2018年9月10日 (月)

鎌倉街道(堀兼道②)

2018年9月8日

新狭山駅(西武新宿線)・・・新狭山二丁目(南)交差点(国道16号)・生越道道標・・・五平坂・・・(赤間川)・・・前田公民館・・柿の木通り・・法華供養塔・・・九頭龍大権現・・・八丁の渡し跡あたり・・・入間川大橋(入間川)・・・城山稲荷神社・城山砦跡・・・常楽寺・・・長源寺・・・県道261号・・・上宿バス停・・・智光山公園(ひょうたん池・九頭龍池・九頭龍大権現・前山の池)・・・鎌倉街道(上の道)合流地点・・智光山公園バス停→狭山市駅(西武新宿線)

  【ル-ト地図

Img_8876_3生越道(おごせどう)道標 《地図

「越生」が普通の表記だろう。左側面に「北 下奥富入口并(ならびに)柏原生越道」で、ここから奥富神社の方へ進むのが生越道だろうが、少し北東側の鎌倉街道の道筋ともいう五平坂を下って行く。

Img_8873説明板

Img_8882五平坂 《地図

この坂を改修した名主の五平さんにちなむ坂名とか。このあたりは、『赤間川・新河岸川を歩く①』で歩いている。

前田公民館の所から柿の木通りを進む。

Img_8888法華供養塔(昭和2年)の祠 《地図》あたり

Img_8894正面が九頭龍大権現の森か?

Img_8896九頭龍大権現 《地図

こんな小さな石塔だけだった。田畑を入間川の洪水からの守り神で、八丁の渡しの無事の守り神でもあったろう。

Img_8895説明板

Img_8902八丁の渡し跡あたりの入間川(九頭龍大権現の北側)

八丁の渡しは鎌倉街道(上の道)沿いの入間川とここにあったという。対岸の小高い所は城山砦跡

入間川大橋を渡ろうと下流に向かうが橋下近くから上がる道はなく、かなり迂回して渡った。

Img_8912入間川上流方向(入間川大橋から)

右後方が城山砦跡

Img_8917城山砦跡 《地図

Img_8931城山稲荷神社

Img_8919城山砦跡入口

Img_8921説明板

Img_8928本郭あたりから南方向

中央に入間川大橋が見える。

Img_8935常楽寺

Img_8938_2七観音

Img_8936説明板

Img_8940長源寺

Img_8943御所ノ上バス停

「御所」とはどこか?城山砦ではあるまい。このあたりに上宿の庚申塔があるはずだが見つからなかった。県道261号沿いに北から上宿・下宿・本宿のバス停がある。元の入間川宿の名残りか?
瞽女宿の話』(狭山の昔話)

上宿バス停手前の交差点を左折し、智光山公園の先の鎌倉街道(上の道)との合流地点を目指す。

Img_8946智光山公園

ここを直進すれば上の道との合流地点《地図》に出るが、公園内を行く。

Img_8948ひょうたん池?

Img_8951ここにも九頭龍大権現

智光山の大蛇』(狭山の昔話)

Img_8953前山の池

ヘラ鮒の釣堀

智光山公園バス停から狭山市駅に出た。

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2018年9月 3日 (月)

鎌倉街道(堀兼道①)

2018年9月1日

航空公園駅(西武新宿線)・・・鎌倉街道(上の道)・・・堀兼道分岐地点・・・旧鎌倉街道標柱・・・(西武新宿線)・・・新所沢駅東口入口交差点・・堀兼道・・・(県道6号)・・・馬頭観音・・・ネオポリス西交差点・・・フラワーヒル交差点・・・旧鎌倉街道沿里山保全地域・・・八軒家大井戸跡標柱・・・TRY・・・(狭山市)・・・馬頭観音・地蔵・・・堀兼神社・堀兼の井戸跡・・・(県道126号)・・・権現橋(不老川)・河岸街道交差地点・鎌倉街道標柱・石造物群・・・(県道8号)・・・堀兼中学校・・・新狭山ハイツ・・・鎌倉街道標柱・・・(久保川)・・・愛宕神社・東三ツ木交差点(県道340号)・・・三ツ木古戦場跡(三ツ木公園)・・・新狭山駅(西武新宿線)

 所沢で鎌倉街道(上の道)と分かれて北上し、歌枕の「堀兼の井」を通って上野国・下野国へと向かっていた上の道の支道の堀兼道を行く。支道といっても古代の東山道武蔵路を踏襲すると推定されている古道だ。

  【ル-ト地図

Img_8696堀兼道(右)分岐地点 《地図

左が鎌倉街道(上の道)

