2009年12月13日 (日)

日光御廻り道②

2009年12月10日

鷲宮駅(東武伊勢崎線)・・・新道橋(青毛堀川)・・・鷲宮駅入口交差点・・・県道410号・・・鷲宮町郷土資料館・・・金山橋(葛西用水路)・・・宝泉寺池・日光御廻り道・・・稲荷神社・・・馬頭観音・甲子供養塔・・・(加須市)・川口前橋(葛西用水)・・・洗磯神社・・・川口橋(葛西用水)・・・古門樋橋(中川)・国道125号・(栗橋町)・・・天満宮・・・宝聚寺・旧道・・・香取神社・・・(国道125号)・・・八幡神社・定福院・・・県道316号・・・大日如来堂・・・(国道125号)・・・宝蔵院・・・松永神社・・・島中領用水路・・・(東武日光線)・(JR宇都宮線)・・・仲一地蔵・・・栗橋宿・日光街道合流点(県道60号)・・・栗橋駅(東武日光線)

 前回の続きを歩く。鷲宮神社門前通りの県道410号の電柱には青テープが巻かれている。昭和22年のカスリーン台風の時の水位だ。郷土資料館では、その時の利根川の氾濫による被害状況のフィルム映像が見られる。宝泉池の西側から左へ日光御廻り道に入る。葛西用水と中川が接近する川口橋あたりで、やっと北西から北東、東へと進路を変えて栗橋宿へと向って行く。

 古門樋橋からの国道125号は、大型車が切れ目なく続く爆音酷道だ。北へ南へと除けながら進み、大日如来堂の先で国道をくぐり、宝蔵院の前を通り、東武日光線をくぐり、宇都宮線の踏切を渡ると栗橋の町並みに入る。駅前入口の交差点を直進し、少し細い道に入ると仲一地蔵尊の先で日光街道とぶつかる。ここが日光御廻り道ならぬ大回りの遠回り道の終点だ。この先、栗橋宿の中心部を通り、利根川を渡る日光街道は先月の20日に歩いたばかりだが、もう随分たったようでなんだか懐かしい。北へ延びていく街道をしばし眺めて栗橋駅へ向った。

  【ルート地図

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Img_2736 カスリーン台風(昭和22年9月)の時の水位

利根川の堤防の決壊で電柱の青テープの所まで浸水した。栗橋町では2mにも達した所もあるそうだ。鷲宮町では死者96人、農作物は全滅した。

Img_2734 電柱に張られているシール

Img_2737 鷲宮町郷土資料館(町立図書館の2階)

カスリーン台風の時の利根川の堤防決壊による洪水、濁流のフィルム映像は一見の価値あり。

Img_2739 宝泉寺池から日光御廻り道に入る。【ルート地図】の①

ここはかつては中島堤と呼ばれた堤上の道。右奥の茂みは稲荷社。

Img_2741 稲荷神社 

お狐さんがちゃんと出迎えてくれる。

Img_2744 馬頭観音と甲子(かっし・きのえね)供養塔(右・文化13年(1816)の建立) 《地図

甲子供養塔は、甲子または子の日に夜遅くまで起きていて精進供養(祭祀)をする子待の行事、甲子待ともいい、礼拝本尊は大黒天(大国主神)だそうだ。

Img_2752 葛西用水沿いを北に向う。ここは加須市川口で、昔は川口の渡しがあり、対岸の高柳を経て奥州へ向う古道の道筋と推定されている。

Img_2754 洗磯神社 【ルート地図】の②

川口村の鎮守。由緒碑によれば、川口の地名は平安末期の武蔵七党の一つの横山党の河口八郎の名とともに歴史に現れるという。

Img_2756 由緒碑

Img_2761 葛西加用水與八圦(よはちいり)之碑(川口橋を渡った右側)

ここは中川と葛西用水が最も接近する所で、中川に設けた圦樋(いりひ・取水、排水の水門)で取水し、その水を葛西用水路に加えて下流でも使えるようにしていた。この圦樋は與八圦と呼ばれ、天保12年(1841)から昭和2年の中川改修まで設置されていたそうだ。「與八」は人の名か?

Img_2763 すぐ右を中川が流れる。

Img_2768 天満宮

古門樋橋を渡って国道125号沿いの右側

Img_2775 宝聚寺の鐘楼門の山門

物見櫓として建てられていたものを慶安2年(1649)に移築したとの伝えがある。幸手城主一色直朝の開基で、古河公方ともゆかりの寺。

Img_2774 栗橋八福神の吉祥天

一般の七福神に吉祥天を加えて八福神としている。

Img_2781 羅漢入口

羅漢とは定福院のこと。

Img_2784 八幡神社 《地図

Img_2783 説明板

Img_2798 定福院 【ルート地図】の③

参道から境内まで一般の人が彫った羅漢がぎっしり、500体近くあるそうだ。11月3日には羅漢祭りがある。栗橋八福神の布袋尊。門前の提灯に八幡山とあるから隣りの八幡神社の別当寺だったのだろう。

Img_2786 子どもを抱いた女人の羅漢?もいる。

Img_2797 ふくべから酒をついでもらってご機嫌なおっちゃんもいる。

Img_2789 これは正真正銘の「いぼ(取り)地蔵」なのだ。

「境内はえせ羅漢だらけで、これじゃ存在感が薄れてしまうよ」

Img_2790_2 

はずれて下に立て掛けてある。昨今は「いぼ取り」はもう古く、はやらないか。

Img_2809_2大日如来堂 《地図

左に十九夜塔(文化14年(1817))、庚申塔などが並ぶ。

Img_2811 国道125号をくぐる。

Img_2813 宝蔵院

左に庚申塔などの石造物が並ぶ。

Img_2816 この庚申塔は青面金剛の脇に2人の若い女仏?を従え、邪鬼の下にも2人の家来?がいて、その下に三猿を配している珍しいもの。正徳4年(1714)の銘がある。

Img_2814 やさしい顔立ちの若そうな地蔵さん

Img_2824 聖如意輪観自在菩薩(文化8年(1811))の建立。

Img_2827 松永神社

社殿は新しい。

Img_2832 東武日光線をくぐり、JR宇都宮線の踏切を渡る。

Img_2833 直進して栗橋宿の日光街道との合流点に向う。

Img_2835 仲一地蔵尊(右) 【ルート地図】の④

この道は通称「野ら道」というそうだが、今でもそう呼んでいるのだろうか。

Img_2840 民家の玄関脇に仲一地蔵の堂があり、ちょっと入りづらい。

寛延3年(1750)の洪水で流れてきた地蔵を祀っている。「仲一」は人の名ではなく、ここの以前の町名の仲町一丁目からきているのだろう。

Img_2837 地蔵堂新築記念碑

Img_2843 正面が日光街道との合流点 【ルート地図】の⑤

その向うに利根川の土手が見える。

Img_2846 日光街道栗橋宿

先月の20日にここを通って利根川を渡り、中田宿、古河宿、野木宿へ向った。

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2009年12月11日 (金)

日光御廻り道①

2009年12月8日

幸手駅(東武日光線)・・・陣屋道(駅前通り)・・・裏町(通り)・・・裏町天神神社・・・満福寺・・・幸宮神社・・・妙観横町・・・日光街道分岐点・・・妙観院・・・雷電神社・・・庚申塔・・・宝持寺・・・(東武日光線)・・・県道152号・・・真乗院・・・千塚神社・・・宝性院・馬頭観音道標・・・(東北新幹線)・・・八甫鷲宮神社・宮裏橋(北側用水路)・・・中川土手・・・(JR宇都宮線)・・・愛宕山神社・・・光厳寺・・・浅間神社・・・県道3号・・・宝泉寺池(ここまで日光御廻り道)・・・金山橋(葛西用水路)・・・霊樹寺・・・新宿橋(六郷堀川)・・・鷲宮神社・・・新道橋(青毛堀川)・・・鷲宮駅(東武伊勢崎線)

 徳川将軍の日光社参の「幻のルート」、日光御廻り道を2回に分けて歩く。この道筋は幸手宿と栗橋宿の間の権現堂川による洪水被害の危険地帯を避けるために、11代家斉の文政の社参の延期から12代家慶の天保14年(1843)の社参の準備の間に整備されたものという。歩いて見ると日光街道からは随分と離れ、迂回路、遠回り道というより別のルートという感じだ。

 天保の社参を最後とし明治維新を迎えたので、結局この道筋は一度も使われなかったのだが、洪水を恐れ堤防も造れず大きく回り道する将軍の行列を見れば、地元の村々から笑われ将軍家の権威もさらに落ちたことだろう。

 幸手駅前から日光街道に向う陣屋道を少し進み、陣屋稲荷の手前で左に裏町通りに入る。香ばしい匂いの漂う、手焼せんべい店と手作り豆腐屋が道を挟んで並ぶ妙観横町の辻を右に行くと日光街道にぶつかる。ここが日光御廻り道との分岐点だ。

 日光御廻り道は宝持寺の先で左に曲がり北西へと向い、どんどん日光街道からは離れて行く。よほど権現堂川の氾濫による洪水が怖かったと見える。東武日光線、東北新幹線、宇都宮線、県道3号を横切り、宝泉寺池を過ぎて葛西用水沿いに進み、やっと北東から東方向に向い、再び東武日光線をくぐり、宇都宮線を渡り栗橋宿へと入って行き日光街道と合流する。

 今は車の多い県道歩きが多く、あまり面白味のある道ではない。途中、県道から離れ北側用水路や中川の土手歩きを混ぜながら、今日の御廻り道歩きは宝泉寺池までとし鷲宮神社へ寄り鷲宮駅へ向った。

  *参考:『埼玉ふるさと散歩(日光街道・古利根流域編』(さきたま出版会)

  ルート地図

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Img_2610 幸手(さって)駅

幸手の語源は、①アイヌ語で乾いた土地を意味する「サッ」とする説。 ②日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征の時に立ち寄った島の名前の「薩手(さって)が島」からという説。

①は「テ」は何か? ここは乾いた土地だったのか? ②はここは島だったのか? などの疑問が残り、どっちもいまいちの説で説得力が乏しく思うが。

駅の付近は戦国時代に当地を支配した一色氏の城跡だったらしい。

Img_2611 裏町の通り

東側の日光街道が表通り。周囲が水路や沼地で浦をなし、本来は浦町であったともいう。

Img_2613 裏町天神神社

一色宮内大輔が建立したという、「一色五天神」の一つで、幸手城の鬼門「艮(うしとら)」除けの守り神。「一色五天神」は源頼朝が鎌倉二階堂に鬼門守護として祀った江柄天神社から勧請した、幸手宿、平須賀村、神扇村、天神島村、上高野村の天神社。

Img_2612 由緒

Img_2622 満福寺

荏柄山と称し、裏町天神神社、八幡香社の別当寺だった。本尊の観世音菩薩は安産子育てにご利益があり。満福→満腹か。

左手前は延命地蔵堂で、当時は東京に住んでいて日頃からこの延命地蔵への信仰が篤かった女性が、関東大震災の前夜に地蔵が夢枕に立ち導かれ、当地へ戻り震災の難を逃れたのを感謝して建てたという。(今の堂は昭和48年の再建)

Img_2620 説明板

Img_2627 幸宮神社

幸手の総鎮守で、もとは八幡香取社といった。

Img_2626 説明板

Img_2630 妙観横町

突当たりの中山家具の前が日光街道と日光御廻り道との分岐点 【ルート地図】の①

Img_2632 妙観院

Img_2633 雷電神社

江戸時代には「幸手領総社」ともいわれた。垂仁天皇の時代に黄金の雷電像が田の中に降臨して創建したとか。

Img_2635 庚申塔(北1-7前)

Img_2637 宝持寺前の庚申塔・地蔵など

Img_2639 宝持寺

雷電神社の別当寺だった。

Img_2642 三面地蔵石塔?(宝持境内)

一面に2体の地蔵が三面に彫られている。

Img_2643 宝持寺の北で左に曲がり東武日光線(正面)を渡り、県道へ152号へ。

Img_2645 県道を離れると静かな空間が広がる。

右端は真乗院

Img_2647 真乗院

Img_2646 説明板

Img_2649 千塚神社 【ルート地図】の②

社殿前は落葉と沢山の銀杏で埋まっている。靴で踏んづけて匂いがついてしまった。かなり前に落ちたもののようだ。もったいない。

Img_2650 説明板

前の「ささら獅子舞」の標柱が説明板にピッタリとくっつけて立っているので、説明板の後半が見えない。何を考えていることやら、いい加減なことをするよ。

Img_2657 宝性院

「新四国弘法大師埼東八十八ヵ所の第7番札所」「関東、坂東、埼東」、○○ヵ所、ややこしい札所があちこちにあるなあ。

右が不動堂

Img_2651 説明板

Img_2660 宝性院の塀の前の馬頭観音道標(文政6年(1823)建立)

「北 新井ふなとみち」・「東 ごんげんどうみち」

東は幕府が恐れた権現堂堤への道。今の県道152号で日光御廻り道。

Img_2662 東北新幹線をくぐる。

右は葛西用水の支流の北側用水路で、中郷用水、南側用水とともに、幸手領三用水の一つ。

Img_2665 そば屋「元禄」の手前で県道から離れ右へ、北側用水路沿いに進む。

Img_2668 静かでのんびりする道。

Img_2672 八甫鷲宮神社 【ルート地図】の③

Img_2676 宮裏橋を渡り、ここで左に曲がって車道を行くのだが、直進して中川土手に向う。

Img_2677 土手の手前の小祠

Img_2679 中川の土手道

Img_2683 宇都宮線で行き止り、車道へ戻る。

Img_2687 愛宕山神社

宇都宮線を越えた左側

Img_2689 古墳のような塚が前方に

Img_2691

浅間神社だった。

長いすべり台が塚上から下りている。

Img_2694 光厳寺

瑠璃山薬王院と号す曹洞宗の寺で、鷲宮の霊樹寺の末寺。

Img_2695 宝泉寺池 【ルート地図】の④

かつては利根川流路の一部だった。宝永元年(1704)の利根川水系の洪水の濁流で窪んだ所にできた池) 池の脇にあった宝泉寺はいつ頃まであったのだろうか?

