« 2020年2月 | トップページ | 2020年6月 »

2020年5月29日 (金)

将門散歩(さいたま市・鴻巣市)

2020年5月26日

東浦和駅(JR武蔵野線)・・・井沼方公園・・・明神社・・・東浦和駅(JR武蔵野線・京浜東北線)→大宮駅・・・神明橋(鴻沼排水)・・・将門館跡(大平公園)・・・駒形神社・・・大宮駅(JR高崎線)→鴻巣駅・・・大野神社・・・(伝)源経基館跡・城山・・・馬頭観音(2基)・・・滝馬室冠水橋・・・甚兵衛稲荷神社・・・川幅日本一の標柱(御成橋・荒川)・・・滝馬室氷川神社・・・阿弥陀堂・・・馬室陸橋・・・?堂・・・(北塚古墳)・・・常勝寺・・・庚申塔・馬頭観音・・・馬頭観音(2基)・・・野宮神社・・・稲荷神社・・・鴻巣駅

  【地図】 (『将門散歩』)

Img_7990井沼方公園

 

Img_7986井沼?

調整池のようだ。河津桜も植えられていて、来年はきっと花見もできるだろう。

 

Img_7991明神社

社殿は鳥居と斜めに建っている。将門の家来が戦に敗れて落ち延び、この地の国谷家にかくまわれた。この縁で将門の末裔に当たる奥州相馬氏が祀った相馬小高神社から分霊を当地に勧請したという。

 

Img_7992由緒

 

東浦和駅から大宮駅に向かう。

Img_8004 大平(おおだいら)公園(将門館跡)

大宮二十景」の「将門とダイダラボッチの大平公園」

 

Img_8001説明板(将門伝説)

 

Img_8008駒形神社

建物の間で窮屈そう、それとも三方をがっちりと守られた要害の地に鎮座するか? 鎮座といっても社殿はなく「駒形神社」の石碑があるのみだが。将門が乗っていた白馬を祀ったと伝え、付近の畑からは白いサツマイモが採れ、白馬の変身といわれたとか。。

 

Img_8015旧家のブロック塀の凹みに大木が何本もそびえている。

 

Img_8017神明橋(鴻沼排水)

ここは5年前の『鴻沼川③』で歩いているのだが、すっかり忘れている。

 

大宮駅から鴻巣駅に向かう。

Img_8024長板塀の旧家

 

Img_8027大野神社

天慶元年(938)に、源仕が社を造営したことに始まるという。 源経基が葦毛の馬を奉納したともいう。源仕の箕田源氏ゆかりの所は、『中山道(上尾宿→鴻巣宿)』に記載。

 

Img_8025由緒

 

Img_8029(伝)源経基館跡・城山

将門記』の源経基が妻子を連れて避難した「狹服山」(さふくやま)の候補地の一つ。

 

Img_8030説明板

細かすぎて読みづらい。

 

Img_8034館跡は林になって土塁跡に囲われている。

 

Img_8043馬頭観音

観音像と文字の2基。

 

Img_8046滝馬室冠水橋に向かう。

麦畑の向こうは御成橋。

 

Img_8055滝馬室冠水橋(荒川)

年に数回、台風で冠水し通行止めになるそうだ。車も通っていたようだが、現在はどうか?

 

Img_8051荒川下流方向

正面は御成橋

 

Img_8058勘兵衛稲荷神社

こちらは裏参道だろう。記念石碑によれば、慶長11年(1606)に加藤甚左衛門が創祀し、宝暦3年(1753)に子孫の勘兵衛が、「正一位勘兵衛稲荷大明神」の神璽を授かったようだ。

 

Img_8063社殿

 

Img_8068 日本一の川幅標柱(御成橋

ここから630m上流が川幅日本一(2537m)というから、滝馬室冠水橋の上流200mあたりだ。「御成」とは当地へたびたび鷹狩に来た徳川家康にちなむという。

 

Img_8069説明板

 

Img_8073滝馬室氷川神社

 

Img_8071説明板(的祭(まといさい)・(まとうさい))

坂上田村麻呂の悪竜(大蛇)退治に由来する神事で、将門でも百足(ムカデ)退治の藤原秀郷でもない。

 

Img_8081阿弥陀堂

 

Img_8082阿弥陀さんがちゃんと鎮座していらした。

 

Img_8092 ?堂

左前は馬頭観音(寛政7年(1795))、左の樹林の中に北塚古墳があるのだが、何度も行ったり来たりしたが入口が分らず、近づけなかった。

 