Img_4715説明板

Img_8698車も少ない静かな道を北上する。

Img_8701旧鎌倉街道標柱 《地図

ここで堀兼道は途切れる。西武新宿線をくぐって新所沢駅東口入口交差点の先の堀兼道の復活地点まで行く。

Img_8708右に入るのが堀兼道 《地図

「自動車の通行できません」との看板

Img_8710確かにここは車の通行はできない。下には小さな流れがある。

直線道路をひたすら北方向に向かう。

Img_8714馬頭観音(左) 《地図

Img_8718鎌倉街道(上の道)を歩いた時に「七曲井戸」あたりで狭山茶の新茶を買った。七曲井戸も「堀兼の井」の一つだ。

Img_8721樹林帯を挟んで並行する道の車道側

Img_8728静かな歩道側を行く。

Img_8730車道と歩道の間の今は樹林帯のところを武蔵国国府から上野国、下野国へ通じていた東山道武蔵路が通っていたのか? 『鎌倉街道(上の道④)』 《地図

Img_8739旧鎌倉街道沿里山保全地域

このあたりは所沢市が狭山市へ細長く食い込んでいる。《地図

Img_8742説明板

Img_8757八軒家大井戸跡標柱(右)

Img_8763ここで並行道の歩道は終わる。《地図

左はTRYの敷地

Img_8766_2地蔵(左・元禄?年) 《地図》あたり?

右前方に堀兼神社の社叢

Img_8802_2堀兼神社

Img_8772庚申塔・馬頭観音・月山湯殿山供養塔

三猿庚申塔(左端・延宝5年(1677)
庚申塔(左から3番目・安永10年(1781)で狭山市最古の文字塔)
三猿庚申塔(右から2番目・寛文9年(1669))

Img_8801_2随身門

Img_8776_2説明板

Img_8781_2本殿

Img_8783_2説明板

Img_8797_2堀兼の井

「はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野寺あるてふ」  紀貫之

「浅からず思へばこそはほのめかせ 堀兼の井のつつましき身を」  源俊頼

「武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしく水の近づきにけり」  藤原俊成

「汲てしる人もありなんおのずから 堀兼の井の底の心を」  西行

「いまはわれ浅き心を忘れみず いつ堀兼の井筒なるらん」  慈円

とわずがたり』には「堀兼の井は、あとかたもなくて、ただかれたる木の一つ残りたるばかりなり」とあり、

廻国雑記』で道興准后は、

「おもかげぞかたるに残る武蔵野や 堀かねの井に水はなけれど」

「昔たれ心づくしの名をとめて 水なき野べを堀かねの井ぞ」 と二首を詠んでいる。さらに道興准后は北上し、「やせの里は、やがて此の続きにて侍り。里人のやせといふ名や、堀兼の井に水なきを侘び住むらむ」と記し、入間川を渡って行った。(八瀬は川越市のこのあたり《地図》で、老人ホーム八瀬の里・八瀬大橋などにその名を残す)
道興准后が東国を旅した応仁・文明の頃にはまだ東山道武蔵路を引き継いだ鎌倉街道は残っていたのだろう。
「堀兼の井」の古歌は数あれど実際にこの地を訪れたのは西行と道興准后だけか。また、枕草子の「井はほりかねの井…」は有名だが武蔵野にあるとは言っていない。『武蔵風土記』には「其の旧跡ははっきりせず。当郡はもとより他の郡にも堀兼の井跡と称する井が多くあって何れを実の跡とも定めがたし」と記す。入曽の「上の道」沿いの「七曲井戸」、羽村駅前の「まいまいず井戸」もその一つで、先程の八軒家大井戸もそうだろう。新宿区の逢坂下には兼の井の伝説も残っている。

Img_8790_2説明板

Img_8809_2権現橋から不老川(上流方向) 《地図

上流の上の道の入曽橋のそばに七曲り井戸跡がある。その井戸も堀兼の井の一つだ。ここは新河岸川の引又河岸への河岸街道との交差地点でもある。

Img_8815_2鎌倉街道標柱

権現橋の袂。地蔵の隣は子大権現塔(文政5年(1822))

Img_8819_2この交差点を渡ってすぐに右方向に林に中に入るのが旧道で直進する道は新道。 《地図

Img_8822_2ここから林の中へ入ったが・・・。《地図》あたり

Img_8823林の中に道はついている。

Img_8826_2気分のいい道だがちと不安ではある。

Img_8829_2ここは道ではないか?

Img_8830_2左は小林製作所だろう。

Img_8833_2林からの出口が見えて来た。

蜘蛛の糸が顔と腕にまとわりつき、汗で納豆が糸を引いているみたいになった。

Img_8835畑の中を通って行く。

Img_8837ネギ畑の向こうは堀兼中学校

Img_8838車道に突き当たって右折して行く。《地図

この道がさっきの交差点を直進して右に曲がって来た道だ。

 

Img_8843l堀兼中学校の前で左折して北上する道。

Img_8847右の新狭山ハイツ案内図の左上隅に「鎌倉街道」と表示されている。《地図

Img_8851鎌倉街道標柱

この先、堀兼道の道筋はいくつかあったようだ。北上して上野国、下野国に向かう東山道武蔵路を踏襲する道興准后も通ったであろう道筋は、本田技研工場に突き当たって途切れ、その先の道筋も定かでない。小さな流れの久保川を渡った先で左(北西)方向に進み、三ツ木古戦場跡から八丁の渡し跡へ出て入間川を渡り、城山砦跡あたりから上宿を通り、智光山公園の南側の上の道との合流地点を目指す。