Img_2699 説明板

Img_2696 日光御廻り道は右へ曲がり、池から離れて行く。《地図

この先、栗橋宿の日光街道との合流点までは次回に歩く。

Img_2700 地蔵堂 《地図

Img_2701 地蔵さん

右は頭部を新しくしたようだ。

Img_2710 レトロ風な床屋

Img_2712 古風な造りの家

Img_2713 霊樹寺前

中央のは何か?下部は「第一ばん」か?

Img_2715 霊樹寺門前の松並木は鷲宮町の天然記念物。並木というほどでもないが。

白鶴が運んできた松の枝から、松が伸びて繁ったという伝えがある。それで山号が「鶴松山」なのだろう。

Img_2717 霊樹寺

鷲宮山(じゅぐうざん)鶴松院(かくしょういん)と号する曹洞宗の寺で、陸奥国白川関川寺の末寺。

参道両側に並ぶ羅漢には番号札がつけられている。何かの霊場の札所になっているのか? 

Img_2724 鷲宮神社参道 【ルート地図】の⑤

境内は広く、参詣人も多い。

Img_2725 銅製の御神火燈

Img_2727 拝殿

Img_2728 本殿の堅魚木(かつおぎ)(鰹木)に日があたり、光を放っている。

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2009年12月 9日 (水)

岩槻慈恩寺道(葛飾区)

2009年12月7日

Img_2522_3 新柴又駅(北総開発鉄道)・・・医王寺・・・佐倉道分岐・上小岩親水緑道(公園)・・・(北総開発鉄道)・・・寅さん記念館・・・山本亭・・・柴又帝釈天(題経寺)・・・柴又駅・おりつ地蔵・・・(京成線)・・・柴又八幡神社・・・真勝寺・・・川甚・・・矢切の渡し・・・新葛西橋(水戸街道)・(JR常磐線)・・・葛西神社・・・光増寺①・・・金蓮院・・・しばられ地蔵(南蔵院)・・・松浦の鐘・・・水元公園・・・蓮蔵院・・・内溜・・・岩槻橋・・・長伝寺・・・延命寺・・・小合不動堂・・・地蔵堂・・・薬師堂・・・日枝神社・・・熊野神社・・・光増寺②・・・遍照院・・・閘門橋

 坂東三十三ヵ所観音霊場第12番慈恩寺への道が岩槻慈恩寺道だ。佐倉道との分岐の、江戸川区の上小岩親水緑道公園にある慈恩寺道の地蔵道標から北へ、葛飾区の岩槻慈恩寺道を行く。かつて道沿いにあった道標が移設されている寺などを訪ねて歩くので、慈恩寺道からはずれている所もある。

 少し冷たい北風に向って、「男はつらいよ」の柴又の帝釈天、矢切りの渡し、大岡裁きの「しばられ地蔵」(上の写真)、水元公園などに寄りながら、埼玉県三郷市との境の閘門橋まで歩く。三郷市の慈恩寺道は、「三郷七福神①」で歩いた中川沿いの旧道の道筋と重なるようだ。その先、慈恩寺道は、吉川市に入り、武蔵野線を越えて中川を渡り、元荒川沿い?を進み、越谷市で日光街道を横切り、慈恩寺へと通じていると思うが、詳しい道筋は調べていなので分からず。(足立区を通るルートもあった(ある)ようだがこれも未調査)

 *参考:『かつしかの道(岩槻慈恩寺道)』(葛飾区教育委員会)

  【ルート地図

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Img_2444

医王寺

足利義満の時代の建立で、眼病に霊験あらたかな薬師瑠璃光如来が本尊。それで「医王」寺か。

Img_2448 庚申塔道標(左端)

邪鬼の下に「ぢおんじ道 是より七里」と刻まれているそうだが、磨り減っていて読めず。

以前は医王寺は北東約300mの柴又6-22(今は寅さん記念館がある)の岩槻道に面した柴又堤上に建っていて、大正4年に現在地に移転した。

Img_2446 医王寺由来

Img_2454 佐倉道(親水さくらかいどう)

小さな流れは昔の農業用水路、右の小屋はお堂ではなく、清掃用具などの格納庫か?

Img_2453 説明板

Img_2456 巡拝塔道標・地蔵・馬頭観音の小堂(江戸川区の上小岩親水緑道公園内) 【ルート地図】の①

左に小堂、正面は江戸川の土手

Img_2457 巡拝塔道標(右端)

右側面に「是より右岩付慈恩寺道」と深く刻まれている。 この巡拝塔は正徳3年(1713)に坂東西国秩父の百札所の巡礼記念に建てられたもの。この道標も昔は慈恩寺道沿いの路傍にあったのだろう。中央は地蔵?で左は馬頭観音。

Img_2464 寅さん記念館

Img_2465 山本亭の洋風長屋門

大正末期から昭和初期に建てられた和洋折衷の建物と純和風の庭園。門をくぐって亭内を通り帝釈天の方へ抜けられる。もちろん無料。

Img_2467 ステンドガラスのしゃれた長屋門両側の袖部屋

以前は番人が常駐していたそうだ。

Img_2471 説明板①

Img_2472 説明板②

Img_2473 柴又帝釈天

記念撮影しているのは福島県から来た団体さん。バスガイドさんが訛っていた。正面がニ天門、その右奥が鐘楼。

Img_2479 平日でも参道は賑わっている。

Img_2480 「男はつらいよ」によく出てきた柴又駅。以前来た時には寅さんの像は立っていなかったと思うが。

Img_2481 おりつ地蔵尊 (上の写真の左隣) 【ルート地図】の②

実の親に殺された幼い娘の哀れで、悲痛な由来話の地蔵尊が祀られている。寅さんはこの地蔵のことを知っていただろうか。

Img_2482 由来

Img_2483 顔がはがれてきているようだ。これも律子の恨み、悲しみのなせる業か。新しくするか、修復して供養してあげたい気がする。

Img_2486 柴又八幡神社

社殿は帽子を被った「寅さん埴輪」が出土した古墳の上。6世紀後半築造の直径20~30mの円墳。

Img_2489 古墳石室説明板

神社の裏手をしつこく探したが、石室の名残りのようなもの見当たらず。

Img_2490 真勝寺

Img_2492 五智如来像

万治3年(1660)に建てられたもので、全国的に見ても五仏がそろっているのは数少ないという。

Img_2491 説明板

Img_2495 川魚料理「川甚

寅さんがよく口にしていた店だが、立派なビルになりすぎていて、あまり情緒がないと思うが。今日は「はとバス」の団体さんなどの予約が入っている。昔は矢切りの渡しの北の江戸川の河川敷にあったという。

Img_2497 矢切りの渡しあたりの江戸川 《地図

12月から3月初旬は土・日・祝日の運航。

矢切りの渡し♪を口ずさみながら江戸川の土手を遡る。やっぱり「ちあきなおみ」の歌はいいねえ。

Img_2501 葛西神社

境内は工事中だった。初詣のかき入れ時までに整備するのだろう。

境内の南角に「じおんじ道」の道標があるというが見逃した。もとは慈恩寺道沿いにあったそうだ。

Img_2504 葛西神社前の慈恩寺道沿いに立つ、文政2年(1819)建立の庚申塔。風雨にさらされ風化・摩滅が激しい。ずっと昔から慈恩寺へ向う人たちを見送ってきたのだろう。

Img_2505 光増寺①

Img_2506 舟形地蔵道標(右) 光増寺境内左手

右に「ミキいわつきしおんじミち」、蓮台正面に「金町村 道行弐百三十五人」とあるそうだ。慈恩寺は多くの信仰を集めていたようだ。これも以前は街道沿いにあったもの。元禄7年(1694)の建立で、刻銘のある道標では葛飾区内で2番目に古いもの。

Img_2508 説明板

Img_2510 地蔵道標(右) 光増寺境内右手

元文6年(1741)建立の地蔵の左側に「これより左いわつき志”おんじ道」、これは何とか見える。

Img_2517 金蓮院

Img_2515 愛染明王石像

二十六夜待講中が宝永7年(1710)に建立したもの。愛染明王の石像は全国的にも少ないそうだ。染色業者の信仰が篤いという。愛染→藍染か。

Img_2514 説明板

Img_2521 南蔵院(しばられ地蔵) 【ルート地図】の③

地蔵を召し捕り縛った大岡越前の登場する由来話顔写真。やさしい顔立ちの地蔵さんだ。顔にまで縄を巻くのは可哀そうだよ。

大岡政談の由来話は戦前の教科書にも載っていたそうだ。

Img_2525 縄でぐるぐる巻きにされた地蔵さん。

せちがらい、不況の昨今、願い事が多いせいか顔にまで縄が巻かれている。これじゃあ窒息死してしまいそうだが、「おりつ地蔵」と違って虐待されているわけではなく、自ら望んで?縛られているのだ。縛り縄(1本100円)、願いが叶った時の「解き縄入れ」も置かれている。

Img_2520 宣伝

元旦に初詣に行けば、テレビに映るかもよ。映ってもカメラの前でVサインだけは勘弁してよ。

Img_2529 野菜直売所(南蔵院の隣り)

Img_2531 松浦の鐘(水元公園の遊歩道沿い) 《地図

「松浦の小夜姫伝説」とはゆかりはない。

Img_2533 説明板

Img_2537 水元公園の小合溜

風が強くさざなみが立っている。水鳥は気持ちよさそうに波にちゃっぷちゃっぷ浮かんでいる。

Img_2542 蓮蔵院

Img_2544 聖観世音菩薩道標(宝暦6年(1756)の建立)

観音像の下に「右いわつきぢおんじ道」と刻む。これははっきり見える。もとは慈恩寺道の岩槻橋交差点(南水元4-27)にあったもの。岩槻橋はもとは観音橋と呼ばれていた。

Img_2548 料亭すずき

Img_2549 成田道道標(左・元治元年(1864)の建立)

正面上部に左方面を指す「手指」の線刻と「成田道 是より十四里」とあるそうだが、料亭の敷地内の玄関前なのであまり長居はできず、文字もよく見えずあきらめた。これも岩槻橋交差点にあったもの。成田道は佐倉道から成田不動尊へ通ずる道。

Img_2555 水元公園小合溜の内溜

Img_2559 釣り人がずらっと並んでいる。

内溜は正面奥の岩槻橋交差点近くまで伸びている。

Img_2558 水元桜大滝は水を循環、ろ過して内溜をきれいに保ち釣り天国にしているそうだ。

Img_2563 小合不動堂 【ルート地図】の④

Img_2565 石灯籠

寛永7年(1630)の建立で、紀年銘のある石灯籠では区内最古のもの。

Img_2564 説明板

Img_2566 この観音像?は元禄6年(1693)の銘のあるが、風化、摩滅も少ないしっかりした石像だ。(不動堂境内)

