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2017年5月26日 (金)

伊南房州通往還⑦

2017年5月20日

安房小湊駅(JR外房線)・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・実入歩道トンネル・・・新神明橋(神明川)・・・日澄寺・・・善覚寺・・仲宿・・海福寺・・・城戸バス停・・須賀神社・・萬福寺・・・天津小湊公民館・道標(清澄道)・・・天津橋(二タ間川)・・(二ツ山(葛ヶ崎城址))・・・八重門(やえむ)坂・・薬師堂バス停・・・貴船神社・・・多聞寺・・・(日蓮)疵洗い井戸・・・(東町交差点)・・・八幡神社・・・夜長川橋(夜長川)・夜長川碑・・・新田の道標・・・(鴨川シーワールド)・・・永明寺・・・龍性院・・・白旗神社・旗掛松跡・・・待崎橋(待崎川)・・・諏訪神社・・太子堂跡・・・御天王様・・・道標・・・加茂川橋(加茂川)・小社・・・貝渚地区・・釈迦寺・・万騎坂・・金剛院・・妙昌寺・・・八雲神社・・・魚見塚展望台・・・(魚見塚一戦場公園)・・・県道247号・・・波田橋(曽呂川)・・・宝光寺・・・太海駅(JR内房線)

 安房小湊駅から館山まで日帰りにしようか、泊りがけで行くか迷って後回しにしているうちに2年以上経ってしまった。
 3日間で館山の内房回りの房総往還との合流地点まで行き、房総半島一周を完結させる。

 伊南房州通往還⑥(勝浦駅→安房小湊駅)』からの続きです。

 参考:『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書・千葉県教育委員会)

  【ル-ト地図

Img_2034鯛の浦

内浦湾から入道ヶ岬にかけての鯛の群生地。

Img_2036説明板

Img_2038実入トンネル 《地図

左の歩道トンネルを抜ける。山側を通る新坂道は途中で途切れるようだ。昔は波の押し寄せる岩浜づたいを千葉大研究センターの先の松ヶ鼻を回って天津に抜けていたという。

Img_2044トンネル水族館になっている。

女子美術大生の壁画が涼しげだ。

新神明橋で神明川を渡る。外房線の北側に天津神明神社がある。
新町から仲宿へと進んで行く。

Img_2054日澄寺  《地図

小松原法難で日蓮の救出に駆け付け殉教した天津領主・工藤左近尉吉隆の居館に、弘安5年(1282)、子の日隆が父の菩提供養に建立したという。

Img_2053説明板

Img_2058善覚寺

摂州西宮の出身者が旦那寺としていた。天津村は近畿地方から干鰯(ほしか)生産のために漁民が進出していた。次第に土着するようになったが、元禄の大地震による津波で大きな損害を受け、地元漁民により漁場から締め出されていったそうだ。

Img_2059仲宿の通り

Img_2061呉服店

Img_2064大日堂(中)・淡嶋堂(右)・稲荷社(左)(ここは海福寺境内?)

Img_2063説明板

「淡嶋堂は江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を勧請したのが始まり」とある。

Img_2070須賀神社

Img_2071萬福寺

Img_2077「清澄道」道標(明治24年) 《地図

北方の清澄寺への道標で、この先の天津交差点から、ここ天津小湊公民館の敷地内に移設された。

Img_2080二ツ山(葛ヶ崎(くずがさき)城址) 天津橋(二タ間川)から

天正8年(1580)、大多喜城正木憲時里見義弘が死んだ隙に安房の地に侵入し、葛ヶ崎城を攻撃した。城を守っていた角田丹後守は討ち死にし、城は落ちたが、里見の軍勢が押し寄せて来ると、正木氏は大多喜に引き上げたという。
外房の海をおさえるための湊城で、 幕末の異国船打払い用の砲台跡もあったといわれる。

Img_2085八重門(ヤエム)坂を上る。 《地図

葛ヶ崎城の大手門があったともいう。右に袋倉川が流れている。

薬師堂バス停から下って行く。浜荻地区には「山際の道」と「中通り」があるが、山際の道を通る。

Img_2091貴船神社② 《地図

Img_2093多聞寺

小松原法難で日蓮を助けた北浦忠吾・忠内兄弟の墓がある。

Img_2096(日蓮)疵(きず)洗い井戸(山際通り沿い)