Img_8859愛宕神社 《地図

Img_8862東三ツ木交差点を越えて直進する。

Img_8867三ツ木古戦場跡(三ツ木公園) 《地図

Img_8868説明板

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2018年8月31日 (金)

野猿街道②

2018年8月28日

大塚・帝京大学駅(多摩モノレール)・・・熊野神社・・・堀之内洗馬川公園・・・北八幡神社・・・大栗川橋(大栗川)・・・稲荷神社・・・浅間神社・・・川幡橋(大田川)・・・松木台公園・・富士見台公園・・・大石やかた公園・・・さんもり橋(大栗川)・・・武相十三番聖観世音札所・・日枝神社・・玉泉寺・・・永林寺・由木城跡・・・野猿峠・水飲み場跡・・・(光照寺)・・・北野街道合流地点・・・北野駅(京王線)

   【ル-ト地図

Img_8687熊野神社 《地図

鳥居の後ろに神木の大公孫樹(イチョウ)がそびえる。文久元年(1861)の植樹とか。

Img_8681説明板(大イチョウ)

Img_8688熊野神社前の旧道を行く。

Img_8674洗馬川公園 《地図

このあたりは堀之内という地名で、向かい側に番場公園、近くに京王堀之内駅もある。この付近に後北条氏の家臣ともいう植松太郎屋敷があったとも。西には大石やかた公園、殿ヶ谷戸バス停もあり、戦国武将らの屋敷・館跡のゆかりの名が残っている。

Img_8664北八幡神社

由木城主(後述)だった大石定久の弟の大石宗虎の再興という。

Img_8666_2説明板

「宗虎のの前の樹齢数百年の百日紅」は、「大石やかた公園」の東側の高台?にあるそうだ。『戦国武将列伝Ω

Img_8668甘酒地蔵(北八幡神社境内)

三体ともか?

Img_8667説明板

Img_8661大栗川橋から大栗川上流方向

Img_8658稲荷神社・津島牛頭天王社 《地図

Img_8656浅間神社

松木七郎屋敷跡という。

Img_8653松木七郎の墓(宝篋印塔)

鎌倉公方足利持氏の幕下であった松木七郎の墓とされているが、碑面に永和2年(1376)と刻まれていたといい、持氏の時代とは合わない。

Img_8652説明板

Img_8648川幡橋から大田川(上流方向)

Img_8646松木台公園 《地図

ここは小田屋敷跡のようだが説明板などはない。

Img_8634富士見台公園

南側の首都大学東京の構内に井草屋敷があったようだ。

Img_8642竪穴住居跡(復元・富士見台公園の史跡広場)

Img_8641説明板

Img_8630大石やかた公園 《地図

Img_8626武相十三番聖観世音札所地図

玉泉寺の札所で聖観世音菩薩像が安置されている。裳が蓮台にまでかかっている宋風のつくりであることから、「もかけの観音」と呼ばれているそうだ。

Img_8621日枝神社 

Img_8618玉泉寺

Img_8577永林寺全景図

総門から本堂まで一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、境内は広く建物も立派な寺で、墓地の北に由木城跡。

Img_8589説明板

戦国時代、滝山城主大石定久が開基となり、叔父である一種長純を開山として創建した。

Img_8616総門

Img_8574説明板

Img_8615十六羅漢・三門

Img_8582説明板

Img_8583中雀門(勅使門)

Img_8584説明板

Img_8585本堂

Img_8590説明板

Img_8587豊川殿

Img_8586説明板

Img_8612鐘楼

Img_8611三重塔

Img_8594岩船地蔵(享保4年(1719))

左はお地蔵さんというよりお爺さんだ。

Img_8596説明板

Img_8600大石定久墓

大石定久は天文18年(1549)、野猿峠で浄福寺城(松竹城)方向を望見して自害したという伝承があり、墓はもとは峠の上にあった。

Img_8597説明板

Img_8602由木城跡(大石定久館跡)

Img_8604大石定久像

Img_8570野猿峠へ長く緩い上りとなる。

Img_8569もう秋だねえ~

Img_8564でも日が照ると非常に蒸し暑い。

Img_8562野猿峠ハイキングコースはここへ通じていたのか?

私有地で立入禁止だが迂回コースもあるようだ。

Img_8560野猿峠

大石定久の墓は永林寺へ移され、峠の一本松の下の高さ60cmの「大石公故蹟」碑は見当たらない。

Img_8546水飲み場跡 《地図

猿の親子が浮き彫りされている。

Img_8545説明板

Img_86932五年生の時の野猿峠への遠足の写真(1958年10月)

ここは峠のどのあたりなのか?今はこんなスペースはないようだが、何せ60年も前のことだ。みんな晴れやか、にこやかな顔をしている。夢もチボーもあったのだろう。バスで往復した記憶しかないが、木の杖を持っている子もいるし、ハイキングで少しは歩いたのだろうか?肖像権の侵害になるかな?

