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2019年3月14日 (木)

東京坂道散歩(本郷界隈)

2019年3月9日

根津駅(地下鉄千代田線)・・・①弥生坂・・弥生式土器発掘ゆかりの地碑・・・②暗闇坂・・弥生美術館・竹久夢二美術館・・・(本郷通り)・・・求道会館・・・徳田秋声旧宅・・・蓋平館別荘跡(石川啄木旧居跡)・・③新坂・・・④菊坂・・⑤胸突坂・・・⑥梨木坂・・・菊坂・・火伏稲荷神社・・伊勢屋質店跡・・樋口一葉旧居跡・・・⑦鐙坂・・金田一京助旧居跡・・・・⑧炭団坂・坪内逍遥旧居(春逎舎)跡・・旧諸井恒平宅・・・⑨本妙寺坂・・真砂遺跡・・・(菊富士ホテル跡・赤心館跡・・・本妙寺旧跡・・・長泉寺・・・菊坂・・⑩金魚坂・・・⑪見返り坂・⑫見送り坂(中山道)・・かねやす・・・桜木神社・・・喜之床跡(啄木旧居跡)・・・本郷弓町のクスノキ・・・文京ふるさと歴史館・・⑬東富坂上・・⑭旧東富坂・・・⑮新坂(外記坂)・・・出世稲荷神社・・・⑯壱岐坂下・・⑰旧壱岐坂・・・金刀比羅宮・水道橋稲荷神社・(高松藩下屋敷跡)・・⑱金比羅坂・・・昌清寺・・・興安寺・・・⑲忠弥坂・・・宝生能楽堂・・・(対馬藩宗家中屋敷跡)・・・無名の坂・・・⑳建部坂・・・㉑お茶の水坂・・・済生学舎発祥地碑・・㉒富士見坂・・・本郷給水所公苑・・・三念寺・・・(本郷通り)・・・本郷座(春木座)跡・・・水道歴史館・・・㉓油坂・・・お茶の水橋(神田川)・・・御茶ノ水駅(JR総武線)

    【ル-ト地図

Img_2041弥生坂を上る。

Img_2046弥生式土器発掘ゆかりの地碑(弥生坂の坂上近く)

江戸時代はこの地は水戸藩の中屋敷で、明治5年、町家ができて向ヶ丘弥生町と名づけられた。 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。

Img_2047暗闇坂(坂下方向)

江戸時代は、加賀屋敷の北裏側(現・東大)と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂だったようだが、今は陽光が眩しい明るい坂だ。坂の途中の左側に弥生美術館・竹久夢二美術館がある。

Img_2049弥生美術館・竹久夢二美術館

弥生坂の坂上を進み、本郷通り(中山道)を横切る。

Img_2063求道会館 《地図

Img_2060説明板

Img_2085徳田秋声旧宅 《地図

Img_2066説明板

Img_2069蓋平館別荘跡(太栄館) 《地図

右は石川啄木の「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の歌碑。啄木の故郷の渋民村は『奥州街道(盛岡城下→渋民宿→好摩駅』で訪れた。

Img_2067説明板

Img_2070新坂を下る。

文京区にある6つの新坂の一つ。

Img_2072説明板

Img_2074菊坂 本郷通りまで上る長い坂。

菊畑があり菊花を作る者が多く住んでいた。『ぶんきょうの坂道』

Img_2076胸突坂を上る。

昔はこの急坂を菊坂と呼んでいた。区内に胸突坂は3つある。

Img_2078鳳明館台町別館 《地図

向い側が本館

Img_2082梨木坂を下って菊坂の途中に出る。

Img_2083説明板

Img_2084火伏稲荷神社 《地図》(菊坂の途中)

Img_2085_2伊勢屋質店跡

「此の夜さらに伊勢屋のもとに走りて預けおきたるを出し、ふたたび売りに出さんとするなどいともあわただし」(「一葉日記」・下谷竜泉寺への引越しの準備)
下谷竜泉寺の一葉の旧居跡は、『東京散歩(台東区①

Img_2086説明板

Img_2087樋口一葉旧居跡

井戸は当時はつるべ井戸だったか。ここは表通りの菊坂の裏側の道を入った低地だ。司馬遼太郎は「街道をゆく」(本郷界隈)の中で、「一葉は明治二十六年三月、二十二歳のときの日記に、このあたりの地形を一行あまりで表現している。 ”我が家は、細道一つ隔て上(うえ)通りの商人どもが勝手とむかい合い居たり。” 文中、上通りというのは、菊坂台の通りのことである。通りの商家は、お尻を谷にむけているということであろう。」、と書いている。『一葉日記 上巻』の204頁。 さすが一葉の表現力は見事だし、”商人ども”と書くところにも、貧乏すれども一葉の自負が感じられるか。やせ我慢かも知れないが。