Img_8100常勝寺

「的祭」の説明板の悪竜(大蛇)が巻きついたという桜の巨木(蛇桜)を探したが、見当たらなかった。 このあたりの「サブ山」を「狭服山」とする説もあるが、荒川に近く起伏もなく、今は「山」という感じではない。北方の(伝)源経基館あたりの方がふさわしいのでは。ちなみに「狭服山」は、①大蔵館跡・大蔵神社(嵐山町)、②杉山城址(嵐山町)、③松山城址(東松山市)、④将軍塚(所沢市)などの説もある。

 

  寄り道しながら鴻巣駅に向かう。

Img_8106馬頭観音・庚申塔

両者とも文化2年(1805)の造立。この先にも馬頭観音が2基並んでいる。

 

Img_8115野宮神社

原馬室の獅子舞・棒術

 

Img_8117由緒

 

Img_8126稲荷神社の前

地蔵さん・馬頭観音・古木・鳥居

 

Img_8122正一位稲荷大明神なのだ。

これで今日の予定を終了し、鴻巣駅に向かった。

 

| | コメント (0)

2020年5月27日 (水)

将門散歩(つくばみらい市・守谷市)

2020年5月24日

新守谷駅(関東鉄道常総線)・・・道標?・・・禅福寺・・筒戸城址・・・妙見八幡神社・御出子城址あたり・・・つくばエクスプレス総合基地・・・永泉寺・・・満天星通り・・天の川公園・・星の広場・将門並木(松並木公園)・・・(松並西交差点)・・・海老沢踏切(関東鉄道常総線)・・・土塔森林公園・・・長龍寺・・・(つくばエクスプレス線)・・・(幸福の路)・・・(鈴塚交差点)・・馬頭観音・道標・・・日枝神社・鈴塚・・・(五反田川)・・・?清水・・・天満宮・・・成田不動石碑(お化け石)・日光大権現・・海禅寺・・・(羽中川)・・興世王の分城あたり・・今城橋(羽中川)・・・乙子地区・石神神社・・・古山の砦跡あたり(小山地区)・・・郷州小学校(郷州街道・桔梗ヶ原跡あたり)・・・郷州文化財公園・山の神祠・・・羽黒神社・・・南守谷駅(関東鉄道常総線)

 【地図

(参考:『平将門伝説』(守谷市)・参照:『将門散歩』)

関東鉄道常総線  Img_7844

一輛だが乗客も一人ぐらいで、まるで貸切電車のようだ。

 

Img_7851 禅福寺

承平元年(931)に平将門の創建と伝える。妙見菩薩が将門に矢を授ける場面を描いた掛け軸、将門が深く尊崇した十一面観音像を安置するという。

 

Img_7849 御出子観音

「御出子」(おんでし)は将門に縁のあるこのあたりの地名。

 

Img_7854筒戸城跡の濠跡あたり

 

Img_7852 説明板

 

Img_7853 禅福寺が本丸と二の丸の間にある。

 

Img_7855御出子城址あたり?

将門とこの地の女性(車御前?(土豪・中村庄司の娘))との子どもで、「若松」と名づけたという。その子は立派な風采をしていたので、将門の叔父の平良文が「あぁ、御出子」といい、これが地名になったという伝承が残る。

 

Img_7856 妙見八幡神社

平良文の建立と伝える。社殿は小さいが三春桜の大木が見事だ。

 

つくばエクスプレス総合基地沿いを通り、つくばみらい市から守谷市に入る。

Img_7871

永泉寺

将門が亡んだ後、その家族や生き残った者たちが将門や影武者の土偶をこの地に祀ったことに始まる寺と伝える。

聖徳太子立像」(守谷市文化財№4)・「沼崎山畧縁起」(文化財№13)には、将門が自分に似せて作った土偶を安置し、堂宇を建てて代々これを守ってきたことが記されている。

 

Img_7874満天星通り 

永泉寺から松並木公園(将門並木)までの間に、ドウダンツツジ(満天星)が植えられているコミュニティ道路。

 

Img_7877天の川公園

アキニレを水に映して、反転した北斗七星の形に植栽している。将門が信仰した妙見菩薩は北極星、北斗七星の神格化された姿で、将門の後裔を称する千葉氏にも縁がある。

 

Img_7884松並木公園(将門並木)「説明板

守谷から北上する松並木で、内裏道や将門並木と呼ばれている。「説明板」には将門の名はない。ここの松も戦時中に松根油を採るために伐採されたそうだ。

 