Img_8552水飲み場跡脇の階段を上って光照寺を目指すのだが・・・。

Img_8553風情ある切通しを抜けて行くが、この先は住宅街で起伏のある道をうろつくが光照寺への入口は見つからずに、なんとか野猿街道に戻る。

Img_8559やっと光照寺参道入口だが「立ち入りお参り禁止」とは情けない。《地図

Img_8542大石定久が望見した浄福寺城方向を眺めながら下って行く。

Img_8536絹が丘二丁目交差点から都道から離れ細い道に入って下り、打越交差点の手前で北野街道に出た。《地図

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2018年8月29日 (水)

野猿街道①

2018年8月20日

谷保駅(JR南武線)・・・甲州街道谷保天満宮・・・関家かなどこ跡・・常夜灯・・・国立インター入口交差点・日野バイパス・・・青果市場東交差点・野猿街道(都道20号)・・・(府中市)・・・(中央道)・・・(三社宮)神明社・・・四谷自然樹林・・・一の宮の渡し碑・・・府中四谷橋(多摩川)・・・(日野市)・・(多摩市)・・真明寺・・・小野神社(一の宮)・・庚申塔・地蔵祠・・・一ノ宮の渡し標柱・・・(京王線踏切)・・・一ノ宮交差点(川崎街道交差地点)・・・宝蔵橋(大栗川)・・・殿田橋(大栗川)・・・中和田天神・・・(八王子市)・・・最照寺・・大塚八幡神社・・・大塚・帝京大学駅(多摩モノレール)

 甲州街道の谷保天満宮の南方から多摩川を渡り、野猿峠(標高160m)を越えて北野街道に通じる野猿街道を行く。

  【ル-ト地図

Img_8456青果市場東交差点 《地図

ここで左折して南に進むのが野猿街道(都道20号)

国立市から府中市に入る。

Img_8461三社宮(神明社) 《地図

左端は府中の名木百選の「三社宮のケヤキ」だが、元気がないようだ。

Img_8465説明板

Img_8468四谷自然樹林 《地図

ここも樹林というほどのことでもない。

Img_8471一の宮渡し碑 《地図

明治13年に開設され昭和12年の関戸橋の開通まで続いた。幕末頃には 一の宮と中河原とを結ぶ渡しがあったようだ。「一の宮」は対岸の小野神社のこと。

Img_8473_2碑文

Img_8474渡し前の多摩川

河川敷で流れは見えない。

Img_8477府中四谷橋(多摩川)を渡る。

1998年竣工の斜張橋

Img_8479多摩川(下流方向)

渡って日野市からすぐに多摩市に入る。

Img_8485小野神社(武蔵国一の宮)

武蔵国の一宮は戦国期以来今日まで氷川神社(さいたま市大宮区)とするのが一般的だが・・・。
『古代の東国②』(荒井秀規著・吉川弘文館)によれば、「延喜式の神名帳にも小野神社が小社なのに対して氷川神社は名神大社で、神階も小野神社が元慶8年(884)に正五位上に昇叙されているが、氷川神社はすでに元慶2年には正四位上だった。武蔵国総社の大國魂神社暗闇祭では小野神社が一宮で、氷川神社は三宮とされている。おそらく平安後期に武士団勢力との関係で小野神社(小野姓横山党西党)が浮上して一宮となったのではなかろうか。氷川神社の奉斎一族であった足立郡司武蔵宿禰氏の零落は、「更級日記」の武蔵武芝伝説にもうかがえる。しかし、戦国期になると氷川神社が再浮上し、江戸時代には幕府の加護は小野神社よりも篤かった」とある。

Img_8487説明板

木像随身倚像

Img_8496庚申塔(右・寛延4年(宝暦元年・1751))・地蔵(一ノ宮児童館前)

庚申塔は真ん中あたりで折れ、青面金剛像も崩れかかっている。

Img_8497一ノ宮渡し標柱 《地図

Img_8498渡し風景

Img_8404川崎街道交差地点(一ノ宮交差点) 《地図

Img_8504宝蔵橋から大栗川(下流方向)

Img_8511中和田天神 《地図

Img_8513石段上に拝殿はなくいきなり本殿?

八王子市に入る。

Img_8519最照寺

同じ敷地にある大塚八幡神社の別当寺。

Img_8525大塚八幡神社

大塚(古墳)の上にある。大塚はこのあたりの地名にもなっている。

Img_8528大塚・帝京大学駅(多摩モノレール

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2018年8月19日 (日)

川崎街道②

2018年8月18日

高幡不動駅(京王線)・・・川崎街道(都道41号)・・・観音院・・・(多摩都市モノレール)・・・三沢橋(程久保川)・・・(京王動物園線)・・・八幡神社・・・下郷公園・・・松連寺坂・・・砂土地蔵尊・・・三沢砂土緑地・・・百草園・・百草八幡宮・・・松連寺坂下公園・・・大宮神社・・・真照寺・・・聖蹟桜ヶ丘10号踏切(京王線)・・・神明神社・・・落川遺跡・・・聖蹟桜ヶ丘7-2号踏切・・・一ノ宮交差点(野猿街道交差地点)・(多摩市)・・九頭龍神社・・・新大栗橋交差点(鎌倉街道上の道交差地点)・・・向ノ岡大橋(大栗川)・・・(対鷗台公園)・・連光寺坂・・・智願寺・・・桜ヶ丘公園・・・連光寺調圧水槽・・・(桜ヶ丘カントリークラブ)・・・(稲城市)・・・(瓦谷戸窯跡あたり)・・・南多摩水再生センター・・・医王寺・・・大丸交差点(府中街道接続地点)・・・南多摩駅(JR南部線)