Img_2088鐙坂(あぶみざか)を上る。

大田区にも鐙坂、「唐津街道④」には鎧坂(よろいざか)がある。坂上の左側が金田一京助旧居跡。

Img_2089説明板

Img_2090説明板

Img_2149炭団坂

左の建物が坪内逍遥旧居(春逎舎(はるのや))跡。故郷の中山道太田宿の美濃太田駅前には逍遥の銅像が立っている。『中山道(太田宿→加納宿)

Img_2094説明板

Img_2150説明板

Img_2098諸井恒平宅 《地図

Img_2100本妙寺坂を下って上る。

Img_2101説明板(真砂遺跡・坂の途中)

Img_2111向い側の坂から本妙寺坂方向

左に説明板が2つ。

Img_2102説明板

振袖火事の火元の諸説には「本妙寺火元引き受け説」もある。

Img_2103説明板

Img_2107長泉寺

東隣りが本妙寺の旧跡で、その南側(本郷5-5)に啄木が下宿した赤心館菊富士ホテルがあった。『江戸切絵図
豊島区に移転した本妙寺は『東京散歩(豊島区)』に記載。

Img_2116金魚坂

坂の途中に金魚の卸問屋、坂上に喫茶店「金魚坂}がある。

Img_2118見返り坂から見送り坂中山道

今は坂と呼べるほどの傾斜はない。

Img_2119説明板

Img_2121かねやす(本郷三丁目交差点)

いつ来てもシャッターは閉まっている。閉店したのだろう。

Img_3825説明板

Img_3826説明板の上

Img_2125桜木神社

Img_2131喜之床跡(啄木旧居跡)

建物は明治村に移築・保存されているが、今も理髪店は健在だ。

Img_2129説明板

Img_2138本郷弓町のクスノキ地図

Img_2148文京ふるさと歴史館

Img_2145東富坂(右)・旧東富坂(直進)

小石川の富坂の東にある坂。鳶坂が旧名。真砂町へ上る坂なので真砂坂の別名がある。坂の北側は江戸時代松平右京亮の中屋敷があり、「右京山(右京ケ原)」と呼ばれ、小説『姿三四郎』の舞台となった。『ぶんきょうの坂道』

Img_2156旧東富坂

別名を鳶坂、飛坂。鳶が多かったので鳶坂、それが転じて富坂。春日町交差点の所は昔、二ケ谷と呼ばれた。谷を飛び越えて両方向い合っている坂で飛び坂といわれた。『ぶんきょうの坂道』 ちょうど地下鉄丸ノ内線が通って行く。

Img_2157新坂②

白山通りへ下る石段坂。

Img_2158説明板

Img_2159出世稲荷神社 《地図

春日局の出世にちなむ神社。

壱岐坂下を横切る。

Img_2166旧壱岐坂(壱岐殿坂)

小笠原壱岐守の下屋敷があった。

Img_2170金刀比羅宮(東京分社)

Img_2172金比羅坂を上る。

Img_2177昌清寺

徳川忠長ゆかりの寺

Img_2176説明板

Img_2178忠弥坂

丸橋忠弥の墓は宿坂下の金乗院にある。『豊島区の坂②

左下の都立工芸高校の敷地は松平讃岐守の屋敷跡、それ以前は対馬藩宗家中屋敷だったようだ。『江戸切絵図』(水戸殿の左下)

Img_2180説明板

Img_2183宝生能楽堂

現代風の建物だった。

Img_2187無名の急坂 

Img_2189建部坂を下る。

昔はこのあたりは初音の森といわれ、見晴らしもよかったのだろう。

Img_2191説明板

Img_2192お茶の水坂に出る。

Img_2195済生学舎発祥地碑(順天堂大の前)

明治15年に湯島の現東京ガーデンパレスの地へ移転した。『中山道(日本橋→戸田の渡し跡)』に記載。

Img_2194説明板

Img_2198富士見坂を上って振り返るが。

この坂は真南に向いているが、江戸時代には高い建物もなく、西横の方向に富士山がお茶の水の谷を越えてよく見えたのであろう。『ぶんきょうの坂道』

東京(23区)の富士見坂

Img_2205本郷給水所公苑

中央はカルメン像

本郷通りを横切る。

Img_2209本郷座(春木座)跡 《地図

Img_2208説明板

Img_2217東京都水道歴史館

Img_2218油坂を下る。

別名を揚場坂。神田川の堀端に舟をつけて荷物の揚げおろしする場所があり、そこに通ずる坂を揚場道坂といい、後に揚場坂となった。『ぶんきょうの坂道』 揚場が油に転じたのか。これが今日の最後の坂だ。

Img_2219神田川を行く神田川クルーズ

好天の土曜日でずいぶん遊覧客が乗っている。花見の頃はかき入れ時だろう。

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