Img_2573 石灯籠・地蔵堂・石仏の並ぶ辻

石灯籠の台座には享保4年(1719)の銘がある。

Img_2571 堂内の般若心経の布を着ている地蔵。

Img_2574 旧家

Img_2576 参道は雑草で覆われお堂は荒れている。廃社か。

Img_2578 薬師堂

薬師像は拝めず。

Img_2580 日枝神社

Img_2587 阿弥陀三尊月待板碑はこの堂内か?(日枝神社境内の右奥)

扉の中は、また扉で見えず。左は天明4年(1784)の観音像?、右は天明?年の六面地蔵石憧。

Img_2582 説明板

Img_2590 熊野神社 《地図

右はタブの木

Img_2591 光増寺②

Img_2592 秩父西国坂東百番供養塔道標(本堂右手の墓地入口左手)

右面に「此方志おんじ道」だが、はっきり見えず。嘉永3年(1850)の建立。以前は光増寺南西100mほどの東水元5-10に立っていた道標。

Img_2594 遍照院

Img_2598 異形板碑(本堂手前の右側)

中央上部に梵字でキリーク(阿弥陀種子)を印刻。それ以外の刻銘などは見えないが、当初から無かったのか、風化、摩滅で消えてしまったかは不明という。以前は閘門橋付近の堤上の「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下に立っていたそうだ。

Img_2597 説明板

Img_2602 閘門(こうもん)橋 【ルート地図】の⑤

荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差し込んでいる姿のブロンズ像が2体。

Img_2599 説明板

Img_2606 閘門橋から大場川(昔は小合川)

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2009年12月 6日 (日)

坂名一覧表

「坂道散歩」で今までに歩いた坂を、都道府県別区市町村別にまとめて表にしてあります。 「坂名一覧」

★ 12月2日「日光御成道(岩槻宿→大門宿」で1坂を追加しました。

★ 11月27日「日光街道(小金井宿→宇都宮宿)」で2坂を追加しました。

★ 11月9日「日和田山・物見山」で2坂を追加しました。

★ 11月6日「天覧山・多峰主山」で4坂を追加しました。

★ 10月23日「中山道(熊谷宿→本庄宿)」で1坂を追加しました。

荒川区 10坂 ・ 足立区 2坂 ・ 板橋区 68坂 ・ 大田区 57坂 ・ 北区 60坂 ・  品川区 24坂 ・ 渋谷区 36坂 ・ 新宿区  98坂 ・ 杉並区 30坂 ・ 墨田区 1坂 ・  世田谷区 41坂・  台東区 19坂 ・ 千代田区 63坂 ・ 豊島区 12坂 ・ 中野区 7坂 ・ 練馬区 4坂 ・ 文京区 126坂 ・  港区 127坂 ・ 目黒区 41坂。 今のところ東京23区826です。

その他、北海道の小樽市 32坂、函館市 19坂、江差町 4坂、松前町 5坂。

青森県 十和田市 3坂 ・ 三戸町 坂 ・ 南部町 3坂 ・ 五戸町 12坂 ・     七戸町 1坂 ・ 東北町 1坂。

岩手県 北上市 2坂 ・ 水沢市 2坂 ・ 二戸市 1坂。

山形県 上山市 10坂 ・ 酒田市 4坂。

宮城県 仙台市 21坂 ・ 富谷町 1坂。

福島県 郡山市 4坂 ・ 白河市 4坂 ・ 須賀川市 5坂 ・ 二本松市 2坂 ・      矢吹町 1坂。 

新潟県 新潟市 1坂。

石川県 金沢市 68坂。

群馬県 前橋市 6坂。

栃木県 足利市 2坂 ・ 栃木市 2坂 宇都宮市 2坂。

茨城県 つくば市 1坂 ・ 取手市 30坂 ・ 常陸太田市 14坂 ・ 結城市 1坂 ・古河市 1坂。

埼玉県 朝霞市 22坂 ・ さいたま市 22坂 ・ 川口市 4坂 ・ 川越市 2坂 ・ 熊谷市 1坂 ・ 志木市 3坂 ・ 秩父市 5坂 ・ 所沢市 8坂 新座市 23坂 ・ 鳩ヶ谷市 1坂. ・ 本庄市 6坂 ・ 和光市 15坂 ・ 飯能市 7坂 ・ 日高市 2坂 ・ 小鹿野町 1坂 ・ 越生町 1坂 ・ 菖蒲町 1坂  横瀬町 3坂  吉見町 1坂  岡部町 1坂。

千葉県 市川市 8坂 ・ 佐倉市 10坂 ・ 流山市 23坂 ・ 松戸市 8坂。

東京都市町村  立川市 10坂 ・ 府中市 31坂 ・ 国分寺市 5坂 ・ 国立市 5坂 ・ 小金井市 41坂 ・ 八王子市 5坂 ・ 調布市 68坂 ・ 羽村市 15坂 ・ 清瀬市 3坂 ・ 町田市 26坂 ・ 三鷹市 3坂 ・ 八丈島(東京都八丈町) 9坂 ・ 多摩市 21坂 あきる野市 71坂  福生市 5坂 日の出町 1坂。

神奈川県 横浜市(保土ヶ谷区 25坂 ・ 戸塚区 3坂 ・ 旭区 9坂 ・ 西区 14坂。南区 28坂 ・ 神奈川区 3坂 ・ 鶴見区 51坂 ・ 中区 30坂 ・ 港北区 4坂 ・ 都筑区 1坂 ・ 青葉区 3坂 ・ 緑区 2坂) ・ 座間市 83坂 ・ 海老名市 50坂 ・ 相模原市 61坂 ・ 横須賀市 82坂 逗子市 8坂 ・ 川崎市 35坂 鎌倉市 12坂 ・ 三浦市 7坂 ・ 大和市 45坂 ・ 綾瀬市 28坂 ・ 厚木市 90坂 ・ 葉山町 8坂。箱根町(旧東海道) 18坂。

静岡県三島市(旧東海道) 12坂

岐阜県 中津川市 5坂 ・ 恵那市 19坂 瑞浪市 23坂 ・ 御嵩町 6坂 坂祝町 1坂 各務ヶ原市 5坂 岐阜市 1坂。

愛知県名古屋市  18坂

三重県志摩市大王町 2坂

大阪市 18坂 

京都府 京都市 7坂 ・ 井出町 1坂 ・ 木津川市 1坂 ・ 城陽市 2坂

奈良県 奈良市 6坂 ・ 天理市 1坂

兵庫県神戸市 19坂 ・ 尼崎市 1坂 ・ 姫路市 1坂 ・ たつの市 1坂 ・ 佐用町 2坂。

岡山県 7坂。

広島県尾道市  3坂

島根県 5坂

香川県 4坂

徳島県 24坂

高知県 20坂

愛媛県 18坂 

長崎県 長崎市 76坂  島原市 4坂  諫早市 2坂 

大分県 1坂で 合計2605です。

 【坂道散歩人物録

 【伝説・伝承・民話・昔ばなしのある坂

 【動物坂名アラカルト

 【秩父三十四札所

 【四国八十八札所

 【全国地蔵相談所

 【参考文献・資料等】(主なもののみ)

 【落語逍遊録

 【伝言板】 ご質問、ご意見、ご感想、記事の間違いのご指摘、その他、坂に関する情報をお待ちしております。

            

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日光御成道(岩槻宿→大門宿)

2009年12月2日

Img_2334_2 岩槻駅(東武野田線)・・・裏小路木戸跡あたり・・・遷喬館・・・芳林寺・・・国道122号・・・高札場跡あたり・郷土資料館・・・八雲神社・・・人形歴史館・・・洞雲寺・・・久伊豆神社・・・金毘羅坂・・・「わらべ人形」の交差点・旧道・・・琴平神社・馬坂跡・・・(東武野田線)・(東北自動車道)・・・(東武野田線)・・・県道2号・・・大橋(綾瀬川)・・・新簀子橋・・・古簀子橋・・・県道64号・・・県道105号・・・六天神社・・・満蔵寺・・・膝子八幡神社・・・膝子の一里塚跡・・・光徳寺・・・天神宮・・・浦和競馬トレーニングセンター・・・さぎ山記念公園・・・天久保坂・・・照光寺・・・氷川神社・・・正八幡神社・・・(国道463号)・・・(東北自動車道)・・・大興寺・・・赤門稲荷神社・・・大門宿脇本陣跡・・・本陣跡・・・大門神社・・・貝殻坂上・・・一本木坂・・・東川口駅(JR武蔵野線)

 小春日和で南に歩いていると暑いくらいだ。日光御成道は岩槻宿の西の「わらべ人形」の立つ辻から大きく逆U字形に北へ迂回する。これが馬坂の跡だが、なぜ迂回するのか、今の道を歩いただけでは分からないだろう。車の多い県道2号から大橋、新簀子橋、古簀子橋と渡り県道64号から105号へと入る。この道もあまり面白味はないが、西側には見沼代用水東縁が流れ、東側も田舎っぽい風景が広がっていてほっとする。

 膝子の一里塚跡からさぎ山公園の前を通り、東北自動車道を越えると大門宿で、脇本陣、本陣の門が宿場風情を感じさせてくれる。一本木坂上で御成道から離れ、坂を下って東川口駅に向った。 

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2294 裏小路木戸跡あたりの旧家(遷喬館前の通り)

江戸時代、岩槻藩士の居住地は小路(こうじ)と呼ばれ、警護のための木戸(門)が設けられていた。広小路をはじめ、諏訪、渋江、浄安寺、天神、裏、新、江戸などの小路があった。

Img_2301 遷喬館 《地図

「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれた、児玉南柯の開いた藩校。

Img_2298 説明板

Img_2307 芳林寺

山門の前には狛獅子が鎮座している。境内に太田道灌の墓がある。越生町の龍穏寺、神奈川県伊勢原市の洞昌院にもある。

Img_2308 説明板

Img_2312_2 六地蔵と道標の後ろに太田道灌像

Img_2313 八雲神社

ここあたりで開かれた市の神。神社前のバス停は「市宿」

Img_2314 由緒

Img_2315 郷土資料館(旧岩槻警察署の建物)

Img_2317 人形歴史館

Img_2318 洞雲寺

太田道灌の墓がある越生町の龍穏寺の末寺。

Img_2319 説明板

Img_2322 久伊豆神社

岩槻にいくつもある久伊豆神社の一つ。

Img_2330 庚申塔

右は元禄15年(1702)の建立の「岩槻型青面金剛像」

詳細は、『岩槻型青面金剛造について』参照。

Img_2325 旧道は右へ曲がってすぐ左に曲がる。金毘羅坂は左へ、直進は国道122号

Img_2327 金毘羅坂 「わらべ人形」の立つ交差点から東北自動車道へ下るゆるやかな坂。【ルート地図】の①

今はこの坂と琴平神社の間を国道122号が通っている。

Img_2333 旧道の入口のわらべ人形。

旧道は左へ曲がる。(写真の正面方向)

Img_2335 琴平神社の裏参道

表参道は国道122号から。

Img_2336 琴平神社 《地図

小社だった。

Img_2339 馬坂跡 東北自動車道に沿って、東武野田線を越え、自動車道をくぐり、再び野田線を渡る。 【ルート地図】の②

逆U字形に大きく迂回する道筋が馬蹄形なので、この坂名がついたようだ。なぜ迂回したのかは、①地形状の理由、②岩槻城下の防衛上から ①と②の両方からの説がある。今は東北自動車道や東武野田線の線路で昔の坂の面影はない。

Img_2340 東北自動車道をくぐる。

Img_2345 新簀子橋から綾瀬川

Img_2357 満蔵寺

Img_2358 説明板

Img_2361 板石塔婆

嘉暦4年(1329)の銘がある。

Img_2359 説明板

Img_2360 円空仏は県立博物館に寄託。

秘仏とか何十年に一度の開帳なんかにするより、はるかにましだ。もっともこの阿弥陀像は本尊ではないが。

Img_2363 第六天神社

Img_2364 膝子八幡神社 《地図

樹齢300年という、どっしりとした大ケヤキが参道にそびえ、いかにも村社といった感じの寺だ。

Img_2375  膝子の一里塚跡(東塚) 膝子公民館の前 【ルート地図】の③

Img_2374 説明板

設置台からはずれて(はずされて)後ろに立て掛けられている。

Img_2371 塚の斜面に立つ六地蔵石塔(正徳?年の銘がある)と回国供養塔

Img_2380 光徳寺

天保13年(1843)の12代将軍家慶の日光社参の際には休憩所となった。これが最後(19回目)の日光社参となり、明治維新を迎えた。

Img_2378 説明板

Img_2379 説明板

Img_2390 天満宮への道の庚申塔

Img_2383 板石塔婆(延慶3年(1310)の銘)