  【ル-ト地図

Img_8336八幡神社地図

Img_8346松連寺坂の坂下近く 《地図

右に砂土地蔵尊の祠。ここから百草園(松連寺跡)まではけっこう長い急坂となる。

Img_8347砂土地蔵尊

Img_8342説明板(川崎街道沿いの松連寺坂下公園に設置)

Img_8382左端は「松連寺道」と彫られた馬頭観音(天保13年(1842))

大田南畝は「武蔵野の百草のすえをわけゆけば つらなる寺もこそあれ」と詠んだ。落語『蜀山人

Img_8376坂下方向

右の崖に三沢砂土緑地の説明板

Img_8379説明板

Img_8375坂上近く

右が百草園だがまだ9時前で開園していない。

Img_8362百草八幡宮

松連寺が別当寺だった。

Img_8367阿弥陀如来堂

銅造阿弥陀如来坐像」(国重文)を安置。右後方に「松連寺の石碑」が立つ。

Img_8366説明板

Img_8371百草園内(百草八幡宮から)

Img_8385大宮神社

ここも昨日歩いた七生丘陵散策路の道筋の一つ

急な石段の途中にある社務所?の下をくぐってさらに上る。

Img_8388社殿

Img_8393神明神社 

Img_8397落川遺跡 《地図

古墳時代から平安時代までの集落遺跡

Img_8395説明板

Img_8405野猿街道交差地点(一ノ宮交差点)

多摩市に入る。

Img_8406九頭龍神社

Img_8407鎌倉街道(上の道)交差地点(新大栗橋交差点)

Img_8409向ノ岡大橋から大栗川上流方向 《地図

正面で乞田川が合流する。

Img_8414連光寺坂(坂上近く) 《地図

右一帯は桜ヶ丘公園、正面の塔は連光寺調圧水槽。このあたりは『多摩市の坂①』に記載。

Img_8421坂下方向

Img_8426屋根付きの道路を下る。

金網だから雨は落ちて来る。

Img_8427稲城市に入ると屋根はない。

途中に瓦谷戸窯跡があるはずだが案内板などは見当たらなかった。道路の反対側だろうか?

Img_8431南多摩水再生センター

Img_8432医王寺

Img_8434府中街道接続地点 《地図

ここを北野街道・川崎街道歩きの終点として南多摩駅から南武線で府中本町駅に出て、東京競馬場に向かった。

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2018年8月18日 (土)

北野街道②・川崎街道①

2018年8月17日

北野駅(京王線)・・・打越大橋(湯殿川)・・・北野街道(都道173号)・・打越交差点(野猿街道分岐地点)・・・北大畑橋・・・ほたる公園・・・稲荷祠・・・(日野市)・・・平山城址公園・・季重神社・・七生丘陵散策路・・・子育地蔵堂・・・北野街道・・・徳善院・・・田中稲荷大明神・・・石橋供養塔・石橋供養仏堂・・・寿徳寺・・・平橋・・八坂神社・・・金剛寺旧跡公園・・・高幡城址・高幡不動・・(川崎街道)・・高幡不動駅(京王線)

  【ル-ト地図

Img_8212稲荷祠

右は庚申塔(宝暦10年(1760))と地蔵

日野市に入り、右折して平山城址公園に向かう。

Img_8220平山城址公園の六国台へ上る。

陽射しは強いが今日はカラッとしていてさほど暑さは感じない。

Img_8222案内図

野猿の尾根道は六国台の先で途切れているようだ。

Img_8228六国台から武甲山・武川岳方向

Img_8233猿渡池

野猿も多くいたのだろう。

Img_8242季重神社地図

平山周辺には平山季重の居館があり、平山城址公園には見張所があったとされている。

鳥居の前から七生丘陵散策路を下る。

Img_8251子育地蔵の祠と馬頭観音

平山城址公園駅近くで北野街道に戻る。

Img_8259徳善院

Img_8265田中稲荷大明神 《地図

Img_8271石橋供養塔(左前・明和2年?(1765))・石橋供養仏堂 《地図

左側に小さな流れに石橋が架かっていたのか?

Img_8277石橋供養仏堂の前の坂を上って左折して北野街道に戻る。

Img_8279寿徳寺

夢殿を模した八角形の本堂。左の宝篋印塔は日野市域浅川以南では高幡山金剛寺(高幡不動)と寿徳寺のみで見られるものという。

Img_8282八坂神社

高橋橋南交差点で北野街道は川崎街道と名前を変えるが、手前で右に入って獨地蔵から高幡城址へ向かうが、獨地蔵は見つからなかった。地図には載っているのだが、見落としたか?

