伊南房州通往還⑧
2017年5月21日
太海駅(JR内房線)・・県道217号・・・薬師堂・・・地蔵祠・・・一つ地蔵・・・旧道・・・西院の河原地蔵・・・西徳寺・・四社神社・・・天面漁港・・・江一号踏切(内房線)・・・山生の入江・・・(出世不動尊)・・・(内房線)・・・回国供養塔・牛頭観音・・・道標・・(内房線)・・波切不動尊・・・(内房線)・・・名馬橋(名馬川)・・・薬師堂・・・道祖神・・・薬王院・・・観音寺墓地・・・洲貝川橋(洲貝川)・・・(南房総市)・・・諏訪神社・・・長香寺・・・長者川橋(長者川)・・・六地蔵・・・和一号踏切(内房線)・・・地蔵祠・・・和田浦駅・・・南一号踏切・・・観音堂・・・熊野神社・・普門寺・・・小浦踏切(内房線)・・上野観音堂・・・(真浦川)・・・三界万霊塔・・・地蔵祠・・・和田サーフ橋・・旭橋(三原川)・・・(温石川)・・・正運寺・・・南三原駅(JR内房線)
【ル-ト地図】
薬師堂 《地図》
中央は延享2年(1745)に浜波太村の女念仏講中15人の造立。
一つ地蔵(左) 《地図》
右は昭和30年代に、このあたりの大きく湾曲していた入江を埋め立てて道路を改修した時の殉職者供養の地蔵。
西院の河原地蔵堂(右) 《地図》
昔はこのあたりは絶壁が続く、波太村と天面村の間の難所だった。海岸には石がゴロゴロしていて、「賽の河原に似ている所からこう呼ばれるようになったようだ。
幼児や若くして亡くなった人の霊が祀られ、11月3日の御施餓鬼には近郷近在から多くの人が訪れるという。
右はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、天面村への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。塞神・道祖神と同類だろう。浅間宮は北西の浅間山にあるという。
善光寺式三尊像の銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像が安置
土地の人は「ウチカンサマ」と呼ぶ天面村の鎮守
山生の入り江 《地図》
かつては50~60トンの舟も入ったそうだ。
日本回国供養塔(文化2年(1805))・地蔵・牛頭観音(右端)・その後ろが庚申塔(延宝8年(1680))だろう。
国道を横切り、岩屋山波切不動尊に向かう。
波切不動参道 《地図》
右の草むらに倒れかけて立つのが道標か?
「右ハはまみち 左ハきよすみ道四里」・「右ハなこ道六り 左ハはまみち」だそうだが摩滅していて読めず。
踏切などはないが致し方なし。「危険」の標識はあるが「横断禁止」とはなっていない。
アクセスが悪いせいか参拝客などは見当たらない。境内も荒れた感じだ。
寛政から享和にかけて太夫崎村や前原町の人々が奉納したものという。
水は流れ落ちているのだが写真だと分からない。
滝の向こう側には「駒穴」と呼ばれる洞窟があり、源義経が一の谷の合戦の時、鵯越の坂落しで活躍した名馬の太夫黒が出た洞窟という伝説がある。嶺岡山地は古くから馬の放牧が行われ、江戸時代には嶺岡牧が置かれた。太夫黒伝説が生まれたこととも関連があるか。
「太夫」はこのあたりの太夫崎からきている。『源頼朝と鴨川』
名馬橋(名馬川)を渡って国道に出る。《地図》
名馬「太夫黒」に由来する名だ。
東覚寺薬師堂 《地図》
鎌倉末期の板碑が保存されているそうだ。
道祖猿田彦大神(嘉永4年(1851)) 《地図》
観音寺墓地 《地図》
左は延命地蔵の廻国供養塔(享保6年(1721))
右は廻国供養塔(享保11年(1726))
鴨川市から南房総市に入る。
諏訪神社 《地図》
右に手水鉢(慶應4年(1868)正月の銘)
花園村出身の「外の海」のようだ。
赤穂藩士片岡源五右衛門の下男で、四十七士の菩提を弔いながらこの地に巡錫し、長者川上流の不動ヶ滝の窟で入定したという。
花嫁街道ハイキングコース分岐地点
防風・防潮・防砂・防暑・防寒などの多彩の役割。
長者川橋 《地図》
ここにも藁の大蛇の「つなつり」(綱吊り)で、悪疫退散「無病息災」だ。
和一号踏切で内房線を横切る。
ここで一休みした。
南一号踏切で再び内房線を横切る。
この手前の千葉銀行の所が和田町役場跡。
熊野神社 《地図》
三界万霊塔(天保2年(1831)) 《地図》
ここを右に入って行く。
和田サーフ橋 《地図》
旭橋から
海雲寺の前あたり?
この先の右側にも地蔵の祠が2つある。
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