だいぶ風化しているが上部に阿弥陀像が見える。寺の境内、門前ではなく、一般道の道端に立っているのは珍しいのでは。満蔵寺の塔婆より古い。

Img_2382 説明板

Img_2384 天満宮 《地図

Img_2385 浦和競馬トレーニングセンター

競走馬は1頭も見当たらず。調教、トレーニングは早朝か。浦和競馬もつぶれそうで、なかなかつぶれない。まあこの先そう長いこともないだろうが。

Img_2392 天久保坂 《地図

「さぎやま記念公園」東側の坂。

Img_2395 照光寺

手入れの行き届いた植え込みの参道が気持ちいい。

Img_2396 氷川神社

いくつもある氷川神社の一つ。

Img_2399 正八幡宮

Img_2400 庚申塔(右と中)・馬頭観音(左下)

「浦和大学入口」バス停手前の左側(大門宿に向って)

「浦和大学」があるなんて知らんかった。

Img_2401 左下の馬頭観音

小柄ながら顔は怖く、迫力満点、「山椒は小粒でひりりと辛い」か。天明4年(1784)の銘がある。

Img_2403 庚申塔

「支所入口」バス停先の交差点の右側。享保5年(1720)の造立だが、路傍のわりには風化も少なくしっかりとした像だ。

Img_2407 大興寺

Img_2409 徳本上人念仏供養塔

文政4年(1821)の建立。

Img_2408 説明板

Img_2416 赤門稲荷神社(脇本陣の裏)

由緒書はややこしいが、茶吉尼天と大黒天が一緒になったのが、赤門陀枳尼稲荷ということか。参道の赤い幟旗は、飯能市の清水坂の坂下近くの「豊川陀枳尼天真社」にあったものと同じだ。

Img_2412 由緒

Img_2417 大門宿脇本陣表門 【ルート地図】の④

赤門稲荷神社の前から撮った門の裏側の写真。茅葺きの屋根が保護シートで覆われている。前面にはシートは掛かっていない。前面から撮った写真はピンボケになっていた。

Img_2418 説明板

Img_2424 本陣表門

Img_2422 説明板

Img_2429 大門神社

旧大門村、下野田村の鎮守。

参道の一部分を車が通り、「歩行者注意」の看板が立っている「こわい、こわい」参道。これも苦業の一つか。

Img_2431 由緒

Img_2436 境内摂社の愛宕神社

Img_2435 愛宕神社の向拝の龍

伝左甚五郎作とか。これが・・・・。

Img_2440 貝殻坂(右) 【ルート地図】の⑤

左が御成道の岩槻方向。貝殻坂は御成道の坂ではなく、御成道から北方向に曲がって下る坂。

この付近から貝殻が出てくるところから、この名が付けられたと思われる。『わがまち浦和』

Dsc08710 

Img_2441 坂上の小堂

一画を掘り返している。お堂はどうなるのか。

この先、鳩ヶ谷宿、川口宿から荒川を渡り、岩淵宿、日本橋へと続く。そこいらは「坂道散歩」で小間切れに歩いているので日光御成道歩きはここでお終いとした。

Img_2443 一本木坂を下って東川口駅へ向った。

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2009年12月 5日 (土)

日光御成道(幸手宿→岩槻宿)

2009年11月30日

Img_2206 幸手駅(東武日光線)・・・陣屋稲荷・・・県道65号(岩槻幸手線)・・・志手橋(倉松川)・・・(東武日光線)・・・追分(日光街道・日光御成道)・・・琵琶溜井(葛西用水)・・・馬頭観音道標・・・天神社・・・下高野の一里塚跡・・・和戸橋(大落古利根川)・・・和戸交差点・庚申塔・・・(東武伊勢崎線)・・・国納橋(備前堀川)・・・西粂原鷲宮神社・・・上野田交差点・庚申塔・供養塔・・・下野田の一里塚跡・・・野田橋(姫宮落川)・・・往還橋(隼人堀川)・・・庚申堂(お玉さま)・・・宝国寺・・・日枝神社・杉並木・相野原の一里塚跡あたり・・・観音入口交差点・・・天満宮・・・毘沙門堂・・・慈恩寺・・・新井薬師堂・・・地蔵・・・石仏群(慈恩寺公民館)・・・表慈恩寺交差点・・・慈恩寺橋(元荒川)・・・(南辻の)地蔵・・・龍門寺(上の写真)・・・田中口跡(槍返しの門跡)・・・(東武野田線)・・・浄安寺・・・時の鐘・・・岩槻城址公園・・・岩槻宿の一里塚跡碑(岩槻区役所前)・・・大龍寺・・・愛宕神社・・・願生寺・・・岩槻宿本陣跡あたり・・・岩槻駅(東武野田線)

 日光街道との合流点の幸手宿から江戸に向って岩槻宿まで日光御成道を歩く。車の多い県道65号で街道風情は松、杉並木の名残りと一里塚跡ぐらいだが、ちょうど銀杏の黄葉がピークで目を楽しませてくれた。雲っていて寒い日だったそうだが、南方向に向っているせいか風も弱く、坂道散歩には手頃な日だった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2068 陣屋稲荷(一色稲荷) 幸手駅から南東へ、日光街道へ向う陣屋道の右側。 《地図》 

古河公方足利氏の家臣、一色氏の館跡の南東に祀られた一色氏の守り神で、鎌倉の一色稲荷神社を分祀したものという。幸手駅あたりが一色氏の館、幸手城だったという。

Img_2069 説明板

Img_2079 日光街道(左)との追分 スーパー「ベルグ」の前の三叉路。《地図

Img_2080 琵琶溜井前の庚申塔と説明板

Img_2082 琵琶溜井(葛西用水)

Img_2081  説明板

Img_2085 馬頭観音道標(右)

直進が日光御成街道岩槻方向。

Img_2086 馬頭観音道標

Img_2090 松並木跡の2本の松

昭和30年頃までは松並木が残っていたという。

Img_2091 説明板

             

Img_2092 天神社 《地図

幸手の一色氏の家臣の相良氏が幸手城下の裏町天神神社を分祀したものという。一色氏は源頼朝が鎌倉の二階堂に祀った荏柄天神社を崇敬し、領内各所に天神様を祀り、「一色五天神」(幸手宿・平須賀村・神扇村・天神島村と、ここの上高野村)とも称された。

Img_2099 八幡神社

江戸時代の下野村の鎮守の一つ。

Img_2097 由緒

Img_2100 下高野の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の①

ここは西側を流れる古利根川の自然堤防の上。

Img_2102 説明板

Img_2109 和戸橋(大落古利根川)

橋の手前を左に入った永福寺の門前手前に「西行見返りの松」がある。

Img_2112 庚申塔(和戸交差点を渡った所の右側)

ブロック塀をへこませて作り、しっかりと保護している。

Img_2115 僊元宮?

分からず。

Img_2116 西粂原鷲宮神社(社務所?・社殿の写真は失敗) 

将軍家の日光社参は、二代秀忠を初めとして、全19回行われた。天保14年(1843)の12代将軍家慶の社参では、家慶は宝国寺から歩いてこの社で休憩し、軽食をとったとの記録があるそうだ。

Img_2118 説明板

Img_2124 庚申塔(上野田交差点先)

2m以上の高さがあるか。左は「東日本廻国供養塔」

Img_2130 下野田の一里塚跡(右が東塚) 【ルート地図】の②

日本橋から11番目の一里塚。(写真は通り過ぎた所から)

Img_2129 説明板

Img_2136 往還橋から隼人堀川 《地図

これでも「一級河川」だ。昔、岩槻の村人はこの橋まで来て日光社参の将軍一行を見送ったという。この橋で義理を果たしたので、地元ではひそかに「義理橋」と呼んだという。義理とはいえ、忙しい中をわざわざここまで出向いて見送るのだから村人もご苦労さん、迷惑な話だ。

Img_2142 庚申塔(お玉さま) 鹿室交差点の右側 【ルート地図】の③

Img_2140 お玉が奉納されている。

子どもが病気になると、村人はここからお玉を借り、治ると借りたお玉と新しいお玉を奉納する習わしだった。お玉は汁の実(身)を掬う(救う)から。

Img_2145 宝国寺

永正9年(1512)に没した熊山和尚が開山という。山門の西側には将軍の日光社参の折、新茶屋が設けられ、小休止所とされた。ここからは富士山がよく見えて富士見台と呼ばれていた。

Img_2147 杉並木の名残り(日枝人のそば)

Img_2149 日枝神社 《地図

Img_2150 相野原の一里塚跡あたり

日枝神社先の「相の原」バス停前の坂の坂下あたりか?

Img_2158 天満宮

観音入口交差点から左に入り、慈恩寺へ向う道の右側。もっと大きな社と思っていた。

Img_2162 毘沙門天堂 《地図

運慶作と伝える毘沙門天像が祀られているというが・・・。

Img_2167 慈恩寺山門

坂東三十三ヵ所観音霊場12番札所。

Img_2168 慈恩寺文書説明板

Img_2169 慈恩寺

天長年間(824~833)の創建。かつては66もの堂塔を誇ったという古刹で境内は広いが、樹木が少なく殺風景な感じがする。

Img_2174 新井薬師堂?

Img_2175 地蔵さんが見守るのどかな道。なだらかに下っているから「地蔵坂」と呼ぼうか。

Img_2178 石仏群(公民館前)

右へ御成道へ戻る。

Img_2179 庚申塔・廻国供養塔・千手観音(馬頭観音かも)などが集められている。《地図

Img_2192 旧家

塀の前に馬頭観音

Img_2195 (南辻の)地蔵 《地図

左が御成道

Img_2201 龍門寺山門

慈覚大師の作という、「手なし不動」が安置されている。岩槻藩主大岡忠光の墓もある。大岡忠光は名奉行大岡越前守忠相の一族で、前藩主の永井直陳(なおのぶ)が「槍返しの門」の一件で、美濃加納城に国替えになった後を継いだ。

「手なし不動」の伝説:「この不動はたいそういたずら好きで、毎夜大入道に化け、御成道に出て通行人を驚かした。この話を耳にした武士が待ち伏せし、現れた大入道に切りつけた。すると大入道は大きな音を立てて崩れ、黒雲が天地を覆ってしまった。翌朝、寺僧が見に行くと不動の片腕が落ちていた。これ以後、何度腕をつけても落ちてしまうので、「手なし不動」と呼ばれるようになった。」 この不動は今は本堂内に安置されているという。

Img_2202 説明板

Img_2219 田中口木戸門跡 《地図

ここに番所、高札場があった。

八代将軍吉宗の日光社参道の折、ここの木戸門の屋根が低く、行列が槍を立てたまま通ることができなかった。屋根を壊すよう命令が出たが、時の岩槻城主永井直陳(なおのぶ)は、「槍を倒してお通りください」といって通させた。これが幕府の怒りにふれ、美濃加納に国替えされてしまったという。それ以来、この門は「槍返しの門」と呼ばれるようになった。現在は浄安寺の山門になっている。

 岩槻藩主は目まぐるしく、入れ替わっている。永井直陳の頃の岩槻藩は3万3千石で、美濃加納藩には3万2千石で入っている。「槍返しの門」事件の幕府の怒りが国替えの原因だったとも思われない。中山道沿いの加納藩(岐阜駅の近く)の方が、岩槻城下よりも発展していて賑やかだったのではないか。左遷ではなくむしろ栄転だろうか。

Img_2220 旧家

Img_2228 浄安寺山門

田中口から移された「槍返しの門」

Img_2227 浄安寺

Img_2238 時の鐘 【ルート地図】の④

江戸後期には、1日12回撞かれ、城内、城下に時を知らせていたという。

「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯(なんか)と時の鐘」とうたわれていた。さほど著名人でも名所でもないと思うが、岩槻の人たちは謙譲の美徳を心得ているのだろう。

Img_2239 説明板

Img_2229 岩槻城下説明板

Img_2244 岩槻城址公園案内図

Img_2245 説明板

Img_2247 黒門

もとは城内のどこにあった門なのかは不明。明治維新後に埼玉県庁の正門となり、後に知事公舎の正門となり、昭和29年、岩槻市に払い下げられ、昭和45年、現在の岩槻城址公園内に移築された。