Img_8284金剛寺旧跡公園 《地図

かつてはこの公園を含むあたり一帯が金剛寺(高幡不動)の境内だった。

Img_8283説明板

高幡不動の敷地の西側に沿って上り、南から都立多摩丘陵自然公園に入って高幡城址へ向かう。

Img_8294見晴台から西方向の眺め

Img_8305高幡城址

この上が本丸跡。麓には根小屋陣川戸などの地名が残っているそうだ。

Img_8308高幡不動(金剛寺)鐘楼

境内案内図

Img_8311大日堂

Img_8313_2五重塔

Img_8316不動明王(本尊・奥殿)

Img_8315説明板

Img_8318高幡不動本尊像内文書(国重文)

常陸合戦に高師冬軍に動員されて戦死した、日野土渕に所領を持つ山内経之が家族などに送った書状。

Img_8319

Img_8327仁王門

川崎街道を横切って高幡不動駅に出た。

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2018年8月13日 (月)

北野街道①

2018年7月26日

高尾駅(JR中央線)・・・町田街道・・・高楽寺・・・館町交差点・・・西明神橋(湯殿川)・・御霊神社・・明神橋・・・宝泉寺・・・地蔵祠・・ゆりのき台団地入口交差点・・・御嶽神社・・・椚田遺跡公園・・・山王坂・・・要石交差点・・要石説明板・・・大林寺・・・白山神社・・・長慶寺・・・稲荷神社・・・斟珠寺・時田弁財天・・・片倉町交差点・浜街道(絹の道)交差地点・・・打越橋(湯殿川)・・打越町土入立体(JR横浜線)・・・打越八幡神社・・梅洞寺・・・打越交差点(国道16号)・・打越大橋(湯殿川)・・・北野駅(京王高尾線)

 高尾駅近くの甲州街道から南に分かれる町田街道を進み、館町交差点で左(東)に分岐する北野街道を川崎街道に接続する高幡不動手前の高幡橋南交差点まで行き、川崎街道を府中街道との合流地点の大丸交差点まで行く。

  【ル-ト地図

Img_8083高楽寺

桜姫」と呼ばれる樹齢200年の紅しだれ桜。

Img_8082説明板

Img_8086この先の館町交差点で左に北野街道が分岐する。《地図

右の塔は末日聖徒イエスキリスト教会高尾ワード

Img_8095御霊神社

祭神は鎌倉権五郎景政。左の杉の木の上にコノハズクの親子がいるらしい。多くの人が写真を撮っている。

Img_8094正面の杉にコノハズクの親子がいるというが拙者には見えない。

Img_8100明神橋から湯殿川(下流方向) 《地図

川の名前の由来

Img_8102地蔵の祠 《地図

Img_8103地蔵らしくないが後ろに貼ってある紙には地蔵とある。

Img_8109御嶽社 《地図

Img_8121椚田遺跡公園

縄文時代中期のムラの敷石住居跡(復元)

Img_8115説明板

Img_8131山王坂を下って北野街道に戻る。《地図

近くに日枝神社は見当たらないが。

Img_8135要石」の由来話

弘法大師伝説の一つ。

Img_8137これが要石のようだが・・・(要石交差点の先の左側の長い名前のマンションの前の植込みの中)

Img_8138大林寺

Img_8143白山神社へ山道のような薄暗い坂道を上る。

神社は見当たらず、坂上の京王高尾線あたりまで上ってしまった。神社は右上の時田斜面緑地内にぽつんとひっそりとある。

Img_8151白山神社 《地図

なんとこんな小さな社とは思わなかった。

Img_8150長慶寺(白山神社の境内?から)

Img_8156稲荷神社

Img_8154説明板

Img_8163時田弁財天(湧水池の中の島)・斟珠(しんしゅう)寺地図

Img_8165浜街道交差地点(片倉町交差点)

浜街道沿いに片倉城跡公園がある。

Img_8170打越橋から湯殿川(上流方向)

打越町土入立体でJR横浜線をくぐる。「土入」はこのあたりの小字名。

Img_8174打越八幡神社地図

Img_8175縁起

Img_8179梅洞寺

打越交差点までとし、打越大橋(湯殿川)を渡って北野駅に出た。

Img_8189もう真夏だというのにまだ巣立っていないのか。餌を運ぶ親ツバメも大変だ。(ここは北野駅ではない)

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2018年7月27日 (金)

町田街道②

2018年7月25日

  『町田街道②』に記載

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2018年7月13日 (金)

江古田川を歩く

2018年7月9日

  『江古田川を歩く』に記載

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2018年6月30日 (土)

