鶴間宿へ1里で幕末の頃は約50軒の家数だった。中心は中宿で長津田駅付近にあった。昭和28年の大火で往時の面影はなく、幾つか残る屋号に名残りを留めるのみ。

 

Image361 説明板

 

Image363 旧道(長津田小学校の南川沿い)

ここも長坂の一部。長津田十景「長坂夜雨」

 

Image364 長坂を下る。《地図

 

この先は、
大山街道(長津田駅→愛甲石田駅)』・
大山街道(愛甲石田駅→こま参道入口)』・
大山街道(女坂→大山山頂→男坂)』へ続く。

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