Img_2246 説明板

Img_2252 城を守っていた沼と八つ橋

Img_2258 裏門

これもここに移築されたもので、かつての位置は不明。

Img_2257 説明板

Img_2262 (岩槻の)一里塚跡碑 【ルート地図】の⑤

後ろは岩槻区役所

Img_2261 説明板

Img_2263 大龍寺

岩槻城主青山伯耆守忠俊の開基で元和6年(1620)の創建。

Img_2268 愛宕神社

城下を囲む外堀と土塁の「大構」(おおがまえ)の上に社殿がある。

Img_2273 説明板

Img_2271 説明板

Img_2276 右が土塁跡で、下に堀が廻り、野田線の線路を越えて田中口まで続いていた。《地図

正面は東武野田線の踏切

Img_2287 願生寺

どっしりとした茅葺き屋根で落ち着いた雰囲気の寺。

Img_2288 阿弥陀三尊月待供養板碑

Img_2282 説明板

Img_2290 本陣跡あたり

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2009年12月 4日 (金)

日光街道(徳次郎宿→大沢宿→今市宿)

2009年11月28日

Img_1919 JR宇都宮駅 バス→文星大学前・・・釜川・・・光明寺・・・(宇都宮北道路)・・・高谷林の一里塚跡・・・(東北自動車道)・・・薬師堂・・・(国道293号)・・・徳次郎宿・智賀都神社・・・宝木用水・二宮堰・・・大網下橋?(田川)・・・国道119号・・・石那田(六本木)の一里塚跡・・・田川大橋(田川)・・・石那田八坂神社・・・お願い地蔵・・・新渡神社・・・上小池の一里塚跡あたり・・・日光杉並木寄進碑・・・大沢宿・・・王子神社・・・龍蔵寺・・・八坂神社・・・水無の一里塚跡・・・来迎寺・・・さくらすぎ(桜杉)・・・七本桜の一里塚跡・・・(国道461号)・・・(東武日光線)・・・追分地蔵(日光例幣使街道合流点)・・・下今市駅(東武日光線)

 宇都宮の朝は冷えるかと思っていたが、そうでもない。今日は車がひっきりなしに行き交う国道119号歩きで見るべき所も少ない。徳次郎宿、大沢宿には宿場の面影は感じられず、一里塚跡を目標に歩く、一人オリエンテーリングみたいだ。

 飽きてきてつい足早になる。そうすると疲れが増す。徳次郎宿の智賀都神社から街道を離れ、宝木用水、二宮堰の方へ入る。のどかで静かで、用水の流れのある道で生き返る。(上の写真 二宮金次郎の事蹟を見るには初めてのような気がする。どうも彼には薪を背負いながら苦労して勉強したお兄さんのイメージしか湧いてこない。気分のいい道歩きは長くは続かず、再び酷道に戻りひたすら歩く。それほどの悲壮感はないけど。

 日光杉並木に入れば往時の街道風情を楽しめるかと期待したが、杉並木の間は車中心の通りとなっていて、あてが外れた。遊歩道の部分もあるが、それは杉並木の外についている所が多い。一度歩けば日光(杉並木)は、もうけっこうだ。杉並木を抜けると、日光例幣使街道との合流点で、地蔵堂に大きな追分地蔵が祀られている。ここを今回の日光街道歩きの終点とした。この先、東照宮へは倉賀野から日光例幣使街道を歩いてきてからのこととしよう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1875 光明寺(関東八十八カ所霊場第23番札所)

寺の前には立場があったといい、徳川将軍の日光社参の時には休憩所にもなった。山門は四国八十八カ所のいくつかの寺にもある竜宮門。

Img_1879 並木道を行く。

Img_1881 高谷林(こうやばやし)の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の①

江戸から29番目

Img_1882 西塚

Img_1889 薬師堂(徳次郎交差点の手前左) 《地図

右の覆屋に馬頭観音などが並ぶ。

Img_1894 馬頭観音道標(右)・十九夜塔(中)・六面地蔵石憧(左)

馬頭観音の台石側面には側面には「右 山道 左 氏家 白沢道」と刻まれている。

Img_1897田中道道標(徳次郎交差点のすぐ南の左側)

「神社入口道五丁 田中道」と刻む。「神社」は国道293号を西に進んだ日光宇都宮道路近くの「神明宮」だそうだ。

徳次郎交差点から西50mに「痣地蔵堂」がある。

Img_1901 智賀都(ちかつ)神社の大ケヤキ

「とちぎ名木百選」の樹齢700年の「徳次郎のけやき」

徳次郎(とくじら)宿は、本陣3軒、脇本陣4軒、旅籠72軒 で、日光側から上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿からなり、一月の上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎、下10日を下徳次郎に割り当て、交代で継立を行っていた。日光に大きな勢力を持っていた久次郎(くじら)氏の一族が、日光の宗家・久次郎氏に対して外久次郎氏を称したことに由来するといわれる。もともとは上徳次郎だけが人馬の継ぎ立てを行っていたが、中・下の願いにより享保9年(1724)からは中徳次郎と下徳次郎にも宿場が置かれた。

街道沿いに宿場の面影を残すものは見あたらず。 

Img_1904 説明板

Img_1907 智賀都神社 《地図

徳次郎宿の総鎮守

Img_1922 二宮堰・宝木用水 【ルート地図】の②

田川の水位が低いので堰により水を溜めて取水し、灌漑用水とした。正面の堰は二宮金次郎の設計によって造られた当時のものではないようだ。

このあたりは親水公園となっている。

Img_1915_2  説明板

Img_1926 金精さまの男根(二宮堰から国道119号へ戻る途中)

元気でなによりだ。

Img_1937 石那田(六本木)の一里塚跡(東塚) 【ルート地図】の③ 

船生街道入口交差点の「一里塚バス停」の所。江戸から30番目。

Img_1936 西塚の名残りか

Img_1939 十九夜塔(一里塚のすぐ先の左側)

Img_1952 石那田八坂神社(田川大橋を渡った左側)

Img_1957 馬頭観音か?

Img_1960 馬頭観音か庚申塔?(中)・左右は?

Img_1963 つぶれたラブホテル

「兵どもの夢の跡」?か。街道沿いの廃墟で寒々しい。

Img_1964 大谷石の農家の蔵か。(松本バス停の所)

Img_1965 お願い地蔵堂(松本バス停の少し先の左側)

Img_1967 由来

Img_1966 お願い地蔵尊

身体の悪い所に赤い布を付けて願うと、全快治癒のご利益あり。享保15年(1730)の建立。「うらない仏」はこの地蔵のことのようだ。

Img_1971 新渡(にわたり)神社

神体は石の不動尊

Img_1972 寅巳山(445m)

来年は寅年の人が多く登るかも。

Img_1974 上小池の一里塚跡あたり(新渡神社の先、日光市との境近く)

南塚跡が残っているというが、探しても分からず。江戸から31番目。

Img_1994 日光杉並木

Img_1992 杉並木寄進碑(説明板の左の石碑)

日光神領の境界に4箇所立てられていて、境石と呼ばれている。

Img_1993 説明板

Img_1997 王子神社 《地図

大沢宿の鎮守。樹齢200年の大イチョウというが、一本だけなので目立つようだ。もっと大きなイチョウはあちこちで見かける。

大沢宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒。ここも宿場の面影はない。

Img_1998 説明板

Img_1999 龍蔵寺

Img_2000 西郷隆盛のような顔立ちの地蔵さん。

Img_2002 六尺藤(龍蔵寺境内)

太い台木に2カ所の接木をして、現在は4本の太い枝が伸びている。見頃は5月半ば。

Img_2001 説明板

Img_2007 八坂神社

鳥居の右前が2本の杉の根元が癒着した二又杉の「枝喰い杉」か? うっかりしてよく見なかった。

Img_2008 杉並木が続く。

杉並木の間は一方通行の車がスピードを上げて通る。歩道が分離していなく、歩きづらいので杉並木の外側を歩いてみた。

Img_2010 うっすら雪化粧の山

昔は今頃は真っ白だったのだろう。

Img_2012 水無しの(大沢)一里塚跡(東塚) 下水無バス停手前

江戸から32番目

Img_2013 西塚

Img_2015 延命地蔵堂の所で杉並木の間に戻る。

Img_2018 延命地蔵

ここもさっきの「お願い地蔵」同様、赤い布を着せられている。

Img_2022 堂の前には六面地蔵石憧などの石仏が並ぶ。

Img_2032 来迎寺

Img_2039 さくらすぎ

杉の割れ目に桜の種が落ち、杉の体内を通って根をおろしたもの。一本の木のようになっている

Img_2043 七本桜の一里塚跡(東塚) 七本桜交差点の手前 【ルート地図】の④

江戸から33番目

Img_2049 説明板

Img_2046塚上の杉の根元が大きな空洞になっている。4人くらいはここで泊まれそうなので、「並木ホテル」と呼ばれている。3方向に口が開き、中から1本の竹が外へ伸びている。

Img_2056 日光例幣使街道(右)との追分 【ルート地図】の⑤

正面に追分地蔵堂

Img_2063 追分地蔵

追分の分岐点に立つ、露座の小さな石地蔵さんと思っていたが、堂の中の巨大な坐像だ。八代将軍吉宗の時にはすでに現在地にあったという。この前には「くさ地蔵尊」、「二十三夜尊」、子育地蔵、安産地蔵などが控えている。

この地蔵尊は弘法大師が日光含満ヶ淵に建てたものだが洪水で流され、大谷川の砂原に埋まっていたのを、近くの人が大石と思い楔を打ち込んだところ赤い血が出た。という逸話があるそうだ。

Img_2062 説明板

Img_2060 くさ地蔵

追分地蔵の脇仏のようで、悟りきったような顔をしている。

Img_2065 下今市駅

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2009年12月 3日 (木)

日光街道(小金井宿→石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿)

2009年11月27日

Img_1866 小金井駅(JR宇都宮線)・・・小金井の一里塚跡・・・慈眼寺・・・金井神社・・・小金井宿本陣跡・・・蓮行寺・・・薬師堂・・・旧道・・・国道4号・・・旧道・下石橋の一里塚跡あたり・・国道4号・・・夕顔橋の石仏群・・・(国道352号)・・・愛宕神社・・・石橋宿脇本陣跡・・本陣跡・・・開雲寺・・・下古山の一里塚跡あたり・・・鞘堂地蔵尊・・・星宮神社・・・(北関東自動車道)・・・茂原観音道標・・・雀宮の一里塚跡あたり・・・雀宮宿本陣跡碑・脇本陣跡・・・雀宮神社・・・(国道121号)・・・寿鶴薬師堂・・・菅原神社・・・江曽嶋の一里塚跡あたり(一里バス停)・・・国道4号・・・(JR日光線)・・・不動堂(不動前交差点)・・・(東武宇都宮線)・・・蒲生君平勅旌碑・・・台陽寺・・・熱木不動尊・・・一向寺・・・天満宮・・・報恩寺・・・戊辰の役戦士の墓・・・六道の辻閻魔堂・・・光琳寺・・・材木町木戸跡あたり・・・宇都宮宿本陣・問屋場跡あたり・・・朝日坂・・高札場跡・・・追分(奥州街道)・清住通り・・・三峰神社・・・亀の甲坂・・・延命院・・・宇都宮の一里塚跡あたり・桂林寺・琴平神社・・・国道119号・・・薬師堂・・・高尾神社・・・上戸祭の一里塚跡・文星大学前バス停→JR宇都宮駅・・・ホテルサンルート宇都宮

 今日の予定は宇都宮宿までで、かなり距離もある。早起きしてラッシュ前の電車に乗る。朝霧で宇都宮線は5分ほど遅れたが、小金井駅には7時半前に着いた。駅のすぐ近くに小金井の一里塚跡が2基しかっりと残っている。塚の間を日光街道が通っていたというが、随分と狭い感じだ。ここを日光社参の行列が通ったのだろうか。

 東京から88kmの標柱の立つパチンコ店(パーラークイーン)の駐車場から旧道に入る。下石橋の一里塚跡まで続いていると思いきや行き止りとなり、国道へ旭自動車の前から再び旧道に入るのだが、すぐにこの道も石橋消防署の裏手で行き止まりで一里塚跡ははっきり確認できず。石橋消防署の正面へ回って一里塚へ行こうとしたが、道もないようであまりウロウロしていると消防署へ放火でもするのではと怪しまれそうなので、すごすごと退散する。

 石橋宿、雀宮宿にも昔の面影は残らず、この間、3つある一里塚も跡形、痕跡、説明板もなし。単調な国道歩きが続きいい加減に飽きと疲れが来た頃、やっと不動前交差点から国道4号とおさらばし、左に旧道に入ると宇都宮宿はもうすぐだ。もう国道4号と出会うこともなし、お互いせいせいしたか。出会えて嬉しいのは坂だ。日光街道を歩いて初めての坂、朝日坂(奥州街道の坂だが)を下って戻り、奥州街道との追分から日光街道を北に向う。街道から右へ下る亀の甲坂もあってまあまあ少しは疲れはとれたか。