羽田道・大師道

2018年6月27日

平和島駅(京急本線)・・(第一京浜国道)・・東海道・・・(環七通り)・・・美原(三原)通り・・・内川橋(内川)・羽田道標柱・するがや通り・・・厳正寺・・・漁業記念碑・・・三輪厳島神社・・・呑川橋(旧呑川緑地)・・・羽田道標石・・・浦守稲荷神社・・・末広橋(呑川)・・・権助橋跡(浜竹用水)・羽田道標柱・・・産業道路・・・自性院・・羽田神社・・正蔵院・道標・・(産業道路)・・・龍王院・・・(首都高羽田線)・・・羽田道標柱・鷗稲荷神社・・・玉川羽田弁財天・・・白魚稲荷神社・・・弁天橋(海老取川)・大師道・・・(首都高羽田線)・・羽田の渡し跡碑・・・大師橋(多摩川)・・・大師の渡し跡碑・・・千蔵寺・・・(東門前駅(京急大師線))・・・仲見世・・川崎大師(平間寺)・・・若宮八幡宮・・・医王寺・・・(川崎競馬場)・・徳泉寺・・・六郷の渡し跡・・東海道・・・本町交差点(府中街道分岐地点)・・・幸福寺・・久遠寺・・稲毛神社・・稲毛公園・・・砂子交差点(東海道)・・・川崎駅(JR京浜東北線)

 東海道の大森の三原通りの内川橋から分かれて羽田へ至る羽田道を行く。羽田弁財天、穴守稲荷神社などへの参詣の道、羽田で獲れた魚などを江戸に運ぶ道でもあった。羽田の渡しから川崎大師への大師道としても利用された。

  【ル-ト地図

Img_7684内川橋(内川) 《地図

昔は駿河屋という旅宿があり、「するがや橋」と呼ばれていた。橋を渡った左側に羽田道の標柱が立つ。東海道から別れ、左に「するがや通り」に入って行くのが羽田道。

Img_7685説明板

Img_7686羽田道標柱

Img_7688するがや通りを行く。

「お若えのお待ちなせえ」と、鈴ヶ森で白井権八を呼び止めた幡随院長兵衛が常宿としていたのが「駿河屋」だそうだ。(浮世柄比翼稲妻

Img_7689分岐点を右へ 

Img_7690「するがや通り 羽田道」標石・大筒町打ち場説明板

Img_7691幕末、江戸湾防備のための大筒や小銃の稽古所の大森町打ち場が、東京ガス大森工場のあった所に設置された。(大森東3-28付近) 長州藩が警備を命じられ桂小五郎ら藩士師弟も動員された。現在その隣には大森ふるさとの浜辺公園がある。『大田区の観光』より

Img_7695厳正寺

木の左に「水止舞の寺」の標柱が立つ。

Img_7694説明板(梵鐘)

Img_7699水止舞

Img_7696漁業記念碑(大森児童館前の植込みの中)

浅草海苔の由来の一説の野口六郎左衛門のことなどが書かれているようだ。近くに古くからの海苔屋が二軒あったがどちらも写真を撮りづらい状況だった。

大森・海苔乾し(昭和大東京百図絵版画・昭和12年)

Img_7701三輪厳島神社

Img_7703説明板

Img_7704呑川橋(旧呑川緑地)を渡る。《地図

19日に歩いたばかりだ。

Img_7706上流方向

Img_7708羽田道標柱

ここも右へ行く。

Img_7709側面

弁天神社は三輪厳島神社のこと。

Img_7711浦守稲荷神社 《地図

Img_7712末広橋(呑川)を渡る。《地図

Img_7714呑川(下流方向)

Img_7718権助橋跡(浜竹用水跡交差地点)・羽田道標柱(左の木の下) 《地図

ここも19日に通った。

寂しげな商店街を抜け、大鳥居交差点を渡って産業道路の西側沿いを進む。

Img_7725自性院

羽田村、羽田猟師町(漁師ではない)の鎮守だった。

Img_7726羽田神社

ここも羽田村、羽田猟師町の鎮守だった。

Img_7731道標(正蔵院前) 《地図

「羽田街道」・「右 三原 東海道」

大師橋の下をくぐって羽田弁財天(下の宮・現在の玉川羽田弁財天)から弁天橋に向かう。

Img_7736龍王院

羽田弁財天の上の宮

Img_7752鷗稲荷神社 《地図

右に羽田道標柱

Img_7750羽田道

神社前の道は「羽田七曲り」の一つ。

Img_7755玉川羽田弁財天地図

龍王院が別当寺となっていた上の宮に対し、要島(羽田空港の地)の新田開発に伴い、下の宮として弁天社が創建、祀られていた。昭和20年9月連合軍の強制立退命令により、下の宮(現玉川羽田弁財天)を水神社のある当地に遷した。

Img_7754日本三弁天」(だった?)とは畏れいった。

Img_7753
左が水神社

Img_7757白魚稲荷神社

鷗・白魚、海と川の匂いのする名前だ。

Img_7762弁天橋から海老取川河口・多摩川・穴守稲荷神社の旧社地にあった鳥居。

要島の羽田弁財天も近くにあったのだろう。

羽田弁財天社」(『江戸名所図会』)
羽田弁財天社」(『江戸土産』)
羽田の渡し 弁天の社」(『名所江戸百景』)

