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2018年9月 3日 (月)

鎌倉街道(堀兼道①)

2018年9月1日

航空公園駅(西武新宿線)・・・鎌倉街道(上の道)・・・堀兼道分岐地点・・・旧鎌倉街道標柱・・・(西武新宿線)・・・新所沢駅東口入口交差点・・堀兼道・・・(県道6号)・・・馬頭観音・・・ネオポリス西交差点・・・フラワーヒル交差点・・・旧鎌倉街道沿里山保全地域・・・八軒家大井戸跡標柱・・・TRY・・・(狭山市)・・・馬頭観音・地蔵・・・堀兼神社・堀兼の井戸跡・・・(県道126号)・・・権現橋(不老川)・河岸街道交差地点・鎌倉街道標柱・石造物群・・・(県道8号)・・・堀兼中学校・・・新狭山ハイツ・・・鎌倉街道標柱・・・(久保川)・・・愛宕神社・東三ツ木交差点(県道340号)・・・三ツ木古戦場跡(三ツ木公園)・・・新狭山駅(西武新宿線)

 所沢で鎌倉街道(上の道)と分かれて北上し、歌枕の「堀兼の井」を通って上野国・下野国へと向かっていた上の道の支道の堀兼道を行く。支道といっても古代の東山道武蔵路を踏襲すると推定されている古道だ。

  【ル-ト地図

Img_8696堀兼道(右)分岐地点 《地図

左が鎌倉街道(上の道)

 

Img_4715説明板

 

Img_8698車も少ない静かな道を北上する。

 

Img_8701旧鎌倉街道標柱 《地図

ここで堀兼道は途切れる。西武新宿線をくぐって新所沢駅東口入口交差点の先の堀兼道の復活地点まで行く。

 

Img_8708右に入るのが堀兼道 《地図

「自動車の通行できません」との看板

 

Img_8710確かにここは車の通行はできない。下には小さな流れがある。

 

直線道路をひたすら北方向に向かう。

Img_8714馬頭観音(左) 《地図

 

Img_8718鎌倉街道(上の道)を歩いた時に「七曲井戸」あたりで狭山茶の新茶を買った。七曲井戸も「堀兼の井」の一つだ。

 

Img_8721樹林帯を挟んで並行する道の車道側

 

Img_8728静かな歩道側を行く。

 

Img_8730車道と歩道の間の今は樹林帯のところを武蔵国国府から上野国、下野国へ通じていた東山道武蔵路が通っていたのか? 『鎌倉街道(上の道④)』 《地図

 

Img_8739旧鎌倉街道沿里山保全地域

このあたりは所沢市が狭山市へ細長く食い込んでいる。《地図

 

Img_8742説明板

 

Img_8757八軒家大井戸跡標柱(右)

 

Img_8763ここで並行道の歩道は終わる。《地図

左はTRYの敷地

 

Img_8766_2地蔵(左・元禄?年) 《地図》あたり?

右前方に堀兼神社の社叢

 

Img_8802_2堀兼神社

 

Img_8772庚申塔・馬頭観音・月山湯殿山供養塔

三猿庚申塔(左端・延宝5年(1677)
庚申塔(左から3番目・安永10年(1781)で狭山市最古の文字塔)
三猿庚申塔(右から2番目・寛文9年(1669))

 

Img_8801_2随身門

 

Img_8776_2説明板

 

Img_8781_2本殿

 

Img_8783_2説明板

 

Img_8797_2堀兼の井

「はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野寺あるてふ」  紀貫之

「武蔵なるほりかねの井の底を浅み 思ふ心を何に喩(たと)へむ」 詠み人知らず(「古今和歌六帖」の第二帖)

「浅からず思へばこそはほのめかせ 堀兼の井のつつましき身を」  源俊頼

「武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしく水の近づきにけり」  藤原俊成

「汲てしる人もありなんおのずから 堀兼の井の底の心を」  西行

「いまはわれ浅き心を忘れみず いつ堀兼の井筒なるらん」  慈円

とわずがたり』には「堀兼の井は、あとかたもなくて、ただかれたる木の一つ残りたるばかりなり」とあり、

廻国雑記』で道興准后は、「おもかげぞかたるに残る武蔵野や 堀かねの井に水はなけれど」、「昔たれ心づくしの名をとめて 水なき野べを堀かねの井ぞ」 と二首を詠んでいる。さらに道興准后は北上し、「やせの里は、やがて此の続きにて侍り。里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ」と記し、入間川を渡って行った。(八瀬は川越市のこのあたり《地図》で、老人ホーム八瀬の里・八瀬大橋などにその名を残す)
道興准后が東国を旅した応仁・文明の頃には、まだ東山道武蔵路を引き継いだ鎌倉街道は残っていたのだろう。
「堀兼の井」の古歌は数あれど実際にこの地を訪れたのは西行と道興准后だけか。また、枕草子の「井はほりかねの井…」は有名だが武蔵野にあるとは言っていない。『武蔵風土記』には「其の旧跡ははっきりせず。当郡はもとより他の郡にも堀兼の井跡と称する井が多くあって何れを実の跡とも定めがたし」と記す。入曽の「上の道」沿いの「七曲井戸」、羽村駅前の「まいまいず井戸」もその一つで、先程の八軒家大井戸もそうだろう。新宿区の逢坂下には兼の井の伝説も残っている。

 

Img_8790_2説明板

 

Img_8809_2権現橋から不老川(上流方向) 《地図

上流の上の道の入曽橋のそばに七曲り井戸跡がある。その井戸も堀兼の井の一つだ。ここは新河岸川の引又河岸への河岸街道との交差地点でもある。

 

Img_8815_2鎌倉街道標柱

権現橋の袂。地蔵の隣は子大権現塔(文政5年(1822))

 

Img_8819_2この交差点を渡ってすぐに右方向に林に中に入るのが旧道で直進する道は新道。 《地図

 

Img_8822_2ここから林の中へ入ったが・・・。《地図》あたり

 

Img_8823林の中に道はついている。

 

Img_8826_2気分のいい道だがちと不安ではある。

 

Img_8829_2ここは道ではないか?

 

Img_8830_2左は小林製作所だろう。

 

Img_8833_2林からの出口が見えて来た。

蜘蛛の糸が顔と腕にまとわりつき、汗で納豆が糸を引いているみたいになった。

 

Img_8835畑の中を通って行く。

 

Img_8837ネギ畑の向こうは堀兼中学校

 

Img_8838車道に突き当たって右折して行く。《地図

この道がさっきの交差点を直進して右に曲がって来た道だ。

 

Img_8843堀兼中学校の前で左折して北上する道。

 

Img_8847右の新狭山ハイツ案内図の左上隅に「鎌倉街道」と表示されている。《地図

 

Img_8851鎌倉街道標柱

 

この先、堀兼道の道筋はいくつかあったようだ。北上して上野国、下野国に向かう東山道武蔵路を踏襲する道興准后も通ったであろう道筋は、本田技研工場に突き当たって途切れ、その先の道筋も定かでない。小さな流れの久保川を渡った先で左(北西)方向に進み、三ツ木古戦場跡から八丁の渡し跡へ出て入間川を渡り、城山砦跡あたりから上宿を通り、智光山公園の南側の上の道との合流地点を目指す。

Img_8859愛宕神社 《地図

 

Img_8862東三ツ木交差点を越えて直進する。

 

Img_8867三ツ木古戦場跡(三ツ木公園) 《地図

 

Img_8868説明板

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