 その先で国道119号と合流する。4号とやっと別れたとほっとしていたら今度は119号と離れず日光までの道中だ。彼女(彼?)には歩道がしっかりとついているのと、車が少ないのを望むだけだが、どっちも無理な注文というものだろう。上戸祭交差点を過ぎると様々な木の並木道が始まる。今はちょうど紅葉が見頃だ。(上の写真) 日もだいぶ傾いてきたので、文星大学前の上戸祭の一里塚跡(ここは2基ともしっかりと残っている。)で打ち止めとして、バスで宇都宮駅に向った。けっこう疲れた。宇都宮泊りにしなければここまでは歩かなかっただろう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1589 小金井の一里塚跡 【ルート地図】の①

塚の間が旧日光街道なのだが、やけに狭い感じがする。江戸から22番目の一里塚。

Img_1588 説明板

Img_1598 慈眼寺入口の番人か

Img_1600 慈眼寺

八代将軍吉宗が日光社参の時に休憩所とした寺。

関東八十八カ所霊場第20番札所。

Img_1603 慈眼寺観音堂

弘法大師の作と伝える千住観音像ほか、延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。

Img_1604 鐘楼

Img_1606 金井神社

小金井宿の鎮守

Img_1607 説明板

Img_1609 小金井宿本陣跡(大越家)

門だけが残る。小金宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒だった。

Img_1610 本陣の向いの蔵造りの旧家

もとは呉服屋だったとか。

Img_1613 蓮行寺

将軍の日光社参の際には宇都宮城主がこの寺で出迎えた。

Img_1616

薬師堂(上町公民館のところ)

本尊は行基の作との説もある。

Img_1619 少し先のパチンコ店の駐車場から左に旧道に入る。

Img_1624  旧道

ずっと延びていて、下石橋の一里塚跡まで通じていると期待したが・・・。

Img_1633 石橋消防署の手前で行き止り。

正面の雑木林が江戸から23番目の「下石橋の一里塚跡」だろう。《地図

Img_1639 立派な長屋門

「豚カツ」の店?

Img_1641 夕顔橋の石仏群 《地図

国道に背を向けて立つ、地蔵・庚申塔・十九夜塔・観音像など10体の石仏。かつては街道沿いにあったのをここに集めたのだろう。夕顔橋とはロマンを感じさせる名だが、ここに橋があったのだろうか。今は夕顔、朝顔はもちろん何の風情、情緒もない所だが。

Img_1650 愛宕神社

社殿の下は愛宕山古墳というが、それほどの高さはない。

Img_1649 二十三夜塔

弘化4年(1847)の建立

Img_1654 石橋宿脇本陣跡 《地図

右の伊沢写真館。

石橋宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒

Img_1659 本陣跡

伊沢茶舗

Img_1661 開雲寺

将軍の休憩所とされた寺。将軍家から下賜されたとされる葵の門入りの湯釜が伝わる。境内左手に「三体地蔵尊堂」がある。

Img_1665 三体地蔵尊堂

毎年9月23日に「三体地蔵尊大縁日」が開かれる。

Img_1666 街道沿いに一部が欠けたり磨り減った石仏たちが虎ポールでガードされている。

Img_1674 下古山の一里塚跡(24番目)あたり

下古山交差点の南側

Img_1679 ラーメン屋らしい。

暗く、暑苦しそうで入る気がしないが、中はそうでないのだろう。

Img_1681 鞘堂地蔵尊 【ルート地図】の②

室町時代の天授6年(1380)、下野の両雄宇都宮基綱と小山義政の「小山・宇都宮合戦」で、宇都宮軍が敗れて300人以上が全滅した。村民が戦死者の刀の鞘を集めて堂を作り、供養のための地蔵を安置したという。

鞘堂はこのあたりの地名にもなっている。

Img_1682 由来

Img_1685 鞘堂地蔵尊

今は頭のみが安置されている。胴体はどこかへ持ち去られたのか、壊れてしまったのだろうか?

Img_1689 星宮神社

鞘堂の鎮守

Img_1694 茂原観音道標

下野三十三観音霊場第20番札所。茂原観音へはここから東方向へ1.5㎞もないか。

Img_1695 街道の左側は陸上自衛隊北宇都宮駐屯地

Img_1699 雀宮宿本陣跡

「大和田内科胃腸科」の看板下に、「雀宮本陣跡」の石柱だけが立っている。

雀宮宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒。「雀宮一里塚」(25番目)は雀宮5丁目付近にあったらしいいが痕跡をとどめず。

Img_1702 脇本陣跡

こちらは立派な黒門と白壁の家。

Img_1708 馬頭観音

下には小さな「馬力神」と「生駒神」が立つ。生駒神も馬の神のようだ。

Img_1709 雀宮神社 《地図

宿の名前の由来になった神社で、「雀」の由来は  ①長徳元年(995)に陸奥守に任ぜられた藤原実方のあとを追った妻の綾女がこの地で病没し、綾女の持っていた宝珠を埋め社殿を建てた。その2年後、陸奥の地で死んだ実方の霊魂が雀となって飛来し、数々の奇瑞を生じたので二人を合わせて祀り、雀宮と称した。②雀が村人を救ったという伝説。③道鏡が納涼のため造った亭を「すゞみの宮」と称したのが転訛したという説。などがあるそうだ。②は具体的な内容に乏しく、③も道鏡がこの地で相変わらず納涼の館を建てるほどの権勢を保っていたとも思えない。一番伝説的な①としておくのが由来話としてはよろしかろう。

小倉百人一首の藤原実方の歌 「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」

徳川将軍の日光社参でこの神社に参詣するのが例になっていたという。

Img_1714 寿鶴(すず)薬師堂(バス停寿鶴薬師堂前) 《地図

寿鶴とは何か、人の名か? 由来が分からず。

堂の回りをダンプの工事人が掘り起こしていた。堂はなくならないと思うが。

Img_1716 菅原神社

Img_1722 江曽島の一里塚跡(26番目)あたり

「一里交差点」・「一里」バス停・ラーメン屋「一里」に名をとどめているが、塚は跡形も無く、説明板もない。

Img_1729 不動前交差点 《地図

正面に小さな不動堂が立つ。左が日光街道、奥州街道で、直進が国道4号

Img_1731 説明板

Img_1734 不動明王

Img_1737 蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑 (東武宇都宮線を渡ってすぐ右側)

居酒屋「君ちゃん」は、「君平」にちなんでつけた名か?

「勅旌」なんてわけの分からん言葉だが、ざっくばらんにいうと「天皇から褒められた」碑か。宇都宮は蒲生君平の故里であちこちにゆかりの所がある。

Img_1738 説明板

Img_1749 台陽(たいよう)寺

右が子安地蔵尊堂

Img_1746 子安地蔵尊の由来

Img_1747 子安地蔵

宇都宮城主戸田氏の守り地蔵尊だったとか。

Img_1750 熱木(ねぎ)不動尊 《地図

宇都宮氏の祖の藤原(宇都宮)宗円が奥州征討の際に、城山村多気山山頂にて戦勝を祈願して造った3体の不動明王像のうちの一体だそうだ。公民館になっていて堂内に不動尊の姿は見当たらなかったが。

Img_1752

由来

Img_1759 天満宮(一向寺の前)

金ちゃんはここでもお勉強だ。

Img_1762 一向寺

世に異変が起こる前には、汗をかくという、「汗かき阿弥陀」(国重文)が安置されている寺。日曜日には開帳しているそうだ。

Img_1760 由来

Img_1766 報恩寺

本堂は戊辰戦争で焼失したが、茅葺きの山門は寛永年間(1624~43)の創建時のままという。戊辰戦争で戦死した薩摩藩など官軍の墓がある。

境内を熱心に見ている女子中学生?がいた。何に興味があるのか話を聞いてみたかったが、挨拶だけにしておいた。

Img_1774

Img_1779 戊辰の役戦士の墓

ここ六道の辻で戊辰戦争の大激戦があった。旧宇都宮藩士の士族や、地元の人たちによって建てられた旧幕府軍の戦死者の墓。

Img_1775 六道の辻から六道閻魔堂 【ルート地図】の③

Img_1780 説明板

Img_1790 大谷石の蔵造りの商家

Img_1798 宇都宮宿問屋場、本陣跡あたり(伝場町交差点に東) 《地図

伝馬町本陣青木家(上野家?)は200坪近い建物だった。屋敷の庭にあった大イチョウだけが往時の面影を偲ばせる

宇都宮宿は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で、池上町のみずほ銀行あたりに本陣石塚家があった。

Img_1800 説明板

Img_1803 朝日坂 池上町交差点あたりから東へ下る国道119号(奥州街道)。【ルート地図】の④

Img_1805 高札場跡あたり

Img_1804 説明板

Img_1812 蒲生君平生誕地

日光街道と奥州街道との追分の小幡郵便局の所。

Img_1811 説明板

Img_1807 追分

Img_1821 上野商会

大谷石の塀と蔵と格子窓。追分の本陣ともいう上野家とつながる家だろう。

Img_1824 亀の甲坂(坂下方向) 日光街道から東に下る坂。【ルート地図】の⑤

Img_1828 Img_1838

「亀の甲」はこれだろう。

Img_1835 延命院地蔵堂(宇都宮市の有形文化財)

鎌倉時代の作という、延命地蔵さん(栃木県の有形文化財)の顔は堂内で拝めず。

延命院は蒲生君平が幼少のころ学問を学んだ所で「蒲生君平修学の寺碑」がある。

Img_1834 地蔵堂説明板

Img_1832 延命地蔵菩薩説明板

Img_1841 桂林寺・琴平神社

桂林寺には蒲生君平の墓がある。

門前の交差点あたりに、「宇都宮の一里塚」(27番目)があったようだが痕跡、説明板なし。

Img_1848 「四季の器」たまき

「最中」とあるから菓子屋と思ったが。

Img_1849 勝善神(国道119号との合流点)

これも牛馬の守り神。

Img_1854 薬師堂(長岡街道入口バス停先の左)

Img_1861 高尾神社 《地図

境内左に地蔵堂がある。江戸時代までは神と仏は一緒に祀られていた名残りだろう。

Img_1858 高地蔵尊

「妙吉安産子育高地蔵尊」の額が架っている。昔、村の大男が自分の背丈を記念に残すために、自分の座高の五尺の石塔を建てたという。石塔は地蔵の後ろのものか?座高五尺とは大巨人だが。

Img_1859 妙吉塚(高地蔵堂の後ろ)

塚の上には宝篋印塔が立つ。円墳だったのか?