将門並木を南下し、「松並」西交差点を右折し、関東鉄道常総線の踏切を渡って行く。

Img_7890 海老沢踏切(関東鉄道常総線)

派手な車両が撮れた。左の車の運転席の女性から声がかかった。

「うまく撮れました?」、「撮れたよ」、(嬉しそうに)「バッチリ? よかった!」、こっちも何だか嬉しい気分になった。短い会話だが人と話すのは何か月ぶり?か。これも悪病神のコロナ大魔王をあやつる将門の祟りかも。

 

Img_7892土塔森林公園

 

Img_7902長龍寺参道

将門が守谷城主の時に建てたという。将門の位牌を伝える。

 

Img_7899仁王門

禁制文書」(文化財№9)・「徳川家康寄進状」(文化財№10)

 

Img_7893鐘楼

「守谷八景」の①「長龍寺の晩鐘」
ほかは② 守谷城城山台回顧 ③ 守谷城大手門二本松 ④ 守谷沼の朝霞 ⑤ 河獺弁天の夕照 ⑥ 西林寺の遺跡 ⑦ 八坂神社の蝉時雨 ⑧ 石神の松翠色、だそうだ。

 

Img_7906_20200524210901「幸福の路」を横切る。

ウオーキングコースになっている。

 

鈴塚(すずか)交差点を渡って行く。

Img_7909馬頭観音観世音碑(右)

左の低い石柱は道標で、「←大野村に至る」(昭和6年)だそうだ。

 

Img_7914日枝神社

 

Img_7915鈴塚?(社殿の後ろ)

承平天慶の乱の際、将門が兵を挙げる前に、藤原純友がはるばる将門の元を訪れ、この地に大鈴を埋めて塚をつくり、互いに戦の勝利を祈ったとか。比叡山にも似たような話の将門岩、純友岩がある。【Map

 

Img_7918 五反田川を渡る。

前方が天満宮の森

 

Img_7921湧き水か清水だろう。

 

Img_7924天満宮は意外に小さな社だった。

 

Img_7929成田不動石碑(お化け石)

成田山の調伏により、藤原秀郷に首を討ち取られた将門の無念の恨みが籠る不動明王の石碑? 
「その昔 人騒がせた お化け石」(「守谷ふるさとかるた」)、「人騒がせた」顛末は、「高野のお化け石」(「守谷の七不思議」)で。

 

Img_7930日光大権現

 

Img_7943海禅寺

海禅寺縁起」(文化財№12)によると将門が紀州の高野山を真似て建立したという。

 

Img_7942

七騎塚

将門と七人の影武者の供養のために建てられた塔(墓)という。右端(写真が切れてしまった)が将門の塔のようだ。

 

Img_7938スダジイの大木

推定樹齢は約250年

 

Img_7934 説明板

 

Img_7936 説明板の「幹の中央部の縦溝」か。

 

Img_7948羽中川を渡る。これでもれっきした一級河川だ。

将門はこのあたりの高野(地名)に興世王の分城を建てて、今城(いまんじょ)と名づけた。今造られた城という意味で、高野城のことをいい、この地域の人々は昔から今城と呼んでいる。 正面右奥が「今城(いまんじょう)橋

 

Img_7959乙子地区

将門が守谷に城を建てたとき抜け穴を掘った。その抜け穴の出口を「落とし口」といい、それが「乙口」(おとくち)→乙子(おとご)に変化して地名になったという。

 

Img_7963石神神社

 

Img_7961本殿の龍の彫刻

この前には石神様の石棒(男根の金精様)が直立している。

 

関東鉄道常総線を越えて、小山地区、みずき野地区に入る。 

Img_7966小山地区

将門の老臣・増田監物がこの地に砦を構え「古山」と称していたという。 

 

Img_7973桔梗ヶ原あたり(郷州中学校)

藤原秀郷の娘で将門を裏切った愛妾の桔梗が殺されたという伝承地。(「花の咲かない桔梗」(「守谷の七不思議」)

このあたりには愛宕から上高井を経て山王に達する郷州街道が通っていた。郷州小学校・郷州文化財公園などにその名が残る。

 

Img_7976郷州文化財公園

山の神の小祠と「原日本民族居住遺蹟」碑(鳥居の手前)があるだけの殺風景な公園で、期待外れ。

 

Img_7979説明板

 

Img_7983羽黒神社も小さな社だった。

歩きの後半は古傷?の左ひざ痛が再発し、足を引きずり、小休止を繰り返しながらの坂道散歩となった。これも将門の祟りというべきか。

| | コメント (3)

« 2020年2月 | トップページ | 2020年6月 »