ここを羽田道歩きの終点とし、大師橋手前の羽田の渡し跡から川崎大師へと大師道を行く。

Img_7763赤レンガ積みの低い防潮堤跡? 《地図

内側にも民家が並んでいるが、今は洪水の恐れはないのだろう。

Img_7765羽田の渡し碑 《地図

多摩川の渡し

Img_7743_2説明板

Img_7745羽田の渡し跡前の多摩川

江戸の末には東海道の六郷の渡しを渡った川崎宿から川崎大師に参詣するメインの大師道よりも、羽田道を通り羽田の渡しを渡る方が多く利用され、川崎宿からこの渡しの通行を禁止して欲しいとの願いが幕府に出されたという。「説明板」より。
昭和14年に大師橋(前方)が開通して渡しは廃止された。ちなみに六郷の渡しが廃止されたのは明治6年だから、その後も30年以上もここの渡しは現役だった。

Img_7740旧大師橋の親柱

大師橋を渡った川崎側の小公園にも保存されている。

Img_7766ここの防潮堤はいくぶん高い。

内側に人家は無い。

Img_7739羽田第二水門

後ろは大師橋、前は高潮時緊急避難用の船溜まり。

Img_7769大師橋(多摩川)

前方からの強風、突風にあおられながら、帽子を手に持って前かがみで渡った。こんな日には渡し船は出なかったかも。

Img_7774上流方向

右岸の大師の渡し跡から東参道、仲見世を通って川崎大師へと進み、表参道から大師道を前方の六郷橋(東海道六郷の渡し跡)まで行くのだ。

Img_7787新日本製鉄水門(1971年3月製作)

今は使われていないようだ。

Img_7788後ろ(内側)は船溜まりだけ。

Img_7790大師の渡し跡 《地図

Img_7780渡し舟

昭和14年まで続いた。(上流の二子の渡し(大山街道)にも馬に見送られて対岸(川崎)に渡る舟の写真を掲載)

Img_7797千蔵寺地図

「鬼を祀る寺」

Img_7796説明板(川崎歴史ガイド 東海道と大師道

Img_7802東門前駅(京急大師線)

Img_7803東門前小学校前の歩道

小学生の絵が描かれている。絵は汚れるがブロック塀のように地震で倒れないから安全だ。

Img_7808仲見世

浅草観音の仲見世の雑踏とは大違いで歩きやすい。

Img_7824川崎大師境内図

Img_7809大山門

大本堂に大本坊、わざわざ「大」をつけることもあるまい。大師だけで十分だ。

落語『大師の杵

Img_7812八角五重塔

Img_7820不動門

Img_7825しょうづかの婆さん(奪衣婆)(寛文11年(1671))

品川の台場から移って来たようだ。地蔵婆さん風だ。歯と健脚の願を掛けた。

Img_7826説明板

表参道から大師道を六郷橋へ向かう。

Img_7828表参道らしくない通りだ。

Img_7830川崎大師

Img_7833若宮八幡宮

Img_7838大師河原酒合戦三百五十年記念碑

水鳥の祭

Img_7837_2説明板

「水鳥(すいちょう)」の「酒」へのこじつけが何とも・・・。

Img_7839花見橋バス停前交差点

Img_7841「花見橋と大師新道」(川崎歴史ガイド 東海道と大師道)

Img_7845「工場進出と鈴木商店」(川崎歴史ガイド)

イトーヨーカ堂の前あたり

Img_7847今も味の素は鈴木町駅の回り一帯にある。 《地図

Img_7855医王寺

手前の扉も閉まっていて入れず。「塩どけ地蔵」と「蟹塚」の伝説がある。

Img_7853「医王寺と二つの伝説」

Img_7856地蔵と「レコード製造の始まり」(川崎歴史ガイド) 《地図

Img_7858説明板

「日米蓄音機製造株式会社」は日本コロンビアの前身で、明治42年5月に川崎区港町の工場で国産第一号の円盤レコードを製造・発売した。(「川崎区の宝物シート」より)

Img_7867川崎競馬場

最後に来たのは何時だったか。ずいぶんと綺麗になったもんだ。JRAのマークは場内にウインズ川崎があるから。

Img_7862「富士紡績と競馬場」

徳泉寺前の道に入る。

Img_7864羽田山徳泉寺で羽田村から移転

Img_7869六郷橋脇・六郷の渡し跡(東海道川崎宿

川崎大師石灯籠(右端)

Img_7876多摩川下流方向

斜張りの大師橋がうっすらと見える。

Img_7881本町交差点 《地図

右に府中街道が分岐する。まだこの先も幸町交番交差点までは大師道と呼ばれているが。

左折して東海道から離れる。

Img_7884堀之内のソープランド街を通って行く。真っ昼間でも客引きが多い。蒸し暑い中、ご苦労なこった。《地図

Img_7893稲毛神社

境内に東海道の小土呂橋の遺構が保存されている。

Img_7906六郷橋親柱(稲毛公園内)

Img_7905_2説明板

川崎駅に向かう。

Img_7908砂子交差点

東海道は直進する。少し先に小土呂橋交差点がある。

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