Img_1865

上戸祭町交差点を越えると、さまざまな木の混ざる並木道が始まる。桜が一番多いようだ。

Img_1868 上戸祭の一里塚跡(東塚) 文星大学バス停の手前 《地図

江戸から28番目

Img_1870 説明板

Img_1869 西塚

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2009年11月25日 (水)

日光街道(間々田宿→小山宿→新田宿)

2009年11月23日

Img_1552_2  間々田駅(JR宇都宮線)・・・(国道4号)・・・乙女不動原瓦窯跡(乙女かわらの里公園)・・・泉龍寺(乙女不動)・・・国道4号・・・逢の榎・・・琴平神社・・・龍昌寺(寝起不動)・・・間々田宿問屋場跡(東京から72k地点)・・・宿本陣跡(間々田三郵便局前)・・・間々田八幡宮・・・間々田の一里塚跡あたり(間々田郵便局あたり)・・・千駄塚古墳(浅間神社)・・・長屋門・・・西堀酒造(栗宮南交差点)・・・安房神社・・・栗宮交差点・旧道(県道255号)・・・天満宮・・・小山の一里塚跡あたり(天神2-1)・・・千手観音堂・・・須賀神社(七つ石)・・・妙建寺・・・小山市役所・小山評定所跡・小山御殿跡・・・常光寺・・・明治天皇小休止所跡碑・小山宿脇本陣跡・・・本陣跡あたり(中央町2-10)・・・問屋場跡(常陽銀行あたり)・・・小山市まちの駅「思季彩館」・・・元須賀神社・・・興法寺・・・愛宕神社・・・(JR両毛線)・・・日枝神社(大ケヤキ)・・・喜沢の追分・蛸屋菓子店・・・旧道・・・喜沢の一里塚跡・・・国道4号・・・新田宿本陣門・・・吉田神社跡石柱・羽川薬師堂(雨引観音・十九夜塔)・・・旧道・石仏群・・・国道4号・・・小金井駅(JR宇都宮線)

 快晴の休日で紅葉狩りだろうか、東武日光線の快速急行は家族連れ、外人さんのグループなどで満席だ。こちらは東武動物公園駅から鈍行、久喜駅から宇都宮線に乗り継ぐ。どちらもガラガラだ。今時、街道歩きなんてのはマイナーな遊びなのよ。間々田駅から日光街道を突っ切り、小山市立博物館の隣りの乙女不動原瓦窯跡へ向う。公園風に思ったよりきれいに整備されていた。隣りの泉龍寺の門前には乙女不動像が立っている。所詮、乙女と不動明王とは結びつかず、不動像も中途半端で感心しない出来栄えに感じたが。

 街道に戻り、逢の榎の先から左へ間々田八幡宮へ向う。八幡池や相撲の土俵もある境内は広い。説明板の前でメモを取るリュック姿の中年の女性がいた。デジカメで撮った方が楽で正確なので、「書くのは大変でしょう。」と余計なことを言ってしまった。彼女も日光街道を歩いているのだろうか。

 安房神社の先で旧道は国道4号と分かれ、小山市街地へと直進して行く。歩道と車道の段差がなく、車がひっきりなしに通る道は見るべき所もなく飽きてくる。このあたりの地名「神鳥谷」の読み方が面白く、由来などを考えて退屈しのぎになったのがせめてもの救いか。街道を離れ、持宝寺、須賀神社から小山市役所の小山評定所跡に寄る。市役所前の小山御殿跡はちょうど発掘調査中で掘り起こされている。

 小山駅近くのラーメン屋で盛りのいいラーメンを昼食とする。ライスも付くそうだが半日近く歩いているとはいえそうは食えない。脇本陣家の門と、商家風な思季彩館にしか宿場の感じが残っていない小山宿を抜け、ひたすら北上する。喜沢南交差点の先で右へ細い旧道に入る。右には東北新幹線が走る。しばらく行くと左の林の中に喜沢の一里塚跡が残り、右(東)塚は民家の前に少しこんもりした所か。(上の写真は通り越した所から振り返ったもの。)

 その先は何も無く、国道4号に合流すると新田宿なのだが、宿場風情は残らず、本陣の門だけがぽつんと立つだけ。吉田神社跡の石柱の奥に薬師堂と墓地がある。墓地の大量な落葉を一人でかき集めて清掃しているおばさんとしばし雑談し小休止とする。銅市工業の前から左に入り、馬頭観音道標、青面金剛像などが並ぶ旧道に入る。青面金剛像には「新田宿下組講中」と刻まれていて、新田宿があったことを納得する。この先は行き止まりの標識が置かれ、雑草の生えた道となる。国道4号に戻って夕日を正面から浴びている小金井駅に向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1424_2 乙女不動原瓦窯跡(乙女かわらの里公園)

古代、下野薬師寺、下野国分寺などの瓦を焼いた窯場。

Img_1420 説明板

Img_1418 案内図

Img_1425 泉龍寺

右に乙女不動像

Img_1426 乙女不動

乙女とも不動ともつかない中途半端な像だと思うが。

Img_1432 逢の榎 【ルート地図】の①

江戸と日光の中間点(ほぼ18里)で「間の榎」呼ばれていたのが「逢の榎」に変わった。祖師堂が建てられ縁結びの榎とされた。間(あい)→逢い→会い→愛?

Img_1428 説明板①

Img_1429 説明板②

Img_1436 龍昌寺

境内に面白い由来のある「寝起不動尊」を祀っている。

慶安4年(1651)年、徳川家光の遺骸を日光廟に葬送の際に安置所が設けられた寺。

Img_1438 問屋場跡(左側)

東京から72k地点の標柱の所

Img_1437 説明板

一般的な説明のみ。

Img_1443 本陣跡(間々田三郵便局前)

間々田宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠50軒だった。

Img_1442 説明板

これも一般的な説明だけ。

Img_1455 間々田八幡宮

天平年間の勧請で、俵藤太(藤原秀郷)が平将門の乱平定を、源頼朝が奥州藤原氏征討の戦勝祈願をした社。

Img_1456 説明板

Img_1453 Img_1454 同時に建立された狛犬だろうか、年を経てずいぶんと顔つきが変わってしまったようだ。

Img_1451_2 八幡池

5月に「蛇祭り」が行われる。

池の畔には芭蕉の古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑がある。むろんこの池のことではないが。

Img_1452 9月に奉納相撲があるそうだ。

Img_1449 力石

3人で友沼宿から持ち帰ったという、110kgの石。江戸時代の力持ち、あの三宮卯之助なら一人で持ち帰ったかも。友沼も宿と呼ばれていたのか。

Img_1450 説明板

Img_1462  千駄塚古墳(浅間山古墳) 【ルート地図】の②

直径70m、高さ10mの円墳。6世紀代の築造と推定される。墳頂に浅間神社の社殿がちゃっかりと乗っている。

Img_1461 説明板

Img_1466 長屋門

Img_1468 西堀酒造

銘柄が「門外不出」・「奥座敷」、味はいざ知らずだが、あまり飲む気になれない名だ。出されれば何でも飲むくせに。

Img_1471 安房神社参道

Img_1473 安房神社

崇神天皇の時の創建という。ここも藤原秀郷が戦勝祈願した社。

Img_1477 日光街道は直進(栗宮交差点)

この先の地名は「神鳥谷」で「ひととのや」、「しととのや」との説もあり、小山市の内部でも説が分かれていたそうだ。詳しくは、このサイトの「神鳥谷について」参照。

神が人になったのは「人間天皇」を連想させる。

Img_1479 天満宮

Img_1481 説明板

水戸の徳川斉昭を一喝したという、黄門さまも顔負けの青蓮寺の気骨ある住職の話が面白い。

Img_1483 持宝寺

山門に「弓削道鏡根本開基寺」とある。

Img_1486 梵鐘

「孝謙天皇」と天皇名を刻むことから戦時中の供出を免れたという運のいい?鐘。孝謙天皇は道鏡のパトロンで道鏡を寵愛し、皇位にまでつけようとした女帝。下世話にいうと愛人だったとも。

Img_1485 説明板

Img_1487 千手観音堂(持宝寺前)

観音さんの顔を見ようとしたが、ブロック塀に囲まれていて入口がない。と思う。

Img_1488 須賀神社

天慶3年(940)、平将門の乱を平定した小山氏の祖、藤原秀郷が京都八坂神社から勧請。

Img_1490 七つ石(夜泣き石)

結城の城内に運ばれ、哀れげに泣いたという石らしくない我がままで、弱虫な石が七つ。叩き割ってしまえばよかったものを。

Img_1489 説明板

Img_1505 小山評定所跡碑(市役所前庭)

徳川家康が会津の上杉征討を中止し、西の石田光成との戦(関が原の戦)に方向転換した小山評定が行われた地。

Img_1503 説明板

Img_1502 小山御殿跡(小山評定の地の前面) 【ルート地図】の③

徳川秀忠が日光社参用の休泊施設として造営。現在、発掘調査中。

Img_1499 説明板

Img_1500 小山御殿のイメージ図

Img_1515 常光寺

Img_1517_2  阿弥陀如来像

戊辰戦争の弾痕が台座の後部に残るというが、見てもはっきり確認できず。

Img_1516 説明板

Img_1509 明治天皇小休止所跡碑(中央町2-11)

奥が脇本陣跡

Img_1511 脇本陣跡(若松家)

唐破風の風格ある門だが下が隠されていて惜しい。小山宿に残るのはこれだけか。

Img_1512 本陣跡(常陽銀行前あたり)・問屋場跡(常陽銀行のあたり)

いずれも説明板も痕跡もなし。小山宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒だった。

Img_1514 思季彩館(小山市まちの駅)

小山市が旧八百忠跡の敷地と古商家、石蔵を借り上げて作った観光交流センター。奥に石蔵が続いている。

Img_1521 元須賀神社(城山町2-8)

須賀神社はもとは小山市中喜久にあったというから、この神社ではないだろう。では「元」は何か?

Img_1524 興法寺

Img_1525 縁起

Img_1527 十三層石塔(興法寺境内)

もとは東京浅草の浅草寺に数百年間あったものだそうだ。

Img_1532_2 貞応2年(1223)城主小山朝政が山城国の愛宕神社を勧請して創建したという。

狛犬は天明5年(1785)の奉納。

Img_1534 ここを左へ曲がると、あの「小山遊園ちぃ~」があったのだ。今は「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」になっている。「東京都知事選」後の桜金造はどうしているのか、最近テレビでは見かけないようだが。

Img_1540 日枝神社参道のケヤキ

樹齢400年以上のケヤキが3本。これは説明板の「イ」の木。

参道と社殿の間を国道4号が走っていて車がひっきりなしに通り横断が困難。横断歩道をつけてくれよ。

Img_1536 説明板

Img_1541 日枝神社

Img_1543 喜沢の追分(喜沢南交差点)

飯塚宿・壬生宿を通り、楡木宿で日光例幣使街道と合流する壬生道との分岐点で、茶屋があった。 横断歩道の向こう側に供養塔、馬頭観音が並ぶ。その上は蛸屋菓子店の看板。

Img_1544 天明5年(1785)の供養塔道標と明治時代の馬頭観音

Img_1545 蛸屋菓子店

創業元禄11年(1698)、発祥の地は宮城県仙台。「蛸」は、伊達の殿様が魚屋は魚屋らしくなく、菓子屋は菓子屋らしくない名前をつけよと命じたからともいうそうだ。           

Img_1546 右に入る

Img_1550 喜沢の一里塚跡(西塚) 【ルート地図】の④

Img_1551 東塚の名残か

Img_1558 新田宿本陣青木家の四脚門

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒だった。

Img_1560 吉田神社跡碑

Img_1561 羽川薬師堂 【ルート地図】の⑤

江戸時代中期の建立で、昭和60年に再建。堂内の薬師さんは厨子の中で見えず。

南側にこの地域の天領を支配した幕府代官陣屋があった。

Img_1562 十九夜塔・雨引観音とも安産、子育ての女性の守り神と仏。

坂東34ヵ所観音霊場の第24番に雨引観音(雨引山楽法寺・茨城県桜川市)がある。

Img_1564 旧道へ左に曲がる。

Img_1573 ここを直進する。途中に行き止まりの標識が道路上に置かれている。

「ドーイチ」の倉庫の後ろに馬頭観音道標、庚申塔などが並んでいる。

Img_1566 馬頭観音道標(寛政12年(1800)の建立)

側面に「左 おざく道」、鹿沼市石烈(おざく)への道のようだ。

Img_1567 庚申塔

中央の青面金剛庚申塔の側面に「新田宿下組講中」とある。数少ない新田宿の名残の一つだろう。左の宝暦2年(1752)の六十六部供養塔には「左おざく こくふんじ」と刻まれているそうだ。「こくふんじ」はここから北西に4kmほどの下野国分寺

Img_1582 西日を浴びている小金井駅(正面)に向う。あまり活気のない駅前の通りだ。

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2009年11月24日 (火)

日光街道(栗橋宿→中田宿→野木宿)

2009年11月20日

Img_1315 南栗橋駅(東武日光線)・・・旧道・・・(東北新幹線)・・・(国道4号)・栗橋大一劇場・旧道・・・上通神社・・・会津見送り稲荷・・・(国道125号)・・・ほうろく(焙烙)地蔵・・・顕正寺(池田鴨之助の墓)・・・浄信寺・・・深廣寺(六角名号塔)・・・福寿寺・・・静御前の墓・・・栗橋宿本陣跡池田家・・・栗橋関所跡・・・八坂神社・・・関所番所屋敷跡・・・利根川橋・茨城県古河市・・・房川渡しと中田関所跡説明板・・・中田宿説明板・・・鶴峯神社・・・光了寺・・・円光寺・・・本願寺・・・中田の松並木跡・・・(JR宇都宮線踏切)・・・茶屋松原跡・茶屋新田・香取神社・・・原町の一里塚跡(古河二高)・・・台町三叉路・・・肴町通り・・・古河宿本陣跡・高札場跡・・・・二丁目曲(かね)の手通り・・・よこまち柳通り・・・国道4号・・・野木神社・・・(野木宿説明板・野木の一里塚跡)・・・満願寺・・・浄明寺・・・観音堂①・・・愛宕神社・・・観音堂②・・・法音寺・・・友沼八幡神社・・・馬頭観音道標・・・乙女の一里塚跡あたり・・・若宮八幡神社・・・乙女八幡宮・・・仏光寺・・・間々田駅(JR宇都宮線)

