田柄川緑道
2019年1月11日
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【ル-ト地図】
練馬区の光が丘を水源として東方向に流れ、板橋区の城北中央公園の東南側で石神井川に注いでいた田柄川跡の緑道を行く。
坂上から東に小次兵衛久保坂が下り、さらに東に帳元の坂が上って行く川越街道。
昭和7年赤塚氷川神社を勧請して地元町会の鎮守とした。
樹林の下は貯水池になっていて、溜まった雨水は田柄川(暗渠)から石神井川へと流れる。
バードサンクチュアリには平日は入れず。ひびき橋を渡って田柄川の水源の秋の陽公園に向かう。
水屋から湧き水が流れ落ちている。 《地図》
ここを田柄川(緑道)歩きの起点とし、板橋区の城北中央公園の先の石神井川との合流地点の桜橋を終点として歩く。
水の流れが見えるのは公園内だけ。水田地帯だったことを偲ばせる田んぼが作られている。
「田柄川幹線埋設位置石標」(正面下)
この下に暗渠となった田柄川の流れがあるということだろう。正面の長屋門風の建物をくぐって行く。
田柄川緑道が始まる。《地図》
この先で緑道から離れ北の寺社に寄る。田柄川の北側50mくらいに並行して、上板橋駅と駐留米軍住居のグランドハイツ(現光が丘公園)を結ぶ東武啓志線が走っていたようだが、その痕跡は残らずか。
右の柵内の水神宮碑は田柄用水記念碑(明治26年・練馬村玉川上水分水紀念碑)で、玉川上水分水事情が記され、明治初めの当地における分水の苦心を伝えている。
豊島八十八ヶ所霊場42番札所
例大祭での金魚市は今でも開かれているようだ。
田柄川水位状況標(正面)は、-4.7mを標示している。このところ雨は降らず、暗渠にも水はほとんど流れていないか。
東武啓志線交差地点あたり 《地図》
徳川綱吉御殿跡之碑(右の貨幣形の円盤) 《地図》
寛文年間(1661~72)に、後に江戸幕府第5代将軍となる徳川綱吉がこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てた。将軍となって「生類憐みの令」を出す前の話。
また綱吉が脚気に悩んで練馬村へ転地療養した時の御殿がここで、病のつれづれに栽培させたのが練馬大根の起こりだともいう。『練馬の地名今むかし』
棚橋歩道橋で富士街道(ふじ大山道・環八通り)を越える。
「富士大山道の橋」とある。
高徳橋跡を渡った所。
右は東本村庚申塔(貞享2年(1685))の祠で、庚申塔の右の笠付き石塔(宝暦2年(1752))の左側面には「たなし道」(田無道)と刻まれているそうだ。
山門の左前
山門の右前
板橋区に入り城北中央公園の東側沿いを行く。
桜川緑道となる。
板橋区内の田柄川は桜川と呼ばれ、板橋区桜川地区から下流を桜川緑道というそうだ。
桜橋(石神井川) 《地図》
石神井川(上流方向)
右から田柄川が流れ込むのだが、流れていない。ここを田柄川緑道歩きの終点とした。
石神井川右岸を上流に向かう。
日当り満点で冬でも暖かそうで住み心地がよさそうだ。
狼型狛犬(嘉永7年(1854))
狼というより狐顔、馬顔で迫力がないか。
五本ケヤキ 《地図》
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