小湊の日蓮寺にもあった。『伊南房州通往還⑥

東町交差点を横切って行く。

Img_2105八幡神社前 《地図

左に御嶽様の石祠と庚申塔(宝永6年(1709))
八幡神社は鳥居をくぐった外房線の北側にある。

Img_2109八幡神社

フェンスの下が外房線

Img_2106由緒

Img_2117夜長川橋から夜長川(上流方向) 《地図

日蓮はこのあたりで小松原法難での疵の手当をしながら侍者に時を尋ねた。侍者が四更なりと答えると、日蓮は「夜もまた長いかな」と嘆じたという。

Img_2116「奮蹟夜長川」碑

無残にも残欠という体だ。

Img_2118「新田の道標」の祠(分岐点) 《地図

Img_2121地蔵道標(天明5年(1785))

右側面に、「小松原十一丁」・左側面に、「なご道八り」で、右は小松原法難にまつわる掛松寺から小松原山鏡忍寺への道。左が那古(なご・館山)への往還道。

Img_2123鴨川シーワールド

土曜日で親子連れなどが、向かっている。

Img_2125永明寺向唐門

文化9年(1812)改築

Img_2130寺と思ったら旅館だった。

Img_2133飛梅山龍性院(りゅうしょういん)

Img_2134逆梅

源頼朝が手近の梅の枝を折って逆さに挿したところ根付いたという。

Img_2135本堂向拝の龍の彫刻

上段の龍は後藤利兵衛橘義光の慶応4年(1868)作という。(下段の龍は平成12年の製作)

Img_2137旗掛松碑 《地図

ここは白旗神社境内だが、社殿は見当たらない。

Img_2139旗掛松の切り株

石橋山の合戦に敗れ、安房国に逃れてきた源頼朝は貝渚の一戦場(いっせんば)で長狭六郎常伴を破り、この地に白旗を掲げて上総介広常待ったという。『源頼朝と鴨川』・『長狭六郎常伴と鴨川

「待崎」の地名由来でもある。

Img_2145待崎橋から待崎川河口方向

Img_2156諏訪神社 《地図

Img_2149説明板

Img_2155本殿向拝の龍の彫刻

初代伊八の作という。

Img_2154説明板

諏訪神社の隣の墓地は太子堂跡という。

Img_2159稲荷社?

地元では「御天王様」と呼んでいるそうだ。

Img_2161道標(右の電柱脇) 《地図

Img_2164道標(明治43年)

「→ わだ あさひ ・・・・・」・「・・・・ おほやま・・・・」?
この道標は、『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書)にも載っていない。

本町通りを進む。右方の日枝神社慶長地震の大津波の後(前記の『伊南房州通往還』では元禄の大津波後)に築かれた「津波避難丘」に建てられた。元禄大地震では、この丘に逃げ上ったとの言い伝えがあり、犠牲者の供養碑が建てられているようだが、うっかり通り過ぎてしまった。 《地図

Img_2171加茂川橋から河口方向

架橋は明治20年で、それまでは渡し船だった。
前原町は漁業より干鰯を中心とする物産集積地で、加茂川沿いに船着き場が並んでいた。元禄大地震の津波で河岸は崩され、加茂川の隆起で船の出入りができなくなり、漁民も天津や浜荻に移って衰微していった。

Img_2172加茂川橋のたもとの小社

水神社か?

Img_2180万騎坂を上る。《地図

源頼朝が挙兵した時、多くの武士が参集したことによる坂名という。その他、平忠常の安房国府攻めの時、犬掛の合戦での里見義堯の義豊攻めの際の軍勢揃いとする論考などもある。

Img_2183金剛院境内

左は百番巡礼供養塔(弘化3年(1846)・
右は『伊南房州通往還』によれば、「伝梶原清の墓」(応永10年(1403))で、勝負事にご利益があるといい、博徒たちが欠いて持って行ったため笠や相輪の部分が破損しているという。平(藤原)景清のことか。梶原景清もいるが?

Img_2187妙昌寺

仁王門前に船の碇が奉納?

Img_2189魚見塚展望台へ上る。

右は妙昌寺

Img_2191八雲神社  《地図

ここから浅間神社を通って魚見塚に行く道があるのだが、遠回りしてしまったようだ。

Img_2193山道のような所を上ると展望台の下に出た。

Img_2207魚見塚展望台

仏の化身の乙女の「暁風像」の後ろ姿。魚の群れを探さずに、何を見ているのか?

Img_2194説明板

Img_2208加茂川方向

Img_2204仁右衛門島方向

Img_2211弁天島方向

展望台から下って県道247号に出る。

Img_2219宝光寺 《地図

「北ん寺」(宝光寺)と「中の寺」(西福寺)が合併して西福山宝光寺になったそうだ。

Img_2222仁右衛門島(正面)

源頼朝や日蓮の伝説のある島だが、個人の所有で渡船と観覧料で1350円也。

Img_2225太海駅(内房線)

外房線と思っていたが、安房鴨川駅までは内房線だった。

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