 東武線の車内では前の座席の7人中6人がマスクをしている。予防接種の順番はいつ回って来ることやら。流行も下火になってからのことか。時代遅れの青年?にはお似合いか。そんなつまらないことを考えながら南栗橋駅を降りる。

 昨日の冷たい雨の真冬並みの寒さとはうって変わっての好天だ。国道4号の左下を進み、国道4号の合流点の栗橋大一劇場の前から旧道に入る。会津見送り稲荷を過ぎ、国道125号をくぐり栗橋の町中に入ると、右側にほうろく地蔵が出迎えてくれる。栗橋駅前の小公園風の静御前の墓へ寄り、旧道へ戻りちょっとは昔の面影がある栗橋宿を行く。狛鯉の八坂神社から長い利根川橋を渡ると古河市に入り中田宿となるが、かつての宿場の家並みは移転し、利根川の河原と土手の下になって跡形もない。

 真っ直ぐな単調な道を古河宿を目指す。古河二高の校庭隅に残る原町の一里塚跡を過ぎ、台町三叉路から古河宿、古河城下となる。ここは今年の6月に1日かけて回っているので、街道を足早に進む。よこまち柳通り(上の写真)から古河宿を抜けるまでは快調だったが、この先、思い違いなどでいくつかのポイントを通り過ぎたり見逃してしまってどっと疲れが出た。

 野木神社の参道先の国道沿いが野木宿だが宿場の痕跡すら残っていない。(野木宿案内板・野木一里塚説明板があるらしいが見落とす。) ここからは長い国道4号歩きとなって見るべき物も少なく、何か見つけて右へ左へと広い車道を横切りながら進むのは疲れる。(横断歩道も所々にはあるのだが先へ行ったり、戻ったりで大変だ。) このあたりの街道沿いは小さな石柱の文字馬頭観音(道標)と女人講中が建てた十九夜塔が多い。

 友沼の八幡神社を過ぎると小山市の乙女に入る。乙女八幡宮の社殿前をちょうど下校時間で、乙女小学校の児童がにぎやかに帰って行く。少し遠回りに感じるが車道を避けて神社の境内を通学路としているのか。まあ正真正銘、紛れもない乙女と童子たちだろう。小山駅まで行ける時間だが、こちとらもこのあたりで切り上げて帰ることとして間々田駅に向った。

  *参照:「坂道散歩・古河市」(2009年6月29日)

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1180 栗橋大一劇場 《地図

「祝オープン」の花輪が並ぶストリップ場。半年ほど休店して10月に再開したようだ。栗橋駅からはかなり離れているのでタクシーで来るのか、国道4号で車で来る客が多いのか。 まあどうでもいいこった。開演は11時から、まだだいぶ時間があるので客らしき人物、踊り子、劇場関係者らしき姿はなしか。

Img_1186 会津見送り稲荷 【ルート地図】の①

江戸時代に江戸に向う会津藩士が道に迷った。するとどこからともなく白髪の老人が現れて道案内をして助けてくれた。後日、この老人が狐の化身と分かり、ここに稲荷社を祀ったという。本尊は女性らしき人物が狐にまたがるというものらしいが、 民家の庭の中なので、ここからで遠慮する。

昔はこのあたりの土手に狐が多く棲み、「土手の狐穴は、そこから漏水して土手が切れるから埋めるように」との幕府役人が命じていたという。

Img_1191 焙烙(ほうろく)地蔵堂

関所(栗橋関所、中田関所)破りで、火あぶりの刑に処せられた者を供養するために祀られたという。ここは処刑場跡という。

東京文京区の大円寺には、「八百屋お七」を供養する焙烙地蔵が、日光街道草加には、「火あぶり地蔵」がある。

Img_1192 説明板

「炮烙」の字を使っている。

Img_1193 ほうろく地蔵

「エボ地蔵」ともいわれ、エボ取りにもご利益があるそうだ。イボ(疣)のことだろう。

Img_1197 地蔵の足元には供養のほうろく(焙烙)が奉納されている。

Img_1199 顕正寺

栗橋宿を開き、代々本陣役をつとめた池田鴨之助の墓がある。

くりはし八福神」の毘沙門天。七福神に吉祥天を加えているのだ。唯一の女性神だった弁財天が怒るかも。

Img_1201 説明板

Img_1207 深廣寺の六角名号塔

高さ3.6mの供養塔。「南無阿弥陀仏」と刻まれている。二代住職が伊豆大島から大石を持ち帰り、承応から明暦の間に千人供養塔を20基建立した。明和3年(1766)には九代住職が三千人供養塔を1基建立した。

「くりはし八福神」の恵比寿

Img_1206 説明板

Img_1204 浄信寺

「くりはし八福神」の寿老人

Img_1214 福寿寺

「くりはし八福神」の福禄寿

Img_1218 静御前の墓(栗橋駅前)

享和3年(1803)に関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」を建立したとされる。正面は新しい石塔。もとの石塔は左の石祠に入っている。静御前の遺骸を葬ったという高柳寺は中田宿の光了寺へ移転した。

右脇には文化3年(1806)に村人が建てた江戸の歌人の座泉の歌碑もある。

Img_1216 説明板の一部

Img_1219 もとの「静女之墳」

Img_1225 栗橋宿の旧家

今は不動産店

Img_1226

Img_1229 脇本陣跡虎屋?

Img_1231 本陣跡池田家(栗橋町北2-7) 《地図

Img_1230 説明板

Img_1233 栗橋関所跡 【ルート地図】の②

利根川対岸の中田の関所から移された日光街道唯一の関所だった。

Img_1235 説明板

Img_1236 周辺図

Img_1237 房川(ぼうせん)の渡し

船渡しだったが、将軍の日光社参の際には舟橋が架けられた。51艘の舟を並べて利根川を渡っている。栗橋と対岸の中田の間の利根川を房川と呼んだ。その訳は諸説あって不明という。

Img_1238 八坂神社

栗橋宿の総鎮守。神体は慶長年間(1596~1614)に利根川の洪水の時に鯉と亀とが運んできたものと伝えられている。亀の像は見当たらなかった。狛亀があってもいいだろうよ。

Img_1243 狛鯉

撫でると除災、招福の霊験あらたかとか。

Img_1242 台座の説明板

Img_1249 関所番士屋敷跡(北2-17) 《地図

栗橋関所の番人の足立家の屋敷。現在も足立家の住居。

Img_1250 説明板

Img_1253 利根川橋

牡丹灯籠の「栗橋宿」で、伴蔵がお峰を殺したのはどのあたりか。

Img_1262 利根川橋を渡って中田宿へ

「房川渡・中田関所説明板」が左の電柱の向う立つ。街道は真っ直ぐに古河宿へと伸びているが見所は少ない。

もとの栗橋の渡し場前に法華坊があったことから、「坊前の渡し」と呼ばれていたが、渡し場の移転で、「坊川渡し」となったという。

Img_1263 説明板

Img_1266 火の見の下に中田宿説明板がある。

中田宿は栗橋宿と15日交代で継ぎ立て業務を行っていた合宿。宿場の商家はほとんどが農家と兼業だった。

今は宿の面影は皆無。宿場の名物は鮒の甘露煮だったそうだ。

Img_1267 説明板

Img_1270 鶴峯八幡神社

源頼朝が奥州征討の際に立ち寄り、戦勝を祈願した地。

Img_1271 説明板

Img_1276 光了寺

静御前ゆかりの寺で、静御前が後鳥羽上皇から賜ったという 「蛙螟龍(あまりりゅう)の舞衣など遺品が保存されている。静御前の遺骸を葬ったという栗橋宿の高柳寺が、利根川改修のため当地に移転した。

Img_1275 説明板

Img_1282 中田の松並木跡

若い松が茶屋新田から古河宿まで所々に植えられている。

Img_1285 茶屋新田・茶屋松原

将軍徳川秀忠が日光参詣の折に仮設の茶屋を設けた所という。

Img_1288 説明板

Img_1290 往時の松並木

テレビの「水戸黄門」に出てきそうな光景だ。昭和になって道路拡張や戦時中の松根油の製造などで伐採されてしまった。

いくら石油が無いからといって、松根油でアメリカと戦っては所詮勝ち目はないよ。

Img_1291 原町の一里塚跡(古川第二高校校庭) 【ルート地図】の③

日本橋から16番目の一里塚

Img_1292 塚らしき上に木が3本

Img_1310 肴町通り 《地図

右が「米銀」の蔵、左奥に「坂長」

Img_1306 由来

Img_1305 和洋酒問屋「坂長」

Img_1312 古河宿本陣跡(足利銀行前) 【ルート地図】の④

Img_1320 野木神社参道

Img_1323 野木神社

仁徳天皇の時代の創建と伝わる。延暦年間(782~805)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷平定の帰途に社殿を建立したという。

Img_1321 由緒

Img_1328 社殿前の公孫樹(こうそんじゅ・大イチョウ)

坂上田村麻呂の植樹と伝える、「とちぎ名木100選」の木。

Img_1327 乳がよく出て、子が元気に育つようにと米糠(ぬか)と白布で型どった乳房が大イチョウの前に奉納されている。

「たらちねイチョウ」だろう。

Img_1324_2 説明板

Img_1333 芭蕉墳(社務所前)

Img_1337 中央に「芭蕉墳」、左右に句が刻まれている。

墳は墓と思ってしまうが。

Img_1334 冬の遊水池の様子を歌った句だそうだ。

Img_1332 算額の問題と解答

算額とは和算の問題と解答を額にして神社に奉納したもの。問題を読んでいるだけで頭が痛くなりそうで、答えを考える所まではほど遠い。

野木神社の先に、野木宿本陣跡(野木宿説明板の所)、脇本陣跡(痕跡無し)、野木の一里塚跡(17番目の一里塚・小さな説明板のみ?)があるようだが、通り過ぎてしまった。古河宿からあまり離れていないので、もっと先と思っていたようだ。

Img_1339 満願寺

江戸時代までは野木神社の別当寺だった。門前に「十九夜塔」が立つ。栃木県には、女性の守り神の十九夜塔が多く、街道筋にいくつも見かける。「十九夜さま」と呼ばれて信仰が厚い(かった)ようだ。

Img_1340 道標

「是より太平山」らしい。

栃木市の太平山(345m)への道標だ。ここからは北西でかなり離れているが。去年、大中寺から太平山に登っている。「栃木市の坂」(2008年4月2日)に記載。

Img_1343 観音堂

右は女人講中の「十九夜塔」(嘉永3年の建立)

Img_1353 長屋門(秋元家?)

Img_1356 愛宕神社

Img_1360 観音堂

ここにも「十九夜塔」が2つと「二十三夜塔」

Img_1371 法音寺

友沼八幡神社の別当寺だった。

Img_1376 芭蕉句碑

「道ばたの むくげは馬に 喰われけり」

貞享元年(1684)の「野ざらし紀行」の旅で詠んだ句。諸本では、「道のべの・・・」となっている。

Img_1374 説明板

Img_1375 芭蕉翁

疲れているというより、充足感に満ちた表情に見える。

Img_1378 友沼八幡神社(法音寺の斜め向い)

友沼村の鎮守。徳川将軍の日光社参の時は、将軍御休所となった。このあたりからは正面に筑波山が見え、景勝の地になっていたという。

Img_1379 説明板

Img_1382 馬頭観音道標

乙女河岸、網戸(あじと)方面に向かう網戸渡船場道の道標を兼ねた文化10年(1813)のもの。台座には「これより左 乙女河岸 あじと さのみち」と刻まれているというが、はっきり見えず。

Img_1383 乙女の一里塚跡あたり(説明板なし)

歩道に「東京から69km」の標柱が立つ。江戸から18番目の一里塚。

Img_1385 木の根元には小鳥居と小祠が。

Img_1389 若宮八幡神社

左の覆屋の中に大日如来像が鎮座する。

Img_1388 大日如来

露座の石仏で「濡れ仏」と呼ばれ親しまれていた。「覆屋建立記念碑」によると、「宝永6年(1709)建立で満福寺の寺宝」とある。満福寺はどこにあるのか? 若宮八幡神社の別当寺で廃寺となってしまったのだろうか?

Img_1405 仏光寺

2代将軍秀忠から10石の寺領を与えられた寺。

Img_1404 乙女八幡宮 【ルート地図】の⑤

元禄16年(1703)に建立された現存する鳥居では小山市で5番目に古い石造鳥居。

Img_1398 説明板

Img_1403  乙女河岸(思川)で活動する商人たちからの崇敬も受けていたという。

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